第9話 下山

 嬉しい事も、悲しい事も、楽しい事も、辛い事も沢山あった。

 生まれてこの方今日までお世話になった杏山あんざん

 依依イーイーにとって、母なる山と言い換える事が出来るほど大事な場所。


 その山をついに立ち去る日がやってきた。


(泣くもんか。これから私は今以上に精進し、人々の役に立つ道士になるんだから)


 うっかりすると感傷的な気分に襲われ、涙ぐみそうになる依依。何とかその気持ちに蓋をして、現在依依は一頭立ての小さな荷馬車に自分の荷物を乗せていた。


 杏玄流の道衣に袖を通す事を許されない依依はズボンに膝までの短い衣を帯紐で巻いただけという軽装に身を包んでいる。

 そんな依依が荷馬車に詰め込んだ荷物は風呂敷に包んだものがたった二つほど。


「これだけか?」

「うん、意外にこれだけでした」


 依依の乗せた荷物に驚きの表情を見せる劉帆リュウホ

 そんな劉帆の隣で依依も拍子抜けしたと言った感じの苦笑いを劉帆に見せる。

 というのも杏玄流あんげんりゅうに関わる私物を全て仲間に譲ったところ、意外にも本当の意味で私物と呼べる物があまりに少なかったのである。


 しかもそのあまりに少ない私物の内訳が依依にとっては苦笑いせざるを得ないものばかり。


(この風呂敷の中身のほとんどが、凛玄リンゲン兄様にもらったものばかりという切なさよ……)


 依依はその場でガクリと項垂れる。

 依依が荷馬車の荷台に乗せた風呂敷。その風呂敷に大事に包み込まれているのは、くしかんざし。それに美しい瑠璃るりと呼ばれる水晶で作られた小鳥の首飾りなどなど。


(高価だし、万が一の時は売れるから。うんそう。売れるからあれは財産といえる)


 依依は必死にそう自分に言い訳をする。しかし本心では未だ誰かに譲るなどという選択が出来ない、大事な凛玄との思い出の品々しなじなだ。


(見たら絶対泣いちゃうかも知れないけど、でもだからって手放せないし)


 凛玄が任務であちこちに出かける度に依依に土産と称し与えてくれた数々の品物。

 その一つ一つに凛玄との思い出が詰まっており、今の依依にしてみれば決して喜ばしい物ではない。頭でその事を理解しつつも手放せない現実。それは依依の中にまだ凛玄を想う気持がしっかりと残っているという現れでもある。


(馬鹿みたい)


