第2話 じじい、もとい劉帆筆頭道士
周囲を岩山で囲まれた平原に突如として現れる木造の御殿。
四角い中庭を囲むように、東西南北にそれぞれ立派な神殿のような建物が配置されている。
その回廊を
「コホッ、コホッ。やだ……最悪なんだけど」
依依は咳き込み、自分の胸を撫でる。
ここ最近依依は正体不明の息切れ、動悸、めまいに倦怠感を感じる頻度が増えている。
(症状が悪化している気がするんだけど)
依依はまだ死にたくはないと、ぼんやりと空を見上げる。今日もまた、杏山の上に広がる空は気持ち良いくらい明るい
(悪化しているだなんて気のせい。明日の誕生日を迎えたらきっと良くなる気がする)
透き通る空を見上げ浮かぶのは、何の根拠もないただの思いつき。
しかし病は気からとはよく耳にする言葉である。
依依はその言葉を信じ、自らを励ますよう何度も自分に気のせいだと言い聞かせる。それから依依は回廊に立った柱に背をつけ、咳が落ち着くまでひたすら耐える。
(気のせい、私は大丈夫だから。これはただの風邪……コホ、コホ)
胸を押さえ咳き込みながら苦しさのあまり肩で息をする依依。
その状態でしばらく休憩していると体の調子が落ち着いてくる。
「何か最近これの繰り返し。薬が切れたからかな。後で医務局に寄って風邪薬をもらっておこうっと」
最近自身を襲う謎の病について依依は
しかし幼い頃から顔見知りであり、信頼のおける医務官がそう診断した。
(つまり疑う余地もなく、私のこれはただの風邪)
依依は風邪なのだからそのうち良くなる。そう思い続け、はや数週間が経っていた。なかなか薬が効かない我が身の症状に、陰鬱な雰囲気に包まれながら依依は柱からその身を起こす。
「さ、行かないと。なんせ長老達の話は長いと相場が決まっているもんね。グズグズしていたら日が暮れちゃう」
もたれかかっていた柱からその身を起こし、ふたたび歩きだした依依。
身に降りかかる病を忘れようと、依依はわざとらしく愚痴をこぼす。
「それに誕生日は毎年くるけど見習い道士から、一人前の道士になる。その為に行われる
依依は
符籙とは一言で言えば免許状のようなものである。
しかも明日依依が伝授される予定である道士の符籙とは、杏玄道をこの世にもたらしたとされる神々と
依依は既に一人前の道士として認められる為に必要な数々の試練を終えている。
道士となるために依依に足りないのは、残す所年齢のみといったところ。
というわけで、依依は明日に控えた符籙伝授式を前に儀式の一環。
杏玄派の生き字引き、長老と呼ばれる老年の道士達へ挨拶回りをしている所なのである。
(もう少し長老達の話が短いといいんだけど)
既に挨拶すべき人物は残すところあと数人となった依依。
回廊を歩きながら凝り固まった肩を止まらない咳と共にぐるぐると回す。
ここ
(だからまぁ、みんながつい語りたがる気持はわかるけど、同じような話ばっかりだし)
朝から順に長老達の元を訪れている依依は疲労感と共に、ふぅと小さくため息をつく。というのも長老達はみな、依依が明日十六になる事を伝えると、待ってましたとばかり感慨深げに「お前が生まれた時は……」と依依の半生を揃いも揃って語り始めるからである。
(有り難い事ではあるんだけれど)
今更半生を振り返られても、というのが依依の正直な感想だ。
「それより私は未来の事を知りたいんだけどな」
自分で口にした言葉にだらしなく頬を緩める依依。
依依の思う未来とは勿論
(明日
依依はみんなきっと驚くだろうと思い、「そうでもないか」と自分の思いつきを即座に否定した。
(だって既にみんなは大師兄と私の事に気づいているもん)
凛玄が杏玄派の跡取り息子とあって、極力人前では恋人らしさを出さないよう心がける依依。しかしそれを全て無駄にするのは、わかりやすく自分に好意を示す凛玄である。
(今思えば、昔から大師兄は私に甘かった)
凛玄は事あるごとに依依を
例えば誰もが武術に長けた凛玄に手合わせを願いたいと思う中、依依は誰よりも多く凛玄に稽古をつけてもらっている。それに凛玄が任務で地方に出向いた際は、必ずと言っていいほど依依に
つまり誰がどう見ても、凛玄が依依を特別視している事は明らか。
そして依依も自分に甘い凛玄を利用し、あれやこれといった我儘を通した記憶は存分にある。
(ありがとう大師兄)
依依は密かに自分に甘い凛玄に心で礼を告げる。
そして脳裏に愛しい人の笑顔を思い浮かべ依依は一人照れた。
「何ていうか、愛されちゃってるんだよ、私は」
依依は誰もいないのを良いことに、頬に手を当て一人
「お前は馬鹿か」
突然聞こえた幾分呆れた声と共に、背後から杖のような物で頭を叩かれた依依。咄嗟に顔をしかめ、頭を押さえながら依依は慌てて振り返る。
「いたっ、ってあれ?じじい……いえ、
涙目で背後を振り返る依依の背後には気配なく現れた痩せた老人、劉帆の姿があった。
つるりとした頭のくせに、白髭をたっぷりと生やす劉帆の佇まいは、もはや仙人と見間違うほどの風格がある。その手には
そんな劉帆は依依と同じ色と形をした丈の長い
唯一違うのはその上から羽織る
これは杏玄派における所属を示す違いである。
因みにどこにも所属していない修行中の者は依依同様、真っ白な深衣の上に、
(でも明日になれば、配属先が決まる。だからこの色ともおさらば)
