天楼国物語~新米道士と科挙試験~

月食ぱんな

新米道士と過去の恋

第1話 未来の約束

 杏玄流あんげんりゅうが一帯を管理する杏山あんざんと呼ばれる秘境。

 杏玄派に属する者しか立ち入る事を許さないと言われるその深い山間やまあいの中。四方をツルで覆われた岩肌に囲まれた武道場で依依イーイーは地面に仰向けに寝転がっていた。


師妹しめい、もう根をあげるのか?」


 依依の顔を余裕のある表情で覗き込むのは、白い道着に身を包んだ凛玄リンゲンだ。


大師兄だいしけい、まだ、まだです」

「強がるな。息が荒いぞ」

「こ、これは作戦です」


 力を振り絞り、足首を軸に勢いをつけ依依は体を起こす。

 そして起き上がるや否や、凛玄に向かって片足を伸ばし蹴り上げた。


「はっ、はっ、はっ」


 回転しながらしなやかに繰り出される依依の蹴り。

 しかし依依の繰り出す技は、まるで振り子のように体を左右に揺らす凛玄に難なく避けられてしまう。


「遅い。体に鉛でもつけているのか?それとも饅頭まんじゅうの食べすぎなのか?」


 凛玄は依依をからかう言葉を口にしながら、笑みさえ浮かべる余裕のさまである。


「失礼だし、余計なお世話ですよ、大師兄」


 依依は凛玄の首元目掛け回転蹴りを仕掛ける。しかし依依の蹴り上げた右足は凛玄の大きな手のひらに難なく捕らえられてしまう。


「余計なお世話だと?口がすぎるぞ、師妹。それに最近やたら息が上がるのが早くないか?」

「それは、そうですけど……」


 依依は片足を掴まれた状態で器用にバランスを取りながら顔を顰める。


 ここ数週間、確かに依依は以前に比べ体調が優れない。やたら息切れをするようになったし、朝起きても疲れが取れない。そんな日が続いているのである。


(まるで毒でも盛られたみたいにね。ってまさかそんなことあるわけないし)


 依依は自分の脳裏に一瞬浮かんだ不穏な疑惑を即座に消し去る。

 人里離れた山奥である上に、厳重な警備で固められる杏山。万が一、ぞくが侵入したとしても、手練てだれの道士達の返り討ちに合うことは間違いなし。


(そもそも、道士見習いの私を狙う人がいるとは思えないし)


 最近体調が優れないのは、疲れがたまっているからだろうと依依は決論づける。


「依依、ぼんやりしすぎだ」


 ニヤリと不敵に笑みを浮かべた凛玄は依依の足首をひねり上げた。

 凛玄の反撃に依依は足首を軸に、空中で体を一回転させることとなる。


 宙を回転し見事投げ飛ばされた依依は地面に手を付き、まりのように跳ね両足で着地する。そして、くるりと振り返り凛玄に反撃をしようと身構えた。

 しかし次の瞬間目の前に突然現れた凛玄の腕の中に依依は呆気なく捕らえられてしまう。


「り、凛玄兄様!!」


 稽古中だと言うのに、つい顔を赤く染め上げてしまう依依。


「ち、近いです」

「自業自得。お前が隙きをみせるからだ」


 依依は凛玄に片手で抱かれたまま、胸元を軽く叩き抗議する。

 乙女心がうっかり顔を出した依依はもはや戦意喪失、ただの十五歳の恋する女子に成り下がる。


「凛玄兄様、稽古中です」

「勝負はついた。お前の負けだ。素直に認めろ」


 依依の頭一個分ほど上にある凛玄の顔は嬉しそう。そんな凛玄を見つめる依依もまた、文句を口にしつつまんざらでもない気持ちに包まれる。


「いいか?落ちるなよ」


 ニヤリと口元を歪ませる凛玄。依依がまずいと警戒したその瞬間。

 凛玄の体から大きな気が発せられた。


「な、それはズルい」

「ズルくない」


 凛玄は地面を大きく蹴り上げ飛躍する。

 軽功けいこうと呼ばれる身を軽くする術を自身にかけた凛玄。依依を抱えたまま風を切り、目にも留まらぬ速さで上空へ飛んで行く。


(やられた)