 依依は未だ断ち切れない思いに胸が苦しくなる。


「必要な物は中凰ちゅうおうで揃えればいい。さて、行くとするか」


 複雑な思いで荷台に乗せた赤い風呂敷を眺める依依。そんな依依に劉帆が出発を促した。


師爺しや、新しい道士隊の道衣の考案は私にさせてくださいね」


 依依は未練たっぷりの風呂敷から顔を逸し、劉帆に向き合う。

 そしていだく切なさを断ち切るように、敢えて今後の話を劉帆に振った。


「そうじゃ依依、これからはわしのことはじじい、もしくは先生と呼びなさい」

「えっ?でも……」


 突然劉帆に告げられた名称変更の指示に依依は困惑する。


「確かに儂はお前の師爺ではあるが、新たな道士隊は儂とお前。二人で始めるものだ。いわば家族経営というわけじゃ。だからもっとこう、親しみある呼び名が良かろう」

「あー、たしかに?」


 依依にとって劉帆を師爺と呼ぶのは自然なこと。

 何故なら物心ついた時からそう呼ぶものだと周囲にそう教えられたからだ。

 だから今更呼び名を親しみのあるものに変更して欲しいと言われても、その思いに隠された思惑をいまいち理解し難いという状況である。


「これからは杏玄流に従う必要はないのだからな」

「なるほど」


 確かに師爺呼びは、規律を重んじる杏玄流らしい呼び名に違いない。

 依依はようやく劉帆の言わんとする事がなんとなく理解出来た。


「じじいはちょっと品位に欠ける気がするので、劉帆先生ってことで」

「ふむ、いいじゃろう」


 劉帆は満足気にそう言うと、荷馬車のに乗り込んだ。

 依依は目の前で起こった出来事に目を丸くする。


「え、私が手綱をひくんですか?」

「依依、お前は鬼畜な孫だな。こんな老体に手綱をひかせるつもりか?」

「でも経験値の差では劉帆先生に軍配が上がると思いますけど」


 依依とて荷馬車を操る事は出来る。ただ少し苦手なだけだ。

 それは今まで杏山を降りる機会があまりなかったからであって、依依のせいではない。


「苦手を克服する為には、何度も経験を積むしかないからのう。じゃ、ついたら起こしてくれ」

「まさか寝るつもり?」

「依依、お前はそもそも儂の面倒を見るためにこの山を降りるんじゃ。つべこべ言わず早く出発しなさい」


 劉帆は幌付きの荷台の中で木の板の上に布を敷き依依の目の前で横になった。そしてもう話す事はないとばかり、ピタリと目と口を閉じてしまったのである。


「確かにそうだけど」


 この調子でこの先もこき使われそうだと、依依は前途多難を匂わす劉帆の行動に大きくため息をついた。


(ま、じじい孝行だと諦めるしかないか)


 依依はすぐに気持ちを切り替える。

 劉帆は依依の大事な家族だ。今まではお互いの活動拠点は杏山と中凰だった。

 その上長いこと影玄部かげんぶの筆頭道士の座に就いていた劉帆は北から南へと、国中をキョンシー絡みの案件で飛び回っていた。

 つまり現在まで依依は劉帆に孫らしい孝行があまり出来ていないのである。


(いつまでも元気でいて欲しいけど)


 遅かれ早かれ誰にでも必ず寿命が訪れる。

 自然の摂理に従えば、その順番が先に来るのは劉帆の可能性が高い。

 だから依依は今回の事をいい機会だと捕らえ、必ずや訪れる別れの時に後悔しないよう、この愛すべき我儘じじいを甘やかすつもりでいる。


(孝は百行ひゃっこうもととも言うし)


 依依は道教の修行の中で学んだ古典の話を思い出す。

 孝は百行の本とは、あらゆる善行の中でもとりわけ孝行は基本であるという教えである。


「ま、とにかく日が暮れる前に中凰に着きたいし頑張るとしますかね」


 依依は両手を上げ、伸びをしながら御者台ぎょしゃだいに向かった。

 そしてそこにいた人物の姿に気付き、依依は伸びをした状態のまま固まる。


(えっと……)


 依依の目の前。御者台に座り我が者顔で手綱を握るのは、意思の強そうな眉に涼しげな切れ長の目元の青年だ。驚く依依に顔を向ける事なく、手綱を握り真っ直ぐ正面を見据えている。


「……何で大師兄だいしけい……凛玄兄様がそこに?」

「俺が送るからだ」

「えーと、掌門しょうもんはこのことを」

「伝えてあるし、許可も取ってある。勿論掌門だけじゃない。劉帆道士にもだ」

「なるほど」


(この事を知ってたから、荷台に逃げたと……)


 依依は伸びをしていた両手をぎこちなく下ろしながら、「先に教えておいてくれればいいのに」と小声で劉帆に文句を垂れた。


「乗って」

「あー、はい」


 凛玄がしっかりと手綱を握っているという状況。しかも凛玄の全身からは有無を言わさぬといった感じで鋭く尖った気を感じる。


(となると逃げ場はないか)


 依依は即座に悟った。

 そして大人しく凛玄の隣に腰を下ろす。


「行くから」

「あ、はい。お願いします」


 気まずい雰囲気全開の中、凛玄が馬に合図を出し荷馬車はゆっくりと動き出したのであった。



 ★★★



(うぅ、もう帰りたい。っていうか、今から新しい場所に帰るわけだけど、切実に帰りたい)


 依依は緊張で体を硬直させたまま、わけもわからず「帰りたい」とひたすら願っていた。

というのも、杏山を降りるまでの道のりは獣道を馴らした程度。全く舗装されていないのである。となれば車輪が小石に乗り上げるたび、依依の体は隣で手綱を握る凛玄の体に僅かばかり衝突してしまうわけで……。


(非常に気まずいのですが)


 かといって、「元気だった?」などと気軽に話しかけられる雰囲気ではない事は確か。どうしたものかと依依はひたすら体を強張らせる。そして強張らせるからこそ、小さな振動を逃すことが出来ず凛玄にまるでトビウオの如く、体当たりをしてしまうという悪循環。


(地獄だ)


 依依は馬車が杏山から続く山道を数百メートルほど進んだ時点で既に疲労困憊だった。


「小さな頃は、燈依トウイとお前と。この道を下るのがとても楽しみだった」

「……そんな事もありましたね」

「燈依が杏玄を去り、そして今度はお前も。俺の大事な者達はみんな、俺から逃げていく」


 絞り出すよう低い声。たまらず依依は横を向いてすぐに後悔した。

 何故なら凛玄の顔は、まるで親の死に目に遭ったような、そんな悲痛な表情で歪んでいたからだ。


「凛玄兄様、私は逃げていくわけじゃないです。そう見えるかも知れないけど、でも心は今すぐ凛玄兄様を忘れられる訳じゃないし。だから逃げるとは違うっていうか」


 依依はたまらずそう告げる。

 そして凛玄につい本音を口にしてしまった自分の弱さを即座に後悔する。


(拒絶した方がいいに決まっているのに……)


