新米道士と優良顧客

第11話 プロローグ

 遡ること少し前、依依が誕生日を迎える前日の夜のこと。


 無名の闇の中、海上には天楼国中凰ちゅうおうの港に向かういくつもの船が浮かんでいた。そのほとんどが三本の帆柱ほばしらにまるで魚のヒレのような形をした帆がついた木造船である。


 穏やかな風に揺られ、船体を浮き沈みさせながら中凰に向かう幾多の木造船。


 その船の合間に一隻の風変わりな船が浮かんでいた。

 一際目を惹くその船は、船体が艶やかな朱色に塗られており、甲板には二階建てになった軒反のきぞりの屋根を持つ四角い部屋が乗せられている。


 吸い込まれるようにひたすら続く暗い水面の上、船に吊り下げられた多くの提灯ちょうちんが橙色に煌々と輝く明かりを周囲に放っている。


 一際目を惹き、どこか幻想的に見える光景を、木造船の甲板にいた一人の娘が指で示す。


「見て下さい。海に御殿ごてんが浮かんでますよ?あそこはもしや桃源郷とうげんきょうですかい?」


 地方から中凰に出稼ぎに訪れた者が多く乗船する船の甲板。

 鮮やかに塗装された船を前に娘が興奮気味な声をあげた。


「あれは画舫がぼうだよ。まぁ、田舎から出てきて初めて目にする大抵の者は、お前さんと同じさ。まるで陸にある豪邸をそのまま船の甲板に乗せたようなあの派手な見た目に、城が海に浮いていると驚き目を丸くするのさ」


 娘の隣にいた男がうんざりした様子で、鮮やかな船について説明を口にする。


「画舫?なんですかそれ?漁船には見えないし、あっ、遊宴船ゆうえんせんだ。そうですよね?」

「確かに遊宴船ではあるが、あれは特別な遊宴船だ」

「特別?」

「画舫に乗船して遊ぶには、接待する妓女ぎじょ達に気に入られなきゃなんねぇ。金を出すのはこっちなのによ。全くお高い奴らさ」


 使いの男は吐き捨てるようにそう言うと、顔をしかめた。


「ま、あそこは金払いのいいお貴族様や、科挙かきょに登第し高級官吏かんりとなったお偉いさんが遊ぶ場所。俺にも、そしてお前さんにもまず縁のない場所さ」

「科挙試験か。確かに女の私じゃ受験すら出来ないからなぁ」


 男の言葉受け、娘は納得した声をあげる。


「ばーか。男だとしても、そんじょそこらの努力じゃ科挙試験なんぞ受からねぇ。一を聞いて十を知るって具合に聡明で、なおかつ容姿も良くなきゃなんねぇらしいかんな」

「頭がいいってのはわかるけど、何で賢さを競う試験で容姿が必要なの?」

「そりゃオメェ、綺麗な方が目の保養になるからだろ。男も女も」

「あー確かに」

「ま、俺たちには関係ねーけどよ」


 娘は男の言葉に頷き、優雅に海を漂う華やかな船を眺める。

 すると暗闇の中、娘の視界に空を羽ばたく何かが映る。


「海鳥?黒いから、カラス?でも烏って海の上を飛ぶの?」


 娘の言葉は波音でかき消され、優雅に上空を飛ぶ黒い鳥はそのまま闇に吸い込まれるように娘の視界から姿を消したのであった。




 ★★★




 出稼ぎらしき娘が羨む視線を向けていた一際目を引く遊宴船、画舫がぼう


 周囲の船から中の様子をうかがう事が出来ぬよう、みすが垂らされた船内で、一人の美しい女が青ざめた顔を見せる男と向かい合っていた。


「私は知らせるべきかどうか、とても迷ったのだけれど」


 遠慮がちに発せられた女の声。


「私の中の善の心があなたに知らせた方が良いと訴えるものだから」


 男を見つめる女が部屋に漂う気まずさを誤魔化すよう笑みを作る。


 女が身につけているのは、胸まで引き上げた桃色の長裙ちょうくん付きの襦裙じゅくん。その上に藤色に染め上げられた半臂はんぴと呼ばれる半袖の衣をまとい、更には披帛ひはくと呼ばれる薄く軽い絹の布を装飾品代わりなのか、肩にふわりとかけている。


「余計なお世話だったら、ごめんなさい。けれど、あなたにだって知る権利はあると思うの」


 漆塗うるしぬりの座面が広くなった椅子に腰掛け、男を見下ろす女。

 何がおかしいのか口元が僅かに緩む。しかし目の前の男が顔をあげると、女の顔から一瞬にして笑みが消え去る。そして如何にも心を痛めているといった、嘆かわしい表情を女は浮かべた。


