第12話 公安

 木佐貫が基地の食堂で昼食の箸を置き腕時計に目をやると、針は12時半を指そうとしていた。松島基地から鮎川港までは車で片道およそ1時間程の距離。早ければ1時過ぎには神崎三佐が基地に帰ってくるのではないかと思い、伊藤と共にいつもより早めに昼食をとっていた。

 厨房に目を向けると千賀子が忙しく動き回っているのが見えた。このところ木佐貫の部屋に彼女が来ないのは今が大変な時だと気遣っての事だろうと思っていた。実際、もし彼女が来たとしても話している時間すら無かっただろう。しかし、会いたいと思う自分がいる。話すことができなくとも傍に彼女が居てくれるだけでいいと。それは、身勝手な思いであった。そんな事を思いながら千賀子を目で追っていると、

 「神崎さん、何時頃帰ってくるんでしょうね?」向かいに座り、まだ口を動かしながら伊藤が尋ねてきた。

 「早ければ1時過ぎ。遅くても1時半までには帰ってくると思うのですが」木佐貫は伊藤に目を移し答えた。

 「そうですか。木佐貫さん、僕ね」伊藤も箸を置き続けた。

 「不謹慎に思うかもしれませんが、フライトレコーダーの解析が待ち遠しいんですよね」

 「え?」

 「きのう、神崎さんとちょっと話したんですけどF15との空中戦のこと。木佐貫さん聞きました?」

 「そのような状況になった事だけは聞きましたが」

 「そうですか。神崎さんが言うにはブルーファルコンは凄いって。凄い戦闘機だって」

 「凄いって、何が凄いのですか?」木佐貫が訊くと、伊藤は得意げな表情で話し始めた。

 「戦闘機同士が空中戦をする時、まず始めに後ろを取り合うらしいのですが、ブルーファルコンは急上昇から反転してF15のバックを取ったと言うんです。そして逃げるF15を追いかけた。F15は急反転などをしてブルーファルコンを振り切ろうとしたらしいのですが神崎さんは後ろを取り続けた。旋回性能がF15よりブルーファルコンの方が優れていると言うんですよ」

 「F15よりも?」

 「そう言ってました、神崎さんが。だから、フライトレコーダーを早く解析して、その時の状況がどんなだったか知りたいんですよね」

 「神崎さんがそう言うのであれば間違いないかもしれませんね。運動性能は伊藤君の分野ですから、そちらの解析は伊藤君に任せます」

 「はい」

 「私は、翼が破損した原因を究明しなければなりません。今の話から推測するとブルーファルコンの旋回能力が設計時に想定していた強度を上回る負荷を機体に与えた可能性があります。卓上だけの計算では知り得ない事が実戦のデータから得られることがままあります。松島基地にブルーファルコンを持ち込んだのは、その実戦形式でのデータを集積してブルーファルコン2号機の製作に役立てようとしたためでもあるのですから」

 ブルーファルコンは三川重工社内での試験飛行のメニューをすべてこなし、松島基地に持ち込まれた。社内での試験飛行においては何のトラブルも発生しなかったが、ハードな飛行をした際に、機体のどの部分にどれだけの負荷が掛かり、それによりダメージが発生するのかを検証するのが目的であった。

 三川重工ではよりハードな飛行をブルーファルコンにさせるために、「戦技研究班」の名目で誕生した第二期「ブルーインパルス」に白羽の矢を立てた。そして防衛省に掛け合いブルーインパルスのパイロットによるテスト飛行が実現したのである。

「と言うことは、神崎さんが持ち帰るフライトレコーダーのデータは相当に重要なものになりますね」

「そういうことになります。F15との空中戦のデータは今後得られる事など無いでしょうし、墜落という大きな犠牲も払っているのですからね」

 伊藤は神妙な顔つきで静かに頷いた。

 その時「もう昼食を済ませたのですか?」と木佐貫の背後から声がした。木佐貫が首を捩って振り向くと富樫が立っていた。

「はい、神崎さんが戻ってくる前にと思いまして」と木佐貫は座ったまま答えた。そして、尋ねた。

「何か連絡が入りましたか?」

「いや、何も」木佐貫達のテーブルの脇に移動し富樫は答えた。

「そうですか」と木佐貫が返したところへ、

「司令」と管制官の佐々木が調査隊の鈴木三佐とスーツ姿の二人を伴って食堂に入って来た。スーツ姿の二人は食堂内に入ってくると辺りを見回しながら近づいてきた。その目つきは悪く、鋭さも感じられ気分のいいものではなかった。