 依依は断ち切れない思いに後ろめたい気持を抱き、自分が腰を下ろした御者台の板を強く掴む。

 本当はもう二度と凛玄に会うつもりはなかった。何故なら顔を合わせ、先程のように凛玄の悲しむ顔を目の当たりにしたら突き放す言葉を口にできなくなるからだ。


(それに、会ったらまたこうして私の気持ちが揺らぐから)


 依依は隣に座る凛玄が気になって仕方がない。そんな自分の心に気付き情けなくて泣きそうになる。


(やっぱりまだ好きなんだ)


 凛玄と共にガタガタと揺れる荷馬車の行き先が片道のみの旅であったならば。

 つい心にそんな想いを抱いてしまう依依。そんな自分をだめだと戒め、けれど切なさで胸が締め付けられ苦しくて今にも窒息しそうだ。


「だったら何故杏山を降りる」

「それは、私だって死にたくはないからです。それに、水鏡すいきょう天幻法てんげんほうで私はそうした方がいいって」

「……そうだったな。水鏡天幻法……天仙てんせん様が私達に示す道は絶対。だけど」


 凛玄はそこで言葉を切った。

 現在凛玄がどんな顔をしているのか、依依には怖くてうかがう事ができない。


「俺は生まれて初めて水鏡天幻法が見せた未来を、運命を恨んだ。そして示された先にある運命を自分の手で変えたいと願ってしまったんだ」


 苦しげな声で吐き出された凛玄の言葉に依依は息をのむ。

 何故なら今の言葉は、杏玄流の次期掌門として絶対に口にしてはいけない言葉だったからだ。


 そして同時に依依は思い出す。

 掌門に水鏡天幻法で見えた未来にまつわる事情を聞かされた時、今の凛玄と同じように、水鏡天幻法を疑うような、そして恨むような気持を自分も抱いた事を。


「杏玄流を背負う俺がそんな罰当たりな事を口にしてはいけないってことくらいわかっている。だけど自分が一番傍にいて欲しいと願う存在すら手放さなければいけない運命なんて、そんなのもう信じられるわけがないだろう」


 凛玄は声を荒らげると共に、馬に鞭を入れた。

 鞭を入れられた馬は指示通り速度を上げる。

 そのせいで依依の乗った荷馬車はまるで坂道を転げ落ちるかのように乱暴に山道を駆け抜けていく。狂ったような速さで走る荷馬車は凛玄の荒ぶる心そのもの。依依はどうしていいかわからなくなる。


「うわっ」


 曲がり角で依依の体は大きく揺れ、咄嗟に凛玄に横から抱きついてしまった。

 すると凛玄が手綱を持つ手を依依の背中に回し、自分の脇の下で押さえるように依依の体を抱え込む。


「凛玄兄様。お、落ち着こうよ」

「俺はお前をこのまま手放すなんて嫌だ。もういっそこのまま……」


(えっ、このまま何?)


 依依が顔を上に上げると思いつめたような凛玄の顔が視界に入る。

 その表情を目の当たりにした依依は青ざめた。

 何故なら、依依の目に映る凛玄は明らかに死を覚悟した人間の顔。そんな風に切羽詰まったように映ったからだ。


「バカモン!!そんな乱暴な運転で安眠出来るかっ!!儂を永眠させるつもりか!!」


 突然荷台から聞こえる劉帆の怒りに満ちた声。

 同時に荷台を覆うほろの隙間から伸びてきた杖の先が凛玄の背中をコツンとつついた。


「うっ」

「は?え?やだ、こんな時に気功きこう!?」


 ぐたりと依依の体の上に凛玄の体が倒れ込んでくる。


「劉帆先生、何してくれてるんですか!!」

「儂はまだ死にたくはない。ほら、頑張れ」

「嘘でしょ……」


 依依の眼の前に意識を失った凛玄の手から離れた手綱がひらひらと宙を舞った。

 それを咄嗟に掴む依依。


(信じられないんだけど)


 依依は凛玄の体の下から何とか手を伸ばし、咄嗟に手綱を握る。

 そして思い切り手綱を引き、最高速度で走る馬の足を何とか止めようと全力で踏ん張ったのであった。

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