第11話 RZV VS ランサー
神崎が総務部のドアを開けると、既に富樫司令と木佐貫が総務部の坂本部長の机の前に立っていた。
「司令、ブルーファルコンのフライトレコーダーが見つかったって本当ですか?」息を切らしながら近寄って来た神崎に、
「随分と早耳だな、神崎。報告書を書いていたんじゃないのか?」と富樫は訊いた。
「はい、途中でしたがフライトレコーダーが発見されたらしいと聞いたものですから確かめたくて」
「うむ、鮎川漁協からの説明からするとどうもそのようなのだが、実際に見てみないことにはブルーファルコンの物かどうかは分からん」
「それで、」と坂本総務部長が口を挿んできた。
「網にかけた漁船が12時頃鮎川港に帰ってくると言うので、誰を引き取りに行かせようかと司令と話していたところだ」
「自分に行かせてください」間髪を入れずに神崎が申し出た。
「しかし、お前は報告書を書かなきゃいかんだろう」
「私が行きましょうか?場所さえ教えていただければ」富樫と神崎のやり取りに木佐貫が割って入った。木佐貫もまた会社への報告書をまとめている所なのだが、もし網にかかった物がブルーファルコンのフライトレコーダーだとしたらその解析が優先される。その解析如何によっては報告書の内容も変更せざるを得なくなるため報告書作成を一旦止めざるを得ない状況だった。木佐貫としては、その網にかかった物がフライトレコーダーかどうかを早く知りたかったし、フライトレコーダーなら早く解析したいのである。
神崎も本来ならフライトレコーダーの回収に自分が係わることではないことは分かっている。それゆえここは木佐貫か他の者が行くべきところなのだろうが、神崎としては一日中部屋に閉じこもって報告書を書き続けることがどうにも耐えられないのである。だから息抜きも兼ねて外に出たかった。いや、絶対に出なければ自分は窒息してしまう。
神崎は木佐貫を見て懇願した。
「木佐貫さん、自分に行かせて下さい」そして木佐貫から司令に眼を移し、
「司令、今回の事は自分に責任があります。ですから自分に取りに行かせて下さい。報告書は帰ってきたら今日中に書きますから是非とも行かせて下さい」と腰を折り敬礼をして再び懇願した。
「そんなに言うんだったらお前に頼もうか。ただし、報告書は今日中に提出しろよ」
富樫は神崎が報告書を書くこと以外これといった業務が無い事を知っていたし、墜落後の身体検査において異常が無かったのでフライトレコーダーを取りに行くぐらいの事は大丈夫だろうと判断した。とは言っても精神的なダメージを受けているのは周知の事で、当分の間は地上勤務をして、その後、復帰できるかどうかを判断していかねばなるまいと考えていたところでもある。
「ありがとうございます」神崎はもう一度敬礼をした。
「木佐貫君もそれでいいかな?」
「ええ、私はかまいません」
「それじゃあ神崎」と坂本がメモを見ながら話し始めた。
「フライトレコーダーらしき物を網に掛けた漁船の名前は牡鹿丸。その牡鹿丸が鮎川港に帰港する予定時刻が12時頃。船長の名前が千葉。鮎川港の位置がここだ、分かるか?」と言い机に広げてある地図で場所を指差した。
「はい、この近くを何度か通ったことがあるので分かります」
「そうか、では、受け取りだが、これは直接船長からでかまわないということだ。ただしその時身分証を提示して松島基地の隊員であることを証明しろ。お前が行くことを電話で漁協に連絡して船長に伝えてもらうようにしておく。いいな」
「了解しました」
「何か質問は?」
「ありません。では・・」そう言って敬礼しかけた神崎に、
「神崎、何か聞かれても・・・、分かっているな」言い含めるように富樫は言った。
「承知しております、司令。では、行ってまいります」神崎は右の掌を真っ直ぐ伸ばし、指先をこめかみの所に合わせ挙手による敬礼をした。富樫が僅かに頷くのを見ると一歩下がり回れ右をして、静かに、しかし、素早く部屋を出て行った。
「大丈夫でしょうか」坂本が神崎を心配してぼそりと言った。脱出時に幸いにも怪我を負うことは無かったが精神的なダメージを受けているのではないかと心配して口から漏れ出た言葉だった。脱出して無事助かったパイロットでも、心に傷を負い、空に戻れなくなった者を坂本は知っていた。富樫も幾人かそういうパイロットを見てきたので坂本の言葉の意味には気がついた。
「ちょうど良かったのかもしれん。外の空気を吸って気晴らしになるかもしれない。・・なあに、あいつは大丈夫さ」坂本の心配に、そして、自分にも答えるように富樫は言った。
