定員オーバー
紅りんご
1
『エレベーターの定員は五名です。ブザーがなったら最後に乗られた方はお降り下さい。』
乗り込んだエレベーターが鈍いブザー音を鳴らした時、俺は乗り口に吊り下げられていた看板の文言を思い出していた。
ここはとあるマンションのロビーにあるエレベーター。外はゲリラ雷雨、傘を持っていなかった俺はずぶ濡れになってしまっていた。これが夏なら良かったものの、残念ながら季節は秋。このまま放っておいていると風邪をひいてしまう。そういう訳で急いで部屋に帰りたかったが、同じ濡れ鼠たちは多いらしく、私の前には、既に何人かの人が乗り込んでいた。そして、私が乗り込んだと同時に鳴り響いたブザー。本当にツイていないとしか言いようがない。
「最後に乗った方、降りて頂けませんか?」
小さな女の子の声。その声を他の乗客が肯定し始めた時、雷鳴が轟いた。エレベーターが揺れたと錯覚するほどの騒音、乗客も少なからず悲鳴をあげた。やがて雷鳴が遠ざかって行った頃、若い女が不安そうな声を出した。
「これ、停電なの?」
その女の声に続いて次々に困惑を示す乗客。女の言う通り、落雷の影響か室内の電気が消え、エレベーターの扉は何故か閉じてしまっていた。
こうして、定員オーバーしたエレベーターは一時的な密室となってしまった。緊急連絡用のボタンは押したものの、反応は返ってこない。そして、いつ開くか分からない空間、そこに知り合いでもない人間と共に詰め込まれるストレスに耐え兼ね、俺は口を開いた。
「すぐに扉は開くと思いますし、簡単に自己紹介でもしませんか。俺は山口武、しがない会社員です。」
暗闇の中でお互いの顔が見えることはない。不評を買ったかと思ったが、軽い拍手の音がした。何となくその方向に顔を向けると、そちらの方向から声が聞こえた。
「私は二村千尋。もう良い歳ですが、声優をしております。」
その職業の通り、年齢を感じさせる声であるものの、その節々には若さが残っていた。
恐らくエレベーターの中で、最年長である彼女が続いたことで自己紹介の流れができ始めていた。
「あたしは西城仁美。仕事は……飲食業?」
こちらに投げかけられても困る。答えを知っているのは彼女だけだ。
どうせこの一時だけの関係と割り切って話をし過ぎないことを選んだのだろう。それ以上深堀しないことにした。
「っていうか、いつになったら動き出すわけ?もう結構時間経ってると思うんだけど。」
「まだ十分かそこらですから、落ち着いてください。あ、僕は市川和樹、学生です。」
ヒステリックを起こしそうな女をたしなめるように声を掛けながら自己紹介をしたのは、気弱そうな青年。彼のことは今まで何度かエレベーターで見た事があるから、どんな顔か想像がついた。
「わしは鵜飼恒彦。もう定年退職してからしばらくになる。それより、こんなに呑気にしていてよいのか?誰か携帯やらなんやらで助けを求められんのか?」
鵜飼の声から感じられる貫禄は、暗闇と不安から目を背けたことで緩み始めていた空気を引き締めるのに十分だった。鵜飼の声によって慌ててかばんを探る音。爪が軽い音を立てている所を見ると、西城が探しているのだろう。
「あぁ、駄目だ。あたしの携帯、電波繋がらなくなってるんだけど。ねぇ、市川くんだっけ?携帯見してよ。」
「えぇ。僕のですか?ちょっと待ってくださいね。」
西城に急かされて、市川がかばんを探る。紙がこすれる音からすると、学校か塾の帰りなのかもしれない。やがて見つけた時の声があがるものだと思っていたが、声が聞こえてきたのは別の方向からだった。
「大丈夫ですか!?今、扉を開けるので安心してください!!」
扉を叩く振動音と共に聞こえる若い男の声。どうやら救急隊員が来てくれたらしい。狭い密室に歓喜の声が満ちる。そして男の声から数分後、エレベーターの扉がこじ開けられ、私達は外へと飛び出した。
「はぁ、助かった。」
結局、閉じ込められていた時間は二十分にも満たなかった。自己紹介で気を紛らわせていたとはいえ、体感時間はその三倍はあった。
誰も体調を崩していない、ということと、全員が濡れていて、早く着替えなければならない、ということから俺達は救出された後、すぐに解放された。幸い停電は一時的なものだったようで、すぐにエレベーターは動き出した。いくら動き出したとはいえ、先ほどまで閉じ込められていた空間に自分から入ろうとする人間はいない。乗客たちは我先にと反対側の階段へと足を向け始めていた。