 依依は風圧を受けながらも凛玄の肩越しに顔を下に向ける。すると、先程まで足を付けていた武道場は既に遥か下に見えた。


「大師兄。離して下さい」

「だめだ、お前の負けだ。しばし俺に付き合え」


 凛玄が不敵な笑みを浮かべながら岩肌に垂れたツタを器用に掴む。そして上へ上へと断崖絶壁をよじ登って行く。


「もはや猿のようですね」


 自らを抱えたまま、スルリスルリと岩肌を縫うように登る凛玄に対し、依依は諦めの境地で不貞腐れた声を出す。


「言ったな。腕を離すから覚悟しておけよ」


 凛玄はそう口にするや否や、依依を抱きとめていた腕を呆気なく離した。


「えっ、ちょっ!?」


 依依の体は崖の下へ見事、落下していく。


(ありえないんだけど)


 驚きつつも依依は腕を伸ばし、何とか岩肌を伝う緑のツタを掴む。振り子のように大きく揺れれながら、依依は何とか岩肌に足をつけバランスを取る。


「山頂で待ってる。必ず来いよ」


 依依が顔を上げると凛玄が慣れた様子で断崖絶壁になった崖をスイスイと、軽い身のこなしで登って行くのが見える。


「鬼畜め」


 依依は誰ともなく小さく呟く。けれど後れを取るまいと凛玄にならい、器用に手と足をつかい岩肌を上へ上へとよじ登って行く。


 そして凛玄に遅れる事数分。ようやく依依は登頂を果たした。


 既に先に着いていた凛玄は開けた大きな岩の上に片膝を立て腰を下ろしている。そして遠くを静かに見つめていた。


(まるで皇子様おうじさまのよう)


 依依は無防備に晒される整った凛玄の横顔にうっかり見惚れる。


「遅いぞ」

「……まいりました」

「素直なのはいい事だ。依依、座れ」


 凛玄が自分の脇を手で叩く。しかし依依は小さく首を振り、凛玄から少し離れた場所に腰を下ろした。


「何故、距離を取る」

「汗臭いから」

「俺は気にしない」

「私は気にします」

「依依、ほらここに。俺はお前に近くに座って欲しい」


 凛玄が形の良い口元を緩ませた。


「出た、女を騙す微笑み」


 依依はつい「女を」と口にする。


(だって間違ってはいないもん)


 凛玄はとても女性に人気がある。

 何故なら凛玄はここ天楼国てんろうこくにおいて一目置かれる武術の門派。杏玄流の最高師範、掌門しょうもんの一人息子だからだ。それに加え凛玄は生まれ持った才能と努力により、同世代の中で、ずば抜けて武術に長けているのである。


(つまり強いってこと)


 さらに付け加えるとすると、その容姿が大問題。


(勿論いいほうに、だけど)


 意思の強そうな眉に涼しげな切れ長の目元。鼻筋が通り結ばれた唇の形も理想的。現在進行形で風になびく豊かな黒髪はサラサラと流れ、まさに天を昇る龍の美しさを依依に連想させる。


(ふむ、ときめかない人はいないな)


 勿論、依依もそのうちの一人だ。


「女を騙す?失敬だな。俺は誰にでも笑顔は向けない。お前にだけだ」

「うっ……そういうの、言ってて恥ずかしくないんですか?」

「別に。今更だろ。いいからここに座れ」


 自分への好意を微塵みじんも隠さない、真っ直ぐ向けられる言葉に照れつつ、少しでも汗臭く思われないよう依依は風向きを確認した。それから凛玄の下手しもてに移動し座り直す。


 凛玄との手合わせで火照った体に、谷から吹き上がる風が心地よいと依依は目を細める。


「父上がお前の誕生日が来たら、皆に私達の事を公表して良いと。つまり俺がお前との結婚を望んでいるという件を父が認めてくれた。そういう事だ」


 脈略なく、さらりと凛玄は依依に告げる。


「はい、ありがとうございます」


 だいぶ照れながら、しかし依依はきちんと返事を返す。


「だから依依、私の妻になってくれるよな?」


 凛玄が隣に座る依依の顔を覗き込む。


「私で良ければ」

「お前がいい」


 凛玄の力強い言葉に依依は更に照れ、顔を赤く染める。


(ついにお許しが出たんだな。嬉しい)


 幸せな気持ち全開で依依は凛玄の顔を見つめた。すると凛玄の黒い瞳の中に、世界で一番見慣れた自分の顔がしっかりと写り込んでいた。その事をたまらなく幸せだと感じ、依依は自然と頬を緩める。


 依依にとって一歳ほど歳上である凛玄は共に杏山で育った仲間であり、物心がついてからは追いつきたいと願い、憧れる師兄しけいである。そんな凛玄に対する依依の思いは、年頃を迎え変化した。依依の中で凛玄に対する憧れの気持ちが、恋心へと自然に変化したのである。