依依はその事を少し寂しく感じた。しかし一人前の証である白、もしくは黒の外衣に憧れる気持ちの方がずっと大きく、すぐに寂しい気持ちは期待する気持ちに上書きされた。
「符籙伝授式は明日じゃろう。
「あー。ありがとうございます」
「その微妙な間は何じゃ?」
またもや杖を振り上げる、見た目にそぐわず暴力系な劉帆。
しかし今度はしっかりと背後に飛び
「すぐに暴力に訴えるのは断固反対です」
「暴力ではない。瞬発力の訓練じゃ」
「ものは言いよう……」
依依は半目で劉帆を睨みつける。
「そうじゃ、影玄部の面々もめでたい事だとお前を祝っておったぞ。待っているぞと伝えて欲しいと言っておった。みな、お前と共に働く事を楽しみにしておるようじゃ」
「ありがとうございます」
杏山と城下。離れていても仲間の道士達が自分の誕生日を忘れず、祝う言葉を劉帆に託してくれたことは素直に嬉しい。
とは言え、依依は乙女心的に密かに思うことがある。
それは――。
(
何故なら劉帆率いる影玄部の本拠地はここ杏山ではなく皇帝のお膝元、
(となると、光玄部所属の大師兄とは単身赴任状態になっちゃうし)
新婚なのに会えない日々が続くのは勘弁だと依依は思わず顔を
「嫌だと顔に書いてあるぞ?」
「め、滅相もない」
「安心しろ。何事もなければお前は光玄所属になるじゃろう」
「いえ、影玄部と掌門がお決めになられるのであれば、私は喜んで師爺の元で学びたいと思っております」
依依は自分勝手な恋心により配属先を光玄部であれと願っている。
しかしその一方で今は亡き、父である
ついでに言えば亡き母
その事から依依は劉帆の事を杏源流の中で誰よりも慕う師匠でもあり、家族というかけがえのない存在だと、大事に敬う気持を持っている。
だから劉帆が任されている影玄部に配属され、劉帆の下で学びたい、願わくは劉帆の力となりたい。そんなじじい孝行な気持ちも依依の中に確かに存在する。
(でもごめんなさい、師爺。私は妻になるから……)
完全に恋愛脳に染め上がった依依の思考は「結婚」とういう二文字に行き着き機能を停止させた。
「ばかもん。新人道士に影玄は無理じゃ。数ヶ月後には
劉帆はハッキリと依依に影玄部は荷が重いと口にする。
(ひどい。さっきは影玄部のみんなは私と働く事を楽しみにしてるって、師爺自ら口にしてたくせに。でもそっか、もうそんな時期か)
依依は空を見上げる。生憎まだ夜には程遠く、明るい陽が山間に差し込んでいた。
影玄部にとって満月はあまり喜ばしい事ではない。何故ならキョンシーが凶暴化する時期だからだ。そしてそんなキョンシーは依依にとって道士だった父を、母を亡き者にした存在でもある。
(キョンシーになること自体は決して本人の意思ではないから)
全てのキョンシーを憎む訳ではない。むしろ自分の意思とは別にキョンシーになった者を憐れむ気持ちの方が大きい。
そして両親を失った時、依依は兄である
いずれ依依は道士として、燈依は科挙の
(だからきちんとあるべき場所に、
「私は結婚するしな……」
依依は思わず頬を緩める。
結婚しても道士の仕事は続けるつもりだ。しかしそれは凛玄との蜜月を過ごしてから。結婚生活が落ち着いてから追々頑張るつもりなのである。
「依依。実はな、儂はお前が符籙を授かったのを期に隠居しようと思っている」
「えっ?」
突然飛び出した言葉に依依はだらけた思考を引き締め、思わず劉帆の顔を凝視する。皺が目立つ顔はいつもと変わらない。
(隠居ってどういうこと?)
依依の知る限り劉帆はまだまだ第一線で戦う事の出来る尊敬すべき道士である。
それに劉帆は依依にはまだ習得出来ていない、杏玄流に伝わる秘術をいくつも扱う事が出来る貴重な道士である。そんな人物が一線を引くとなると、影玄部は大変だろうなと依依は他人事気味にそう思った。
「隠居したらここに住むんですよね?もしかして本格的に後進の指導するためですか?」
ゆっくりと歩き出した劉帆の隣に並び依依は尋ねる。
老年を迎え一線から身を引いた道士が、杏玄流の未来を託す事になる若年道士の育成に関わる事は珍しい事ではない。依依は劉帆もその道を歩むのだろうと、勝手にそう思った。
「いや、私は杏玄を出て行くつもりだ」
「え?」
依依は驚きで足を止めたのち、慌てて劉帆の前に出る。
「師爺、まさか破門されたんですか!?」
依依がそう口にした途端、劉帆の杖は依依の頭目掛け、瞬きをする間に振り落とされた。
パシリといい音が辺りに響く。
(か、間一髪……)
依依は咄嗟に両手のひらを合わせ、自分に振り下ろされた杖を挟んで受け止めた。
手のひらにじんじんと響く痛みを伴うが、頭に振り下ろされるよりは数倍マシだ。
「失礼がすぎるぞ。破門などではない。自らの意思で出て行くのじゃ。お前はまだ若い。この先何があるかは誰にもわからん。それでも、何か困った事があれば儂を頼りなさい。儂らは本当の家族なのだからな」
「はい」
依依の両手から杖を抜いた劉帆はゆっくりとまた、杖をつきながら歩き出した。
その少し曲がった背中を眺めながら依依は思う。
(じい様って、あんなに小さかったっけ……)
依依は一人、寂しさと悲しい気持ちに襲われたのであった。
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