俺はというと、とある違和感によって足が止まってしまっていた。その違和感が一体何なのか、先ほどの暗闇の中では確信を持てずにいたが、明るい場所に出て、初めてそれが何か理解できた。
俺がエレベーターに入ってから聞こえた声は全部で六つ。もちろん、俺が乗った時にエレベーターの重量制限の音が鳴ったのだから、俺の声は除いた数だ。それなら別に問題は無いように思う。定員通りなのだから。しかし、一人だけ自己紹介をしていない人間がいる。
階段へ向かう人々を注視する。肩からバッグを下げ、真っ先に階段へと向かう派手な若い女が西城、その後に慌てて階段を登っている黒いリュックサックの青年が市川。更にその後を肩を怒らせながら歩いているのが鵜飼だろう。となると、足りないのは最初に声を出した少女。
疑念が確信へと変わった所で、俺はエレベーターの方向へ振り向いた。ちょうど二村が大きいキャリーバッグを運びながら、エレベーターへ乗り込むところだった。
「ちょっと待ってください。」
「お乗りになられますか?」
開ボタンを押している彼女に頷き、俺もまたエレベーターへと乗り込む。押されていたのは5階。俺は八階だから、答えを聞くのにはまだ猶予がある。
扉が完全に締め切った頃、俺は自分の疑念について切り出した。
「さっきのエレベーター、小さい女の子が乗っていませんでしたか?」
「ええ。それは、こんな女の子だったかしら。」
あ、あ、と二村が声を出して見せる。その声は先ほどの少女と瓜二つだった。
自分の考えが証明された驚きと、それ以降の推論もまた補強された恐怖で声が出なかった。
そんな俺の顔を覗き込み、その見た目に似合わない少女の声で二村は囁く。
「それで、この子がどうかしたのかしら?」
できればここで止めておきたい、そんな考えが頭をよぎったが、真相を確かめたい、という好奇心の方が勝ってしまった。
「貴方がその声の主なら、エレベーターに乗っていたのは五名ということになります。俺が乗った時点で、です。」
「どこかに問題が?」
「それでブザーがなるのはおかしいんです。エレベーターの定員は一人六十五キログラムほどで計算されています。あの中に別段太っていた人や筋肉質の人はいませんでした。」
「つまり?」
冷たい少女の声と老女の視線がこちらを貫くように感じる。
話始めてから後悔した。まるで自ら断頭台へと歩いて行っているかのような気分だった。
階と階の間の一瞬が永遠に感じられる。それでも何とか声を絞り出す。
「となると、定員ちょうどだというのにブザーがなったというのは、誰かが相当な重量のものを積み込んでいたから、と言うことになります。」
「それがどうかしたのかしら。」
「そのこと自体に問題はありません。でも、貴方がそれをごまかそうとしたことには問題があります。あなたは定員ちょうどになった時、自分に視線が集まるかもしれない可能性を排除したかった。それは、自分だけが階段を登れないだけの大きさと重さのある荷物を持っていたから。そして、その荷物には人の印象に残る訳にはいかない理由があった。たとえば……。」
「たとえば?」
二の句が継げないまま、視線を二村の腰元まではあるキャリーバッグへと向ける。ここに入るもので、隠さなければならない、その上人間と同様の重さを持つ何か。
「たとえば人の……」
言いかけたその時、エレベーターの扉が開いた。二村は俺の言葉を聞くことなく、無理やり引きずる様にキャリーバッグを運びながら、外へと出て行った。
何か証拠があったわけではない。言わなくてよかったと胸をなでおろしたその時、扉が自動的に閉まる直前に二村は振り向き、微笑んだ。
「楽しいひと時をありがとう。貴方もここに乗せてあげたいけれど、それは定員オーバーだからまた今度。」
そう言って彼女は指で二度、自分のキャリーバッグを叩いた。
その音はブザーの様に重く響いていた。
定員オーバー 紅りんご @Kagamin0707
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