 つまり依依にとって凛玄は、巷で良く耳にする幼馴染で初恋の人。


 生まれてこのかた、依依の思い出に必ず付随ふずいする凛玄から「好きだ」と告白されたのは半年ほど前のこと。それから密かにこうして人目につかぬ所で逢引き……といっても二人で肩を並べ、他愛もない事を話すだけではあるが、凛玄と依依は二人きりの時間を重ね、着実に愛を育んできたと言える。


 依依は現在十五歳。もうすぐ十六の誕生日を迎えるところだ。

ここ杏玄流では十六をもって、一人前の道士と認定される。本来であれば一人前となり配属先で任務を数年終えたのち、出会いや機会があれば結婚というのが女道士にとってありがちな行く末。


 しかし凛玄は早く依依をめとりたい。事ある毎にそう口にする。


(それは大師兄がもう十七歳ってのも大きいんだと思うけど)


 ここ天楼国てんろうこくでは男子における十七歳と言えば結婚適齢期真っ只中である。ましてや凛玄は杏玄派で次期掌門になる男。


(みんなが大師兄の結婚を心待ちにしているし)


 早く凛玄の子を、特に男児をと、後に続く跡継ぎの存在を一派全員で心待ちにしている事は間違いない。その声は確実に凛玄にも届いているはずだ。だからこそ凛玄は「早く一緒になりたい」と依依を急かすのだろうと思われる。


 そして依依もまもなく十六歳の誕生日を迎え杏玄流の道士として一人前になってすぐ、自分は凛玄と結婚をする。そんな未来を受け入れている。


(その事を少しだけ残念に思う気もするけれど……)


 ふと依依の脳裏に浮かぶのは、志半ばにして、この世を去った父と母の顔。無念であろう両親の代わりに世の中の役に立ちたい。そんな思いもあって依依はここまで必死に修行をしてきた。


(それに兄様は多分いい顔をしないだろうし)


 杏玄派の道士としてではなく、朝廷に仕える官吏かんりとして生きる道を選択した依依の兄燈依トウイを思い出し、依依はわずかに顔を曇らせる。


(昔は仲良しだったのになぁ)


 現在凛玄は杏玄道士隊、光玄部こげんぶの筆頭道士として、武術や法術によりこの国を支えている。方や燈依は科挙かきょと呼ばれる官僚試験の登第者とうだいしゃとなり、現在は官吏として知識を生かしこの国を、皇帝を支えているのである。

 たもとを分かつ事になった二人の間に一体何があったのか。依依にはさっぱりわからない。しかし現在、二人は正直仲が良いとは言えない関係だ。


(一体どうして仲違なかたがいをしたのか……)


 依依はその原因を事あるごとに探りはするが、今のところ分からず仕舞い。

 依依にはたった一人の兄であるからこそ、凛玄との仲を燈依に祝ってもらいたいと願う気持ちがある。しかし現在まで凛玄に告白された事実すら、燈依には口に出来ていないという状況だ。


(なかなか前途多難)


 依依は凛玄の瞳に映る自分の眉尻が下がっているのに気付く。

 そしてこれではいけないと、自分の頬を叩く。


「依依、俺といるのに考え事とは、随分と失礼な奴だな」

「や、やだなぁ、凛玄兄様。私は幸せ者だなぁと実感していただけですって」


 依依は心に浮かんだあれこれを慌てて誤魔化した。

 これは自分の問題である。凛玄には心配も迷惑もかけたくはない。


「本当か?悩み事はないな?」


 確認するように依依の顔を覗き込む凛玄。

 その距離の近さに依依の頬に熱が籠もる。


「も、勿論、本当です」


 依依は火照った顔に、何とかぎこちない笑みを浮かべ全力で素知らぬフリをする。


「お調子者め。でもお前をめとったら今よりもっと幸せにすると約束する」


 凛玄が依依の頬に手を伸ばす。凛玄の指先が依依の頬に触れ、依依は僅かに震える。そんな依依に気付いているくせに、凛玄はそのまま依依の頬を片手で遠慮がちに包み込んだ。


 恋人となった者にのみ許される距離感。

 依依の心拍数はこれ以上ないくらいに上がる。


「い、今より幸せとか、凛玄兄様は私を殺す気ですか?」

「死ぬな、生きろ。俺の為にな」


 凛玄はそう言いながら依依にとても親しみのある優しい顔を向ける。


(この表情を向けられるのは、私だけ)


 依依は照れながらも、世界一の幸せ者だと実感した。


 そう、この時は自分の未来はまだ明るい。

 依依は疑いもせず、心からそう信じていたのであった。

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