螺旋のリビドー 〜夢魔LMの偽書feat.夢読姫〜

愛野ニナ

第1話



 微かに薄紅色を帯びた白亜の高楼が、天を犯すかのごとく威圧的に聳えている。

 それはさながらガラスの塔であった。

 中はひたすらの虚ろであり、空洞の内壁に沿って螺旋の階段が巡っている。

 塔の外壁もまた、逆回りの螺旋階段が頂部まで続いている。

 塔の頂部には一定間隔で明滅している光源があった。そのため、外界は薄明るくなったり、暗黒の闇になったりを繰り返しているのだが、時間の経過を感覚として計ることがどうしてもできない。

 塔の内階段を登っている頼善にとって、何より奇妙なことには、内部に居ながらにして透ける壁を通し外界の景色が見えていることであった。

 外側から塔を見た時は、内部など少しも見えなかった。外壁にはガラス質の上薬でも塗られているのか、明滅するこの世界の光を受けてある時は眩くある時は鈍く反射しているだけであった。

 塔の構造が二重螺旋であることは、内側からのみわかるようになっているのだ。

 ただこれは少し考えれば答えは出せた。

 古物商を生業としている頼善は、この壁と同じ仕掛けを持つ鏡を知っていた。それは、片面からみると鏡面だが、裏面から見るとガラスのように向こう側が透けて見えるのだ。

 珍しい品や高価な品を数多く扱ってきた。仕掛け鏡の種類は多岐にある。

 塔の壁もおそらくはこの様な仕掛け鏡の技が応用されているのだろう。無論この様に巨大な鏡は見たことも聞いたこともなかったのだが。

 こうして頼善は内部から螺旋階段を登りながらにして、外界を見通しているという次第であった。

 そして、理由はわからないが、なぜか塔の頂へたどり着かねばならぬという強迫にも似た意識に突き動かされている。

 視線を下にやれば地面は見えず底無しのよう、外界を見れば外側の螺旋階段を登っていく見知らぬ人々、老若男女。自分と同じように頂を目指して登っているのであろうが、頼善より上部にいる者はいない。

 頼善の高さまでもう少しで追いつきそうになる者もいるのだが、頼善がその者の顔を確かめようとした途端に落ちていってしまう。

 塔の下は得体の知れない暗黒の奈落のようであった。ここへ来た時には、塔は黒い森の中に屹立していると思えたのだが、それも曖昧である。

 しかし、思い返してみれば、そも私はどこから来たというのだろうか。

 また一人、また一人と、頼善の位置に追いつきそうになる者が次々と落下していく。

 それは本当に見知らぬ者達であるのか、さて急に奇妙な不安を覚え、

 次こそ者の顔を見てやろうと強く念じ、刮目する…




 しばしの暗黒の時を経て薄闇に慣れた視界が映し出したのは、他ならぬ頼善の寝室であった。

 まだ夜は明け切らぬと見えて、蒼白い月明かりが障子を通して部屋を濡れたように満たしていた。

 褥の中で左の頬に視線を感じた。共寝の娘が闇の中でも綺羅と光る大きな目で頼善を見ている。

 頼善がしかと覚醒したのを確かめると、娘は唐突に言った。

「頼善さまの夢に干渉している輩がおります」

「何と、そんなことがあるのか。儂を恨んでいる奴の仕業か」

 頼善は一代で財を成した成功者であった。都に立派な屋敷と店を構えており、同業では並ぶ者もない大商人である。

 その栄華の裏では勿論、綺麗事だけでは済まされないことも多々あった。頼善を恨む者もいるに違いない。

「まさか」

 頼善の疑惑を娘は否定した。

「他者の夢に干渉するのは呪術なのです。頼善様を恨んでいたからとて、誰にでもできることではないのです。呪い損ねれば身に返ります故に、頼善様の持ち得る麒麟の気をも凌ぐ強き思念の主でなければ。そのような者は並の術者の中にもあまりいないものと思いますが」

「では誰が、何のために」

「それはまだわかりませぬ。明晩も共寝いたしましょう」

 頼善はあらためて娘を見た。我が孫娘ほどの年頃だろうか。

 繰り返す悪夢と続く不眠に悩まされていた頼善は陰陽師由縁の占術者を招聘したはずだったのだが、やって来たのはまだあどけなさの残る面立ちの娘がひとり。どこで入れ替わって来たのか、陰陽師の者ではない。

