第10話 それぞれの一歩
「まだ目を覚まさぬのか。このままでは日が暮れてしまうではないか」
依依の脇で寝そべる凛玄を覗き込み、
「……でも正直、劉帆先生のせいですよ?」
「この馬鹿が悪い。
劉帆が口にした「あいつ」とは明らかに
「儂は少し散策してくる」
「えっ」
劉帆は杖を付きながら依依の傍を離れ、森の中に歩いて行ってしまった。
「うっ」
劉帆が姿を消した途端、凛玄が
(うわ、何というタイミングの悪さ)
依依は途端に気まずさに襲われる。
その気持ちを誤魔化そうと依依は早口で目覚めたばかり、焦点を合わせようと目を細めている凛玄に言葉で先制攻撃を浴びせる。
「あ、凛玄兄様。大丈夫ですか?劉帆先生、というか、私の祖父が大変失礼な事をしたわけですけれど、あの時の凛玄兄様はちょっと思いつめていたという感じで、とにかく危うい感じで、あのままだと私達はみんなで昇天しそうだったというか、えーとその……わっ」
依依は思いつくまま必死に紡ぎ出していた言葉を停止せざるを得ない。
何故なら依依は突然凛玄が伸ばした両腕に見事捕まってしまったからだ。不意打ちを食らった依依は、仰向けに寝転ぶ凛玄の体の上にしっかり抱きとめられる。
急に人の体温を身近に感じ、依依の心臓はかつてないほど大きく脈を打つ。
けれどすぐに自分の中の理性が総動員され、これは良くないことだと依依に訴えかける。
「ええと、凛玄兄様……これはまずいのでは?」
「嫌なら、この腕を振りほどけばいい」
耳元で囁くように告げられ、依依はピタリと固まる。
(本当はそうしなきゃいけないけど)
依依は凛玄から抱きとめられ、それを嫌だと思わない自分に気持ちが押され気味だ。
それでも依依は何とか力を振り絞り凛玄から自分の身を引いた。同時に名残惜しい気持ちが沸くのを自覚し、悲しみで顔をつい曇らせてしまう。
「お前はもう完全に俺との事は吹っ切れたんだな」
凛玄は不満げな声でがっかりしたような顔を依依に向ける。その表情に依依は胸をズキンと痛める。
(吹っ切れているわけないじゃない。だけど駄目だから)
依依は喉まで出かかった、心に沸き起こる本音を必死に
そんな依依に気付く様子もなく、凛玄は不貞腐れたような顔でゆっくりと体を起こした。
「凛玄兄様、日が暮れちゃいますよ。さ、行きましょう」
依依は未練がましく浮かぶ気持に蓋をして、わざと明るい声を出す。
そして依依は立ち上がろうとお尻を浮かした。
すると半身を起こした凛玄は再度依依の手を強く掴んだ。
「依依。全てを投げ捨て俺と逃げないか?」
「そ、それは……」
湖のほとりで依依が口にした質問。
それを今度は凛玄から投げかけられ、依依は戸惑う。
(出来ることならそうしたい)
でもそれは絶対に出来ないことだ。
何故なら依依は
(それが正しい道だもん)
正直水鏡天幻法を呪いの
「それにお前はこの前、杏玄流とお前。どっちが大事かって俺に聞いたけど」
「あ……」
依依は耳を塞ぎたい衝動に駆られる。
前回依依が凛玄にその選択を迫ったのは混乱していたからだ。
(それにあの時は凛玄兄様に、私達の置かれた状況を理解して欲しくて口にしただけ)
だから今更蒸し返されると、とてつもなく傲慢で恥ずかしい質問に思えた。
それに依依は自分の気持とは別に凛玄には迷わず杏玄流を選んで欲しいと願っている。何故なら杏玄流には今なお切磋琢磨して育った仲間が沢山残っているからだ。
仲間達は凛玄が杏玄流を継ぐ事を当たり前だと思っているし、将来凛玄が掌門となりその力になれる事を誇りに思っている。そして皆、凛玄が
(だからお願い。私を選ぶだなんて、絶対口にしないで)
依依は凛玄が掴む手から逃れようと、掴まれた自分の手首を後ろに強く引いた。しかし凛玄は逃すまいという勢いで依依同様、自分の身に引き寄せた。
その結果依依は半身を起こした凛玄の筋肉質な厚い胸板に頭を付け、すっぽりと抱きしめられる形になってしまった。
「やっぱり俺は杏玄流を捨てることは出来ない。すまない」
苦しそうな声で凛玄から吐き出される言葉。
依依は内心ホッとし強ばる体から自然と力が抜ける。
「うん、それが正しいと私も思う」
「それに天子様にお許しを頂いた以上、俺は
「……うん」
頭では凛玄が口にした選択は正しいこと。そう依依はしっかりと理解している。
けれど依依の中に残る未練がましい心が今の言葉の衝撃に耐えられなかったようだ。凛玄に抱きとめられた事によって安心感を感じ、今まで堪えていた気持がつい心から溢れ出す。そしてついに依依の瞳からポロリと涙が溢れ落ちる。
「依依、泣いてるのか?」
「な、泣いてない」