 厨房の千賀子は見慣れぬ外部の者が食堂に入って来たのをいち早く察知した。スーツ姿の二人の目に止まらぬようにカウンターの陰に屈んでその様子を見ていた千賀子は、二人の目の配りや所作からして一般の人間ではないと悟った。そして、その二人の目に触れないように振り返り、素早くバックヤードへと消えていった。バックヤードに入ると奥の出口に向かい廊下に出て、白衣と帽子を脱ぎながらロッカー室に向かった。

「鈴木三佐が司令に紹介したい方が来られたと言うのでお連れいたしました」佐々木が言うと、

「お昼時に申し訳ありません」と鈴木はその後に続けて話し始めた。

「このお二人は公安の江本係長と山田主任です」そう鈴木が言うと二人はそれぞれ名刺を富樫に渡し、「江本です」「山田です」と名乗った。

「実は、自分は防衛省の方から公安の捜査にも協力するように言われておりまして」と鈴木が言うと、

「私もその件については承諾しているので出来る限りの事は協力したいと思っています」と富樫は答えた。

「ありがとうございます司令。それで、早速なのですが、この写真を見ていただきたいのですが」と言いながら江本係長が内ポケットから5枚の写真を取り出し、木佐貫と伊藤が座っているテーブルの上に広げた。

「みなさんも見てください」その写真には一人ずつ写っていて、男四人と女が一人いずれも遠くから隠し撮りされたような写真であった。

「この中で見たことがある人はいませんでしょうか?」

 木佐貫をはじめ、富樫、伊藤、さらには佐々木と鈴木も5枚の写真を1枚ずつ見ていった。木佐貫は向かって左側から見ていったが、女が写っている写真で目が止まった。その写真は多少ぼやけてはいたが、斜め右前方から撮られていたもので、誰かに笑みを返しているような表情をしていた。その目元と口元が千賀子に似ているような気がして凝視していると、

「この女の人、どこかで見たことがあるような・・」と伊藤が言った。

「うむ、木佐貫さん、この女性、総務部で会った娘に似てませんか?」富樫が木佐貫に尋ねて来た。木佐貫が答える前に、

「基地内にいるのですか?」と江本係長が富樫に問うた。

「ええ、この食堂の厨房で働いています。今もいるはずですよ」富樫が厨房に視線を向けながら言うと、山田主任はすぐさま厨房へと向かっていった。

「この写真の人たちは?」富樫が尋ねると、

「CIAの諜報員です」と写真を仕舞い込みながら江本係長は言い厨房に目をやった。

 木佐貫も咄嗟に厨房に視線を向けたが、そこにはもう千賀子の姿は見当たらなかった。

 唖然とした表情で厨房を見渡すも視界は虚ろになり視点は次第にぼやけていった。

 突然の衝撃であった。千賀子がスパイ?そんなはずは・・。そんなはずはない。きっと人違いだ。よく似ているだけの事だ。あんなに料理が上手くて、あんなに気が利いて、あんなに優しくて、あんなに屈託のない笑顔で、一緒にいるだけで気が休まるのに・・。木佐貫には信じられなかった。いや、信じようとしなかった。

「ここで働いている女の人は?」山田主任がカウンター越しに厨房の人に尋ねると、

「さっきバックヤードに行きましたよ」とバックヤードの扉を見て言った。

「失礼します」と言って山田はカウンターをぐるりと回り厨房内に入りバックヤードへと走って入って行った。

「どうも逃げられたようですな。失礼します」江本は富樫にそう言うと、食堂の出口へ走って向かった。

 千賀子のロッカーは男性のロッカー室の隣の用具室の奥にカーテンで仕切って急遽設置された。千賀子は用具室に入りカーテンを開け奥に入り、そして閉めた。白衣をロッカーに突っ込みジャケットを取り出して羽織り、ポケットをまさぐり鍵を確認した。その鍵は木佐貫の車の合鍵であった。このようなこともあろうかと逃走時に木佐貫の車を拝借しようと予め造っておいたものだった。その鍵を握りしめたまま窓を開けると、隣の部屋のドアを閉める音がした。千賀子は素早い身のこなしで窓から外へと飛び降りた。そして、駐車場へと走って向かった。

 山田は男性のロッカー室を見渡し誰もいないことを確認しドアを閉めた。千賀子が聞いた音はこの音だった。山田は隣の部屋に移りドアを勢いよく開け廊下で身構えた。部屋の奥に風にゆらめくカーテンが見えた。駆け寄りカーテンをシャッと開けると窓が開け放たれたままになっていた。窓から身を乗り出し外を見回すと走って逃げる千賀子を見つけた。窓枠に手と足を掛け山田は外へと飛び降り追いかける。駐車場の方に逃げる千賀子を見て、

「車で逃げるつもりか。くそ」山田は車の鍵を持っていなかった。江本と山田は車で基地に来たが、江本が車の鍵を持っていたのだ。

 千賀子は駐車場の奥の方に止めてある木佐貫の車まで来ると鍵をドアの鍵穴に差し込みロックを解除し車に乗り込んだ。セルを回すとすぐさまエンジンが掛かり急発進をして駐車場の出口へ車を向けスピードを上げた。前方に両手を広げ立ち塞がる男が見えた。山田だ。千賀子は表情一つ変えずさらにアクセルを踏み込み車を加速させた。

 山田は運転席の千賀子を凝視しながら身構えた。

「この女、このまま来る」千賀子の表情からそう読み取った山田は少し姿勢を低くした。

 千賀子は山田を避けようともせず真っ直ぐ山田に向かってハンドルを固定し突っ込んで行った。衝突するその刹那、山田は車のボンネット上に飛び移った。ボンネット上に横たわった山田はフロントガラスに打ちつけられ落ちそうになった。咄嗟に運転席側のフェンダーミラーを掴みボンネット上に残った。そして、体を横にして千賀子の視界を遮った。千賀子は一旦左にハンドルを切り、次の瞬間には思いっきり右にハンドルを切った。左に強烈な遠心力が掛かり、山田がしがみついていたフェンダーミラーがバキッと壊れ、山田はフェンダーミラーを掴んだまま車の左側に振り落とされ、地面にごろごろと転がった。

 千賀子は車の体勢を立て直し、駐車場から出て正面ゲートへと向かっていった。

「くっそー」山田が半身を起し千賀子の車を見ていると、車のクラクションが聞こえ1台の車がスピードを上げ近づいてきた。そして、開いている窓から「山田、乗れー」と声がした。江本だった。江本は食堂から外に出ると走って駐車場に向かう千賀子と山田を見つけて別ルートで駐車場に向かって来ていた。

 山田は起き上がり、少しスピードを緩めた車に駆け寄りドアを開け飛び乗った。千賀子は基地内の道路を猛スピードで正面ゲートに向かって行った。

「逃がさん」江本はそう言うと車のアクセルを踏み込み千賀子を追った。

「山田、宮城県警に応援要請しろ」

「了解」正面ゲートまでの間に山田は宮城県警への応援を無線で済ませた。そして、千賀子がどの方向に向かうのかを逐一無線で知らせることにした。

 千賀子は正面ゲートまで来ると門衛の所で停止することなく通過し公道を左へと出た。

 門衛が右往左往している横を江本はスピードを落とさず通り抜け、タイヤが横滑りする音を残し左に勢いよく曲がった。すると、千賀子が県道247号線を右折するのが見えた。山田は窓から手を出し回転燈を屋根の上に載せ、江本はサイレンを鳴らし千賀子の後を追い県道247号線を右に折れた。県道247号線は交通量が多く、他の車たちは衝突を避けようと急ブレーキをかけ右に左に避けた。

「基地から左に出て、広い通りを右に曲がった」山田が無線で宮城県警に連絡を入れる。

「了解。その道路は県道247号線だと思われます」

「すぐ先が右に大きくカーブしている」

「了解。石巻警察署から応援車両を向ける」

「よろしく頼む」

 千賀子は前の車を追い越しながら猛スピードで逃げる。

「あの女、いい度胸しているぜ」江本の言葉に、

「相当ですよ、あいつ」千賀子の車に飛び移る時、山田はほんの一瞬その表情を見ていた。人を撥ねようとしているのに表情一つ変えずに向かって来る千賀子を思い出し答えた。

 千賀子はパッシングしながら対向車線にはみ出し逃走していた。対向車は路肩に逸れ衝突を避けていたが、それでも衝突しそうになった時には、千賀子は走行車線を並走している車を左に押しやるようにぶつけて対向車との衝突を避けながらスピードを落とすことなく逃げていた。江本たちはその後を走っているので衝突の危険性はあまり無くついて行った。

 県道247号線は松島基地を右に出た後、右に大きくカーブして真っ直ぐ進むと今度は左に折れて石巻方面へ向かう。程なくすると右側に北上運河と呼ばれる川が並行して流れるのが見えてきた。

「道路のすぐ右側に川が見える」山田が逐一無線連絡をする。

「了解。その先の工業地帯で県道247号線を封鎖する予定です」

「相手は猛スピードで逃げている。気を付けてくれ」

「了解。連絡しておきます」

 前方に信号機のある十字路が近づいてきた。進行方向の信号は赤だが千賀子はスピードを落とさず信号待ちしている車の右側をすり抜け交差点を通過しようとした。その時、千賀子の視界の左側に車の影が写り込んだ。千賀子は咄嗟にブレーキを踏みハンドルを右に切ったが間に合わなかった。千賀子の車の前方左側面に左から来た車のフロントが衝突した。

 スピードを殺しきれずに衝突したため、千賀子の車は勢いよく交差点の右側に押し出されるような形となり、交差点の右側に掛かる橋の欄干の左脇をすり抜け、県道247号線と並行して流れている北上運河へ水しぶきを上げて落ちた。千賀子の車に衝突した車は信号機の鉄柱にぶつかり止まった。

 川に落ちた千賀子の車は少しの間浮いていたが、みるみる水が車内に入り静かにすーっと沈んでいった。江本と山田が車から降り川の所まで来た時には、車の屋根が川面から少し見えていたが、やがて屋根も見えなくなり完全に水没した。

「山田、県警に報告しクレーン車を手配させろ」

 江本はそう言いながらも川面を見渡し続けていた。千賀子が沈んだ車から抜け出して浮き上がってくるかもしれないと思ったからだ。

 江本たちが食堂に入って行っただけで自分たちの事を察知し素早く逃げにかかり、山田の追跡を振り切り、車で逃走する様子を見た江本は、あの女は相当な手練で、そう簡単には死なないような気がしたのである。

「県警に連絡しました」山田が戻ってくると、

「あの女、車から脱出しているかもしれん。お前もこの周辺を見ていてくれ」と言って江本は橋を渡り、橋の中央付近から車が沈んだ辺りを見た。濁り気味の水中に車の屋根らしきものがおぼろげに見えた。江本は橋の左右両側を交互に見張った。

 数分すると宮城県警から連絡を受けた石巻警察署のパトカー数台も到着し現場付近の大捜索が行われた。しかし、千賀子が車から抜け出し逃走した形跡は見当たらなかった。

 江本は駆け付けた石巻署員を通じて周辺道路で検問を行うよう石巻警察署に依頼をし、主要道路での検問が時を待たずして実施された。

 後ほど沈んだ車を引き上げるためにクレーン車と水中作業をする宮城県警のダイバーが現場に到着した。江本は車引き揚げ作業の前に、車の中に人がいるかどうかの確認をダイバーに頼んだ。

 ダイバーは橋の袂から北上運河へと入っていった。水の流れは殆ど無く水中の見透しも良くはなかった。ダイバーは車の屋根が薄ら見えるところまで泳いで行くと水中に潜って行った。江本と山田は橋の上からその様子を見守っていた。

 ダイバーは5分ほどで浮き上がって来た。そして、橋の袂の川岸に泳いで戻って行った。江本たちも川岸へと小走りで向かって行った。川岸に泳ぎ着いたダイバーに手を差し伸べ引き上げた江本は尋ねた。

「どうでした?」ダイバーは川岸に腰を下ろしマウスピースを外し、

「車中には誰もいませんでした」と答え、そして、付け加えた。

「運転席側の窓が開いていたので、そこから車内を見渡したのですが助手席側にも後部座席にも人の姿は確認できませんでした。車外に投げ出された可能性もあるので、車の周辺も少し見てみたのですが見当たりませんでした。水が濁っていて視界があまり良くないので周辺をもっと捜索してみないと何とも言えないですけど・・」

「そうですか。ありがとうございます」江本は千賀子が逃走した可能性の方が高いと思った。

「では、引き上げの方よろしくお願いします」江本はダイバーにそう言うと山田に声を掛けた。

「あの女、間違いなく逃走している。ずぶ濡れでケガをしている可能性もある。この川の周辺に捜査員を増員し捜索範囲も広げる。おまえは宮城県警に増員の要請をしてくれ」

「了解しました」

 千賀子の運転する車が落ちた北上運河は、東側は石巻港に流れ込む定川の河口から、西側の鳴瀬川が石巻湾へ流れ出る河口へと続くおよそ6kmに渡っていた。川の流れがほとんど感じられないので、車が水没した地点から東と西側両方を捜索した。

 運河沿いには住宅地や、海浜緑地などもあり潜む場所は多かった。捜索は聞き込みをしながら捜索範囲を次第に広げていった。そして、主要道路での検問も時間の経過と共に検問個所を増やし広範囲で行われるようになった。

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