 娘は夢占のミヨミ、と名乗った。なんでも、眠る人物のどこか肉体の一部に触れてさえいれば、同じ夢を見ることができるという。

 その妖しげな夢見の呪法を用いて、依頼主の夢を解き占うらしい。歩き巫女の類いなのであろう。

 頼善は半信半疑のまま、彼女を招き入れた。不思議と惹かれるものを感じたからだった。

「夢占の娘よ。本当にお前は儂と同じ夢を見ていたというのか」

「私は自らの姿を封じて夢見しておりましたが、ご不安なら次はこの姿で共に参りましょうか」

 ミヨミは薄闇の中で微笑する。

「では、手を繋いで眠りましょう。夢の中でも同じにいられます」




 その若者の名は何といったか。

 幼名は義一丸、農村に生まれ貧しく学も無かった。子供の時分より都会の商家へと奉公に出て、働きながら商いを学び、あらゆる術を身に付けていった。

 ある夜のこと、若者は白拍子の娘と行き合った。

 一夜の褥の中で、娘が夜伽に語ったのは不思議な異国の地、見たことも無い景色に、若者の心は魅了された。

 その後、名を変え、店舗も持たぬままに、はじめには旗師として独立した。娘とは以来会うことは無かった。

 誰よりも必死に働いた。ただひたすらに、かつ精力的に働く日々が目まぐるしく過ぎ時は流れ、いつしか商人としての成功を手にしていた。

 生まれ持っての商才もあって、大陸経由の舶来品なども数多く扱った。様々な経験を積み重ねながら、富と地位を築いてきたのだ。

 今では店舗も構え沢山の奉公人に慕われ、親族も増え跡を継がせるべき子や孫にも恵まれた。

 現世にあっては誰しも羨むほどの成功者であり、もう充分に満たされているはずだった。

 だがこの悪夢の中に呼びかける者はいったい何だというのだ。

 己の内に欠けてしまった何かを、あの一夜の白拍子が持ち去っていったもの、生あるうちにとり戻さねばならぬと…。




 陰陽師を破門された俺は大陸へ渡った。

 あわよくば仙術でも会得しようとの目論みから泰山に座し、幾年も日月の精を浴び続けるうちに、生来見えなかった左の目に千里眼、聞こえなかった左の耳には順風耳が宿っていた。

 だから何処からであろうと定めた人物に思念を重ねることもできた。記憶を読みとれば時間の狂いなど問題にもならない。

 そうやって俺は見つけた。その若者、今では老人になった頼善を。

 白拍子の姿で義一丸に、夢占の姿で頼善に、あの女はまた同じ男に自ら接触した。

 この時が巡り来るを俺は待っていたのだ。

 ミヨミも、この俺も、もう自ら夢を見ることなどできやしない。互いの属する世界は時空さえ異なっており、他者の夢を介する他には邂逅する術すら無いのだから。




 上方を仰げば、白亜の内壁に沿い果てしなく続くかのように見える螺旋階段。明滅する光源を頼りに、一段ずつ登っていく、うんざりするこの繰り返しだ。

 左手に重なっているもう一つの小さな手の感触に振り返ると、ミヨミが真っすぐに頼善を見つめている。眠る前と同じ寝巻き用に与えた白い着物姿だ。瞳の色が薄紫から桜色へと光の加減によって妖しく変わっていく。