依依はこうなったら顔を見られるよりはマシだと、凛玄の胸元に自分の顔を押し付けた。するとそれは逆効果だったようで、依依の瞳からはどんどん涙が溢れ出し止まらなくなってしまった。
「依依……」
凛玄が依依を抱きしめながら、背中に回した手で依依の頭を撫でる。
「やっぱり俺は依依。お前が好きだ」
「私だって、凛玄兄様のことが好き。だけどそれは駄目な気持ちだってわかってる。でもそんなにすぐに嫌いになんてなれないの。それに思蘭公主様とお幸せにだなんて、そんなこと、まだ心からなんて願えない。ごめんなさい」
依依は凛玄に対し自分の気持ちを吐き出した。口にしてはいけない。
頭ではきちんと理解できているはずなのに、紡ぎ出した言葉を停止させる方法が今の依依には見つからない。
「どうして、俺達は一緒にいられないんだろう」
凛玄が小さく呟いた言葉は依依が何度も、何度も、誰ともなく問いかけた気持ちと同じだった。
「真面目に修行に励めばいつかお前と一緒になれる。そしてお前と共に杏玄流を
「私も、凛玄兄様に愛想を尽かされないようにって、だから頑張って修行をした」
「そうだな。俺達は確かにお互い想い合っているし、同じ未来に向かっていたのにな」
「うん」
木の葉がカサカサと擦れる音。鳥が羽ばたく音。頬を撫でる柔らかい風。そして凛玄に抱きしめられ安堵する依依の心。
「このまま、時が止まればいい。ついそう思ってしまうな」
「うん」
依依は凛玄の胸につけた自分の耳に伝わる大きな鼓動に心が自然に落ち着くのがわかる。
(いつまでもこうしていてはいけない。それはわかっているんだけど)
これが凛玄と共に過ごす最後の時間だと思えば思うほど、離れがたい気持ちが勝ってしまう。その結果、依依はなかなか自分の身を凛玄から引き剥がす事が出来なかった。
「俺が初めて好きになったのはお前だ」
「私の初恋も凛玄兄様だよ」
「たぶん死ぬ時思い出すのもお前だと思う」
「そうだね、私もそう思う。でも」
(運命はこの瞬間も変わるんだ)
依依は掌門に言われ、深く胸に刻まれた言葉を思い出す。
「先の事はわからないよね」
依依は自分に言い聞かせるように呟く。
凛玄と自分は確かにこの瞬間お互いを誰よりも想い合っている。けれど凛玄はこの先思蘭と婚姻関係を結ぶ。そうなれば共に過ごすうちに二人の気持が近づき、いつか本当の家族となる事は間違いない。
それに比べ依依は凛玄の中でどんどん後退していく存在でしかない。
(でもそれが正しい事だから)
人間は前に進むために、学び成長する生物だ。
だから今ここで別の道を歩む選択を取らねばならない二人が、この先もずっと今の気持ちを永遠に保つ事は難しい。
(その事を思うと悔しくて悲しい……けれど)
きっといつかそんな日が来る。
来なければならないのである。
依依は流れ落ちる涙と共に、凛玄の白い道衣の胸元を強く握る。
「そんな悲しい事を言うな。先の事がわからない。だったら俺がお前を想う気持ちが変わらない未来だってあるはずだ」
あくまで前向き。そして
(未来はわからない。でも今この瞬間は確実に、私も凛玄兄様がまだ大好き)
ちぎってもちぎっても元に戻そうとする力ばかり働く自分の厄介な心。そんな心に胸が苦しい。けれど依依はこれ以上泣くもんかと、凛玄の真っ白な杏玄流の道衣から顔を離す。
「最後にお前ときちんと話せてよかった」
凛玄が道衣の袖口で依依の涙を拭う。
「そうだね。仲違いしたままじゃなくてよかった」
依依は凛玄に優しく目元を拭われながら心からそう思った。
「ありがとう、凛玄兄様」
一度でも想いあった人をこの先もずっと憎むなんて嫌だ。だからこうして、最後にきちんとけじめをつける機会を与えられた事に依依は感謝する。
「依依」
凛玄は依依の体を自分から離す。
名前を呼ばれた依依は顔を上げ、凛玄の顔をしっかりと目で追う。
「好きだ」
凛玄の顔が依依に近づき、依依は咄嗟に目を閉じた。
そして依依の唇に、カサカサとした凛玄の唇が重なる。
それはほんの一瞬のこと。
すぐに甲高い声で鳥が鳴き出したのを合図に、我に帰った二人の唇は離れる。
「な、なんてことを」
してしまったのだろうと、真っ赤になった依依は慌てて凛玄から身を剥がし立ち上がる。
「これだけは譲れなかった。最後の思い出だ。許せ」
凛玄は偉そうな言葉を依依に口にした。
しかし偉そうな事を口にした割に凛玄もしっかりと耳まで赤く染め上げている。
その事に気付いた依依はつい笑みを漏らしてしまう。
「全く凛玄兄様は油断も隙もない男ですね」
「隙を見せる方が悪い。お前はまだまだ修行がたりないんじゃないか?」
「余計なお世話です」
依依は凛玄から顔を背ける。
