第18話 官吏休息棟にて待機
実質、桃玄道士隊の長とも言える
一度義荘に帰宅し
そして現在依依は、
官吏休息棟は
通常
しかしどうやら官吏の全てが
ここ官吏休息棟に初めて足を踏み入れた依依はその事を強く感じた。
何故なら官吏休息棟は激務を抱えた者達が一時的に寝泊まりする為の場所であったからだ。
依依は顔色も悪く疲れ果て、フラフラとまるで夢遊病者のように官吏休息棟の小部屋に入っていく官吏を何人も目の当たりにした。
(むしろ兄様は仕事の虫だから例外なんだと思っていたけど)
どうやらそれは依依のとんだ勘違いだったようだ。
因みに官吏となり礼部で働く燈依。そんな燈依の住まいは城にほど近い場所。
(桃玄道士隊の稼ぎが少ないから節約してくれているんだろうな)
誰もが羨む高級官吏である燈依。
しかしその実は激務に追われ、家族にたかられ、自ら率先し節約に励むという生活。
(兄様ごめんなさい)
依依は自分の不甲斐なさを恥じると共に、いつか必ず燈依に恩を返そうと密かに誓う。
因みに事あるごとに反省し、精進しなければと思うが未だ目処は立たずである。
(って、兄様経由で自分の不甲斐なさを憂いでいる場合ではなかった)
依依はついうっかり緩んだ気を引き締める。
(
昼間、燈依の執務室で赦鶯が漏らした言葉を思い出し、依依は警戒を怠るまいと部屋の内側、両開きになった戸の前。立て膝の体勢を取り目を光らせる。
(緊張してきたかも)
依依は桃の木を削って作られた
「それはやはり桃の木なのか?」
「うわっ」
急に話しかけられ依依はその場でびくりとする。
(そうだ、居たんだった)
依依は今更ながら同じ部屋に存在する赦鶯の存在を思い出す。
あまりに静かですっかり同室している事を今まで忘れていたのである。
依依はキョンシーの気配を探りながら、赦鶯の質問に答えるべく口を開く。
「はい。桃の木は昔から邪気を払う木として有名ですから。鬼門に置いておけば魔除けにもなります。ついでに言えば、桃の木はキョンシーも苦手とする物ですのでご安心下さい」
(ただし、木だからね。火に弱いのが難点)
依依は心でそう付け加えておく。
何故なら依頼者である赦鶯を不安にさせない為だ。
因みに依依の思う最強の武器は
(それに分解して投げつける事も出来るし、剣の形に縛り上げていた紐でキョンシーを縛りあげる事も出来るしね。万能だし、私も欲しい)
とは言え、桃玄道士隊に所属する依依にとって銭剣は実用的な武器ではない。
何故なら依依はかつて、へそくりをかき集め試作品として
(うん、先生はやっぱり酷い大人に違いない)
依依はうっかり悲しい記憶が脳裏に蘇り、無念だと小さく呟く。
(いつか桃剣で
依依にとって銭剣とは、その武器欲しさについうっかり古巣に戻るべし。そんな選択を思い浮かべてしまうほど魅力的な武器なのであった。
「君のその服の背後に描かれている文様は、
赦鶯に再度話しかけられ、依依はチラリと顔を背後に向ける。
横になるだけ。必要最低限の場所しかない狭い部屋。木製で簡素な寝台の上、敷布団の上に座る赦鶯の姿が依依の目に映り込む。
赦鶯は顎に手を当てた状態で依依が身に纏う黒い道衣の背面を凝視し、気難しい顔をしている。
赦鶯が注視する依依の道衣の背中に描かれているのは黒と白。二つの
「楕円の太極図……しかもこの歪んだ穴はなんだ?」
更に興味深いといった顔になる赦鶯。依依の背中の刺繍をジッと長め、悩ましげな声を出した。
(む、どうみたって太極図ですけど)
依依はムッとする。さらに、ここで「はい、太極図です」と口にするのは、乙女の
「
「八卦は吉凶を定め、吉凶は
「つまりそういうことです」
(高級官吏様ならわかりますよね?)
多くを語らず悟れと案に示す依依。
自分が満身創痍になりながら必死に縫い込んだ刺繍が馬鹿にされ、少し気分を害しているのである。
「なるほど、道教の象徴でもあるからな。きっとそれは太極図なのだろう」
「きっと、ではなく太極図です。あっ、しまった不覚」
ついうつかり悟れという態度を取っておきながら、結局のところ自ら正解を口にしてしまった。依依は密かに勝負に負けたと悔しがる。
「それにしては、形が乱れているように思えるが。このような乱れで陰と陽の
(うわ、でたよ)
一度気にしだすとそこからさらなる疑問が沸き起こり、それを解決しようと次々に疑問を重ねた結果、失礼な態度をとりがち。
依依は自らの兄、燈依の厄介な性格を思い出し「この人もか」とうんざりする。
(ただ、悪気はないんだよね)
そこがなおさら
(つまり納得行くまで付き合うしかないってこと)
依依はどう答えるべきかと僅かに思案し、そしていい例えを思いついた。
「多少不格好でもこういうのは思い込みが大事ですから。病は気からと同じ並びで理解願います」
依依は自分で自分を庇う言葉を発する。そしてとても虚しく、悲しい気持ちになった。
(戦う前から敗北感満載。しかもキョンシーではなく生きた人間に……)
依依はぐったりとする。しかし負けてはならぬと顔を上げ、背中を隠すように赦鶯をしっかりと振り返る。
「それより、キョンシーが来ませんね」
話を逸らそうと、依依はとっておきの笑みと共にしっかりと赦鶯の顔を見つめる。
「あ、あぁ」
依依と目が合った赦鶯はこれ以上ないくらい目を丸くしたのち、慌てた様子で依依から顔を反らした。そして所在なさげにモゾモゾと組んだ足を動かしている。
「赦鶯様は、ご結婚されているんですか?」
一応警戒せねばと入り口の扉に意識を向けつつ、依依はどうせ暇なのだしと世間話を赦鶯に振ってみる。
「いや、まだだ」
「もてるでしょうに」
「どうだろうか」
赦鶯は興味がなさそうな顔で短く答えた。
(どうみても兄様同様、結婚適齢期っぽいのに)
依依はここでもまた兄、燈依を思い出す。
これは官吏に共通する事だが燈依は勉強ばかりしていたせいか、ゆで卵の白身のように色白だ。しかし通った鼻筋にくっきりとした二重のそこそこ見れる顔をしている。
そのせいで他人から燈依の事を、「良い男だね」と言われる度に、内心依依は「めんどくさいけどね」と言い返す日々。
そんな燈依は朝廷の役人である事も加え、それはもう女性にモテる。
しかし当の燈依は「まだやるべきことがある」などと結婚どころか女性との見合いを先延ばしにしている上に、ついには依依に結婚を進めるという有様だ。
(よくよく考えたら私なんかより兄様の方が、よっぽど結婚適齢な気がするんだけど)
燈依は現在二十ニ歳。普通であれば仕事も家庭もそろそろ充実して良い歳頃だ。
とそこでふと、もう一人の存在に依依は意識を戻す。
「赦鶯様っておいくつなんですか?」
「私は十八歳になったばかりだ」
「えっ、若いですね。ということは、いつ科挙の試験に
「十五の時だ」
「十五……赦鶯様……あっ、神童と呼ばれた。ほほう、あなた様が」
依依は赦鶯という名が世を騒がせていた事を思い出す。
その頃依依は十三歳。道士としての修行。ついでに言えば反抗期をこじらせ結果、人には言えない呪いの効力をふんだんに込めた霊符を作り……などと杏山で日々黒歴史……いや、修行に励んでいたので、あまりその話題に首を突っ込んだ記憶がない。
(というか、道士になった今もあまりあの頃と変わってないし)
世俗に疎い自分を振り返った依依は思った。
(今度からもう少しご近所付き合い。とくに近隣住人の奥様方との井戸端会議には積極的に参加したほうがいい)
情報は財産である。特に周囲から隔離され守られていた
その事に気付いた依依は妄想する。
『◯◯さんちの奥さんが妊娠したそうよ』
(安産祈願の霊符をオススメね)
『〇〇さんちの息子さんが科挙試験に望むらしい』
(学業成就ですね)
『〇〇さんちは最近悪運続きらしいわ』
(その家の間取りなどを風水で占ったのち、悪霊退散のお祓いを家ごとすべきかも)
やはり奥様の井戸端会議は侮れない。
依依は有益な情報を見過ごす事なく、儲け話につなげるために最優先事項に「井戸端会議」をひっそりと追加した。
「神童か。あの頃は確かにそうだったかも知れない」
かなりの間をおき、赦鶯の小さな声が部屋に響いた。
(えっ、何の話?)
妄想に浸っていた依依は一瞬何の事かわからずポカンとした顔になる。
しかし、すぐに先程自分が赦鶯を「神童」だと口にした事を思い出した。そして依依は慌てて言葉を返そうと、扉に向けていた顔を赦鶯に向ける。
「…………」
結果、依依は何も返せなかった。
何故なら、表情に乏しい人なので顔を見ても赦鶯が感じている気持が依依には全く理解できなかったのである。
ただ何となく声の感じから、自虐的っぽいなと依依はそう感じていた。
(もしかして、地雷を踏んだのだろうか?)
ここは素直に記憶を呼び覚ましてしまいごめんなさいと謝るべきか否か。
依依はどうしたらいいかわからなくなってきた。
「たとえ試験結果が良くとも、本当に私自身の価値が評価されるのはこれからだ」
形の良い赦鶯の口が小さく開き、ボソリと呟かれた言葉。
(なるほど。現状に満足していないと。でもやる気はあるという感じかな?)
そう悟った依依は明るく口を開く。
「そうですね。赦鶯様にはまだまだ先がありますもんね」
経験上、落ち込む人には否定より肯定がいいし、頑張る人にも励ます言葉の方が効果的であると、勝手に思う依依。ここでは励ましを選択しておいた。
すると、赦鶯はほんの少しだけ視線を動かし依依の顔を確認し、しかしすぐに床とにらめっこを開始してしまった。
(ふむ。これは極度の恥ずかしがり屋さんで決定か)
依依は赦鶯の一連の行動から密かにそう結論付けたのであった。
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