「お望みなら先に立って、露払いをつとめましょうか。私の姿が頼りなければ武将にでも鬼神にでも化身いたします」

「…いや、それには及ばぬ。だがなんと、お前は本当に、儂の夢にいるというのだな」

 頼善は少なからず驚く。

 夢だと認識しているのだが夢とは思えないほどに繋いだ手の感触が確かだった。

「頼善様が他ならぬ夢主であることは違いないのです。それなのに此処は頼善様の夢あって、頼善様の夢ではない…」

 ミヨミは視線を壁へと向けた。

 透ける壁を通して、塔の外から此方を見ている男が頼善にも見えた。

 その男は頼善より少し下方の外階段に立ち、壁など存在していないかのごとくミヨミと互いに視線を合わせているように思えた。

 勿論、頼善にとっては見知らぬ男であった。そもそもこれ迄に見た塔の外側の人物は、まともに認識できるほどには像を結ばなかったのだ。

 年の頃はよくわからないが壮年であろうか。黒髪に黒い着物、肌が異様に青白くどこか死人めいていた。

 男はミヨミと見つめあったままに、だが言葉は交わしてはいなかった。

 壁の外と内で会話が出来るのかも不明であるのだが、それでもこの二人が確かに何らかの思念を交わしているということだけは頼善にもわかった。

「何故、この男の夢を奪わなかったのだ」

「この人は、途方も無い夢なんて望まなかった。生来の才気を備え持っていても、己の分をわきまえていたの。夢を目標に定めて、自分の力でもうそれは現実に叶えているから」

「だが此処へやって来たのだ。この男にも未だ野心があるということだろうが」

「…頼善に夢を仕掛けたのは貴方でしょう」

「この男はあるはずが無いものを正しく認識した上に具現化している。この時代のこの地にはまだ、石造りの塔や螺旋階段は存在しないにもかかわらずだ」

「選ばれし者、…なのかもね」

 ミヨミの瞳に妖しい光がゆらめき、あどけない容貌に蠱惑が宿る。

「いや違う。気紛れに戯れたはずのお前はこの男に情を移したのだ。若かったこの男に迂闊にも世界の理を語り、二重螺旋の形相をリビドーの内に植え付けたのだ」

「どうせもうこれ以上に表層には現れない。私が望む世界を、この人は望まない…」

「ならば何の為にこの男と此処へ来た」

 ミヨミの視線が僅かに彷徨った。

「…たぶん、会いたかったから」

 それは義一丸…若かりし頃の頼善のことか。はたまた壁の内外で視線を交わす黒い着物の男のことなのか、どちらともつかなかった。

「カゲヒコ……いいえ、ディオン。貴方が私を此処へ導いたのでしょう」

 男は壁の外から頷き、

「久しいな、ミヨミ。……レムリアの娼婦」

 ディオンの細めた目がどこか懐かしそうであった。

「…でも、これは頼善の夢なの。この夢は私が守る。貴方には渡さない…」




 明滅する淡い光によって照らし出されるこの世界は薄紫から桜色へと偏光している。それはミヨミの瞳の色にどこか似ていた。

 いつしか塔の内外を隔てた壁は消えて、剥き出しの二重の螺旋だけとなっていた。

 薄闇の空間の中に幾千もの影としかいえぬ曖昧なるものが漂っている。例えていうなら無数の黒い蝶のようでもあり、明確な象形無きそれは舞うように、また泳ぐように流れていく。頼善にはそれが外側の螺旋を登る途中に落ちていった人々の思念の残滓のように思えた。

 二重螺旋の意味するもの、彼岸と此岸に内包するもの。

 彼方にありては渦巻く星の集合体、異なる時空を統べる形。

 此方にありては極小の体内の中に、生命の象を決め得る形。

 己の内深くにもこの形が宿っていることを、頼善はすでに認識している。

 この幻はこの血に眠る遠い祖先がいつか見た景色なのか。

 それとも古より時の偉人さえ求めてやまなかったものなのか。例えば、不死、不滅の永遠…

「螺旋の頂にあるあの光を見たくはないですか」

 娘の姿をした妖魔は頼善の首筋に白い指を延ばす。

「あれは人の身には持て余す。求めれば滅びゆくまでよ。儂は戻る。地上で己の時を全うしよう」

 頼善は躊躇なく螺旋を降りていく。振り返ることはなかった。

 その後ろ姿を見送るミヨミの視界に、若かりし頃の頼善、義一丸の幻影が重なる。この男に惹かれ心が揺らいだことが確かにあったと思う。

「不覚だったな」

 いつのまにかディオンが隣に並んで立っていた。黒い着物のディオンと白い寝巻き姿のミヨミは微笑み交わした。

 夢主が去ればこの夢は消える。他者の夢の中での邂逅も終わる。また各々異なる世界に戻るのだ。

 頼善はまもなく目覚める。

 結局のところ、頼善は己で悪夢を払い去ったのだ。

 もうこの螺旋の夢を見ることもないだろう。

 そして、いつかの夜の白拍子も、陰陽師と入れ替わりやって来た夢占の娘のことも、忘れてしまうのだろう。

 二度と思い出したりしないようにと、念のため呪もかけてある。

 それをしたのは自身なのだが、ミヨミは胸の痛みを僅かに感じていた。

 だから、この白い寝巻きの着物は返して、褥の傍らに置いていく。

 頼善が目覚めた時、果たしてこれは何かと、少しは思い悩むようにと。




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