しかしその顔にはやっぱりつい笑みがこぼれてしまう。
「お前の隣に立てないこと。それは今でも納得出来ない」
凛玄はそう口にしながら立ち上がる。
「だけど、お前の初めてを一つ奪ったから我慢する。これでお前は俺を生涯忘れられないだろうからな」
「そんなのずるい」
「俺もお前を忘れない。だから引き分けだ」
「……な、なるほど」
(改めて断言されると恥ずかしいような)
依依は先程の出来事を鮮明に思い出し、頬に熱が籠もるのを感じる。
「依依、今は俺もお前に誰か別の男と幸せになれだなんて口に出来ない」
「私だって言えない」
「依依はこの前俺に言っただろ」
「それは、本心じゃないもん」
依依は照れ隠しも含め、思い切り頬を膨らます。
「だから往生際が悪いお前が俺の妾になる。その決心がつく事をこれから毎日
「残念だけど、それはないよ」
「いや、かなり本気で祈るから。何ならお前が俺の妾になりたくなるような
「……それはもはや呪いの
「だとしても、俺は諦めない。だから覚悟しておけよ?」
凛玄はそれはもう晴れ晴れとした笑顔を依依に向け、爽やかに宣言した。
(全く厄介な人だ)
けれど依依はそんな凛玄をやっぱり好きだと思った。
依依の中では妾なんて許せないしあり得ないこと。
(でももし私が凛玄兄様の妾になる事をすんなり選ぶ事が出来たら、こんな風に別れを惜しまなくてすむのかも知れない)
一瞬だけ依依は自分の心に迷う気持ちが生まれる。
しかし、依依はすぐにその気持ちに小さく首を振り否定する。何故ならいっときの気の迷いで凛玄の胸に飛び込んだとしても、それはまやかしの気持ちであって、本心ではない事に気付いたからだ。
依依は妾にはなりたくないし、そういった婚姻関係を望んでいない。
それは依依の中で譲れない「善」の気持ちだ。
そしてその気持ちを貫き通す事を依依は決めた。
だから慣れ親しんだ杏山を下山するのである。
(こんなに辛い思いをして凛玄兄様の事を諦めるんだから)
だから何があっても、この先誰かの妾になんてならないと依依は密かに誓う。
「じゃ、私は凛玄兄様が思蘭公主様に愛想を尽かされて離縁されるのを祈ってる。破局の霊符を作っちゃうかもよ?」
依依はわざとらしくふざけた口調で、少しだけ本音の混じりこんだ言葉を返す。
「この罰当たりが!!」
森の中に響き渡る劉帆の大声。同時に依依の肩に激痛が走った。
「全く恐ろしい孫じゃ。ほら、早く行くぞ」
どこから現れたのか、まるで見計ったように現れた劉帆。通り魔の如く依依に攻撃したのち、真っ直ぐ荷馬車に向かい歩いて行ってしまった。
「暴力じじいめ」
依依は涙目で肩をさすり、恨みがましい声をあげる。
「俺は劉帆道士が羨ましい」
「そうかな、わりと性格に難ありだよ?」
「お前と共に過ごせるんだ。それだけで羨ましいだろ」
「……さ、行きましょうか」
依依は前にも増して好意を寄せてくる凛玄に恥ずかしくなり背を向ける。
「依依、何か困った事があれば、必ず俺を頼れ」
依依の背中に最後まで遠慮のない、そして依依の心を揺さぶる優しく厄介な凛玄の声がかけられる。
「ありがとう。でも私はこれから相当頑張るつもりだから、凛玄兄様こそ私を頼るようになるかもよ?」
依依はくるりと振り返り、精一杯虚勢を張る。
「それはないな。俺はいつまでも依依に頼ってもらえるように努力するから」
「私だって凛玄兄様に一目置かれる道士になるよう努力するもん。そのうち凛玄兄様だけじゃなくて杏玄流全体を脅かす、そんな道士になっちゃうかもよ?」
「それは勘弁だな」
凛玄が依依の前に立ち、そして依依を見下ろした。
「依依、これで最後にする。だから言わせてくれ」
凛玄は折角明るくなった空気を自ら壊すような事を口にし、そして依依を力強く抱きしめた。
「俺はお前が好きだ。そして共に育てた事を誇りに思う。ありがとな」
「うん、私も好きだよ凛玄兄様。今までありがとう」
依依は凛玄に抱き込まれ、またもや泣きそうになる。
けれどもう絶対に泣くもんかと強い決意を持って凛玄から自分の身を剥がす。
「劉帆先生を待たせるとうるさいから行こう、凛玄兄様」
「そうだな」
依依は今度こそ思いを断ち切るように、力強く凛玄より先に歩き出す。
揺れる木々の音に小鳥のさえずり。
依依は自分が育った山の景色を目に焼き付けるよう、しっかりと眺める。
(さよなら、杏山。それと、凛玄兄様)
こうして依依は生まれ育った山に、そして長いこと抱えていた初恋にひっそりと別れを告げたのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます