第6話 自分の心にある善の

 影玄部かげんぶに正式に所属する事となり、無念の死を遂げた遺体をキョンシー化し、故郷の地まで先導する道長どうちょうの仕事を任された依依イーイー


 それはなりたての新米道士に与える初任務として、到底ふさわしいものではなかった。


 しかし杏玄流あんげんりゅうでは掌門しょうもんの決定は絶対である。

 だからその任務の先にある結果――自らが力尽きしかばねになり、先導していたはずのキョンシーと共に生き血を求め、むしろ率先して人間を襲うという、おぞましい己の姿が脳裏にチラついていたとしても、依依には現状断るという選択はなかった。


 自分を取り巻くのは恋も仕事も逃げ場のない、八方塞はっぽうふさがりの状況。そしてそこから逃げ出す事ができる方法がさっぱり思いつかない。

 そんな依依の顔に浮かぶのは、悔しさ、無念さ、そして悲しみに怒りといった負の感情の詰め合わせ。


 行き場を失った、重苦しい空気が依依の狭い部屋の中に漂うばかりである。


「そうじゃ、燈依トウイには全てを告げてあるのだろうな?」

「…………はい」


 依依の頭に老年とは思えないほど素早い動きで劉帆リュウホが振りかざした杖の先が当たる。


「いたいです」


 頭を撫でながら恨めしい声を出す依依。


「嘘をつくからだ。燈依には何一つ知らせとらんくせに。いいか、よく聞きなさい。お前が自分の命を投げ捨てる事はわしが許さん。俊依シュンイ麗華レイカに夢枕に立たれても困るからな」

「うっ、それは……」


 依依は両親の名前を出され、何も言えなくなる。


「いい機会だ。儂と共に杏玄流と縁を切らぬか?」

「縁を切る?破門ではなくてですか?」


 思っても見なかった劉帆の提案に依依は目を丸くする。


「不本意ではあるが、儂の世話をするとでも言えば、確実に長老達もお前に情けをかけ破門とはしないだろう。となればお前が杏玄流と穏便な関係を保ったまま縁を切る事を、掌門も認めざるを得ない」

「穏便な縁切りなんてできるんですか?」


 依依は疑いの眼差しを劉帆に向ける。

 劉帆が杏玄流から引退するという話は確かに本人の口から聞かされている。


(でもそれって影玄かげんの筆頭道士を辞退して、中凰ちゅうおうでのんびり暮らすって事じゃないの?)


 依依は自分が勝手に抱いていた劉帆の老後。まったり隠居計画を脳裏に浮かべる。

 そこには争いごととは無念。穏やかに茶をすする老人の姿しかいない。


(それに縁を切るって言い方が……)


 何となく穏便とは真逆。何か劉帆が企んでいるのではないかと依依は勘ぐる視線を劉帆に送る。


「破門とされてもまぁいいではないか。儂と新たな道士隊でも作れば良い」

「えっ、新たな道士隊ですか」

「そうじゃ。まぁ大きな仕事は出来ぬだろう。それでも世の中には困っておる者がそこら中にいる。お前は人より武術や法術に長けている。それが強みである事は間違いない。それを世のため、人のために役立てる方法はいくらでもあるじゃろ」

「ありがとうございます。まぁ、師爺しやに比べたらそれほどでもないですけどね」


 依依は珍しく劉帆に褒められ、照れ笑いを返す。


「おごるでない。その事に費やした時間が長いのじゃ。お前が武術や法術に長けているのは当たり前の結果。しかし、その特技をこれからはお前の正しいと思う「善」に従い生かしてみるのも良かろう」

「私の思う善……」


(杏玄流で学んだ事を生かすって、杏玄流を離れても同じような事をするって意味?)


 依依は自分が考える善という意味がしっくりこない。何故なら今までは杏玄流の教えこそ、善の道だと信じ辛い修行をこなしてきていたからだ。


(ま、最後に裏切られたけど)


 依依は部屋の隅にまとめた、道長任務に向かう為の荷物を詰め込んだ法術鞄ほうじゅつかばんに恨めしい視線を向ける。


 鞄の表面にはこれみよがしに杏玄流を示す唐桃からももの枝と葉と花が繊細に刺繍されていた。そしてそれらはうまい具合に太極図たいきょくずと呼ばれる意味深い円形の図案となっている。


(前はこれを綺麗な図案だと思ったけど)


 依依は思わず鞄に向ける視線にうんざりとした気持ちを乗せてしまう。


 梅や桃に比べるとやや大ぶりの花を咲かせる唐桃の木。ここ杏山には沢山の唐桃の木が植樹されている。果樹の中では群を抜いて美しい花を咲かせると、依依は今まで杏玄流を示すその図案が自慢だったし、誇らしく思っていた。


(唐桃に恨みはないけど)


 今の依依はその唐桃さえ恨めしく感じてしまい、前のように手放しで好ましいとは到底思えない状況だ。


「お前はめかけになるのは嫌だと凛玄リンゲンとの縁談を断った。しかし凛玄側からしてみれば、お前はわからず屋の頓珍漢とんちんかんだろう。あやつにとってお前を「妾」とする。それは妾を持つ事が禁止されていない以上、最善の方法にみえるのも仕方あるまい」

「でも父様も母様も、それに師爺だってみんな一対一の夫婦です。ついでに言えば空を舞う鶴だってつがいを決めたら死ぬまで一途に相手を想い続けるとも。だから私には妾だなんて理解できないし許せない。自然界もおかしいと告げています」


 依依は身内である劉帆に本音をぶつける。

 自分の誕生日の朝、晴れ晴れとした気持で見上げた空で見つけた、優雅な二匹の鶴。その仲睦まじい番の姿が依依の脳裏にふとよみがえる。


(鶴の方がよっぽど誠実な恋愛関係を構築していると思う)


 いっそ鶴になりたいと本気で願う依依。

 現実逃避しかけた依依に劉帆の静かな声がかけられた。


「それがお前の思う善なんじゃ。妾としてでもお前を娶りたいと願う凛玄。それを拒む依依。儂には、いやそれどころか多くの者にとってどちらが正しいか、それは簡単に答えを出せる問題ではないだろう。けれどお前は自分が思う善の信念を曲げず、凛玄との関係を清算した。すでにお前は自分の意思に添った善の道を選択したんじゃ」


 劉帆の言葉に依依はまるで頭から水をかぶったように、くっきりと目覚める気持が沸き起こる。


 確かに凛玄からしてみれば依依のとった選択はただの頑固者でしかないだろう。


(だけど私は、私が正しいと思う未来を選んだ)


 それが自分の中の善なのだ。


「この世には、人の数だけ善と悪がある。立ち位置が違えば善も悪に成り得るし、その逆もまたしかり。儂は残りの人生を自分の信念に従い過ごしたい。だから杏玄流という組織から足を洗う事を決めたのじゃ」


(確かにここにいたら、今みたいにやりたくない仕事も引き受けざるを得ない。だけどもし杏玄流を背負わなくていいのなら……)


 依依は今まで想像もしなかった方法――つまり杏玄流と縁を切るという案に自分の中で希望の光が灯るのを感じた。


「お前に死ねと言っているような任務を用意する杏玄流。その道を素直に歩む事が本当にお前の本意なのかどうか。きちんと考え結論を出しなさい」

「……はい」


 依依は素直に劉帆に返事を返す。

 そしてもう一度部屋の隅に置かれた、唐桃の刺繍が入った鞄を見つめる。それを思いつめた顔でジッと見つめ、依依は自分の心に湧く素直な気持にじっくりと向き合う事にしたのであった。




 ★★★




『お前に死ねと言っているような任務を用意する杏玄流あんげんりゅう。その道を素直に歩む事が本当にお前の本意なのかどうか』


 劉帆が依依に投げかけた言葉。

 その言葉を受け、依依は自分の行く末を数時間ほど自室で一人悩んだ。


(というより、師爺しやが新たな道を提案してくれた瞬間、私の心は決まったような。だって死にたくないし)


 確かに杏玄流には今まで世話になった恩がある。だから杏玄流で身を粉にして働き、その恩を返すべき。

 その選択が道義的に正しい道であること。その事は依依も重々承知している。


(でも掌門しょうもんはその機会すら私に与えてくれそうにもない)


 むしろ掌門は技量を超えた任務を依依に与え、分かりやすく依依を抹殺しようとしているという状況。


(酷い話だ)


 依依の中にふたたび掌門への理不尽な仕打ちに対する怒りがこみ上げる。

 何故なら依依は凛玄との関係をきちんと終わりにしようと思っている。

 問題があるとすれば確実に凛玄の方なのである。


(反抗期を拗らせすぎなんだよ)


 掌門に反対された。だからより一層自分に固執している。依依は凛玄の事をもはやそう解釈している。そして凛玄が依依を追いかけようとすればするほど、依依を取り巻く状況はより一層悪化していく。


(だから掌門だって私を遠ざけるって考えに行き着くわけで)


 杏玄流に染まりに染まった依依としては、誰よりも杏玄流の繁栄を願う掌門が取る行動として、自分を凛玄から遠ざける選択を選んだ事は間違っていないと思った。


 悪いのは現実を素直に受け入れる態度を取らない凛玄である。


 突然「妾に」などと口走った凛玄に対し、つい非難する気持ちを抱く依依。

 その結果依依の中で凛玄こそが悪であると、そんな結論に達しかけていた。


(やっぱり、私はここを離れよう)


 杏玄流にいくら恩義を感じていたとしても、掌門にとって自分は目の上のたんこぶである。それに加え、依依がいる事でどんどん拗らせた男になっていく凛玄を見るのは正直辛い。


(もう迷惑かけたくないし。というか私だって死にたくないし)


 このまま依依が杏玄流にいても、いいことは何一つないという状況は明らか。


(それに生きていれば、いずれは恩返しできる機会もあるかもだし)


 そのためにも生き延びる道があるのならばそちらを選ぶ。

 誰だってきっとそうだ。


 ひとり悶々としながら思考を巡らせた依依は、ついに劉帆と共に杏玄流と縁を切る事を決意したのであった。

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