「これは、事実なのでしょうか?」


 上品な雰囲気のする女に静かに声をかける男。

 広げた紙を持つ男の手は小刻みに震えている。


「事実ではありません」


 女の言葉に男は僅かな希望の光を見たように顔を明るくさせる。


「……と言ってあげたいけれど、ごめんなさい。あなたには酷ではあるけれど、どうやらそれは嘘偽りのない真実とのこと」


 女は伏し目がちに、沈んだ声で男に告げる。


「そんな馬鹿な」


 男は瞬時に顔から笑みを消す。

 次に男の顔に浮かぶ表情はまるで地獄に落とされ、全てに絶望する人間そのものといった感じである。


「しかし、私は到底信じられません。これが真実だとすれば、実に九年間も私は騙されていた事になる」


 男は再度そこに書かれている事を確認するよう、広げた紙に視線を落とす。


「そうね。心中お察し致しますわ。けれど私があなたにかけてあげられるのは陳腐ちんぷな慰めの言葉だけ。その紙に書かれた事、それが事実でないと疑うのであれば、本人に確かめてみるしかないと思いますわ」

「本人に……」

「そう。だって子を産むのは女ですもの。母が子の出生を知らぬ、そのような事はあり得ない。そうでしょう?」


 女は色恋に疎く、うぶで純粋に見える顔を男に向ける。

 その表情に男はきまり悪そうな表情で視線を泳がせた。


「一つの方法として、あなたはそこに書かれている事に対し、知らぬ存ぜぬを通す事も出来るのよ?」


 男の真意を探るよう、窺う視線を送る女。

 しかし男は気難しそうな顔を手元の視線に向けたまま、女の視線には全く気付く様子はない。


「……これを私に渡すよう、あなたに指示を出されたのは天子様なのですか?」


 男の絞り出すような声で紡がれた「天子」という言葉。その言葉を耳にするやいなや、女の眉間に皺が寄り、大層不機嫌そうな表情になる。


「それは口にしない約束ですの。あら、そろそろ迎えの船が来たようね。こちらの遊戯代は私が済ませてあります。今日くらいは羽目を外され、どうぞごゆるりと」


 女は共に控えた者の手を取り、流れるような美しい所作で席を立つ。

 そして衣擦れの音を響かせながら、項垂れる男の前を去る女。


「そんな馬鹿な事があってたまるか……」


 これ以上なくらい醜く顔を歪めた男が重く低い声で呟く。


「失礼いたします」


 先程いた女と入れ替わるように新たな女が部屋の中に侵入してきた。

 甘ったるい香りを纏う、着飾った女達の明るい声を耳にしてもなお、男の顔は陰鬱いんうつに歪んだままであった。




 ★★★




 男の元を去った女が迎えの船に乗船し、それから少し海に漕ぎ出し別の画舫に乗り移る。

 先程同様、みすが垂らされた船内を女は、寄り添う青年の手を取り中に入っていく。


「おかえりなさいませ」


 船内でひっそりと待っていた女が一仕事を終えた若い女を出迎えた。

 

 迎えた女は二十代半ばといった所だろうか。白い襦裙に身を包み、誰もがハッと目を惹くであろう、何処か白百合の花を思わせるような清楚な美人である。


「例の物をあいつに渡してきた。あなたの予想通り、到底認めようとはしていなかったわ」


 船から戻った女は疲れた顔で報告する。

 そして磨かれた床の上に用意されている座面の広い椅子にゆるりと腰を下ろした。


 すると直ぐに若い男が女の隣に付く。


「あいつは寒気がするくらい性悪な顔をしていたわ。海にそのまま落ちてしまえばいいのに」

「そうおっしゃらず、どうぞこちらを」


 あどけなさを残し、人懐っこい笑みを浮かべる青年。

 女が手に持った酒盃しゅはいに上機嫌な様子でトクトクと酒を注ぐ。


「ねぇ、本当にこれで良かったのかしら」


 画舫に残してきた男と対峙していた時とは打って変わり、不安げな表情を見せる女。


「少なくとも私にとっては、一つの区切りをようやく迎える事が出来ました。ですからこれは、九年越しにようやくあげることが出来る祝杯です」


 出迎えた控えめな雰囲気のする美しい女がふわりと微笑む。


「折角あなたと親友になれたのに」

「私などには勿体ないお言葉です」


 一際立派な座椅子に座り、不機嫌な顔をする女。

 それに対し白百合を思わせる女がしずしずと頭を下げる。


「しかし、ここにいる私は言うなれば、こんが天に帰り、既にはくのみ彷徨う状態なのです。ですから生気が抜け、死人同然の私を早く楽にしてくださいまし」

「まぁ、既にキョンシーになってしまったような言い方じゃない、そんなの嫌、悲しいわ」


 椅子に腰掛ける女は顔を曇らせ、手を震わせる。


「姉上、あまり公主様のお心を刺激なさらないでください」


 公主と口にした青年は、震える女の手を優しく包む。


「けれど、九年前に本当の私は消えたもの。あの頃からずっと変わらない。私の願いは早くあの人のところへ向かう事」


 白百合のような女はそこに何かがいるかのように、ゆっくりと天を仰ぐ。


「未だ私には納得が出来ない。けれど、あなたの気持ちはわかる。いいわ。とにかく今日、私達は自らの意思で運命を変えた。その事に乾杯しましょう」


 吹っ切れたように、座椅子に腰を下ろす女が酒盃を掲げる。


「私達の目的が叶いますように」


 女は注がれていた酒杯を一気にあおった。


「本当に、いい夜ですわね」


 白百合のような女は満足げにこぼすと、それはもうゾッとするほど美しく微笑んだのであった。

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