そして、神崎が出て行ったドアの方に視線を向けると、神崎が閉めたはずのドアが少し開いているのに気が付いた。
「誰かいるのか?」
「あ、すみません。なんか、込み入った話をされているようだったので」女の声でドアの外から答えが返ってきた。
「もう終わったから入ってきて構わんよ」
「はい」そう言ってドアを開き入ってきたのは千賀子だった。
「失礼します」お辞儀をし「食材費の明細をお持ちいたしました」とドアの前から坂本に言った。
「ああ、こちらに持ってきてくれ」坂本は手招きをした。千賀子は書類を両手で胸の前で持ち、木佐貫と富樫の前を通り坂本に書類を差し出した。
「ご苦労さん」
「では、失礼します」千賀子は振り返り富樫にぺこりと頭を下げて前を通り、木佐貫にちらりと視線を向けた。その目元にはかすかな笑みが浮かんでいたように木佐貫には感じられた。千賀子が部屋を出て行くまで木佐貫はその後ろ姿を見ていた。
「彼女は・・」富樫が尋ねようと口を開くと、
「はい、食堂で臨時採用した女性です」坂本が答えた。
「なかなか働き者だと評判なんですよ」
その言葉を聞き木佐貫は嬉しかった。自分の好きな人が他の人から良く見られていることは嬉しいものなんだなと木佐貫は思った。思えば随分と千賀子に会っていないような気がした。ブルーファルコンが墜落をしてその対処に追われてここ二日は寝る間も殆ど無くバタバタしていた。だからよけいにそう思ったのかもしれないが、千賀子が木佐貫の部屋に泊まったのは三日前の14日だった事を思い出した。
「そうですか。では、私たちも失礼しようか、木佐貫君」
「あ、はい」ぼーっとしていた木佐貫が返事をするのを見て、
「彼女の事、気になりますか?木佐貫さん」と坂本が声をかけた。
「え、あ、いえ」
「いい娘ですよ。独身ですし、声を掛けてみられてはどうです」
木佐貫が独り身であることを知っている坂本が半分冷やかした。木佐貫は少し含み笑いを浮かべ、「失礼します」と言って、部屋の出口に向かっている富樫の後に続いた。
部屋を出ると、富樫が振り向き「かわいい娘でしたね」と言った。
「司令まで」
「こういうことも大事なのですよ。これからまた気が重い仕事に戻らねばならんのですから。では」そう言うと富樫は木佐貫に背を向け司令室へと向かった。
その頃、神崎は宿舎に急いでいた。「やったぜ、バイクで憂さ晴らし出来るぜ」神崎は始めから車ではなくバイクでフライトレコーダーを受け取りに行くつもりだった。しばらく空を飛べない神崎にとってバイクが戦闘機の代役、または、心の拠り所になってくれると感じていた。加速や旋回時に受けるGは戦闘機とは比べようもないが、風を体に受け、流れる風景を間近に感じながら走れば、そのスピード感は戦闘機をも上回る時がある。神崎は戦闘機に乗れない間、救いの手をバイクに求めていた。
はやる心は神崎を駆け足にさせた。宿舎の自分の部屋に入ると、クシタニのライダーズジャケットを羽織り、ショウエイのフルフェイスとこれまたクシタニのグローブを手に持った。そして、バイクのキーをポケットに入れ、リアシートに荷物を積む時に使う、フックの付いたゴム紐が網目状になっている物と古くなったバスタオルを掴んで部屋を出た。
バイクは宿舎脇の屋根のかかった自転車置き場に止めてあった。ヘルメットなどの荷物を一旦地面に置き、キーをメーターパネルの所にあるイグニッションに差し込みハンドルロックを解除した神崎はバイクを自転車置き場から引っ張り出してサイドスタンドを立て再び止めた。
白地に赤のストライプのラインが入ったフルカウルを身に纏ったヤマハRZV500Rはサーキットを疾走するようなバイクだ。500cc2サイクルエンジンのV型四気筒を搭載しており、最高出力は64馬力である。イグニッションに差し込んであるキーをオンの位置にすると、燃料タンクの左側下部にある燃料コックをオンの位置に合わせ、そのやや下にあるチョークノブを引いた。サイドスタンドを立てたままバイクに跨るとエンジン右側の折りたたんであるキックペダルを開き、右足でそのキックペダルを強く踏み込んだ。2回、3回とキックペダルを踏み込んだがエンジンは掛からない。4回目でようやく、バ、バ、バ、バラン、バランとエンジンが寝ぼけたような音を出し目覚めた。
神崎は右ハンドルのアクセルを2度ほど捻った。それに合わせエンジンがヴゥワン、ヴゥワンと唸りを上げ、四本のマフラーからは白煙が噴き出された。その後バラ、バラ、バラとエンジンは低回転でアイドリングを始めた。一度バイクを降り、折りたたんだバスタオルをリアシートに置き、フック付きの網目状になっているゴム紐をバスタオルを覆うように被せ、6個のフックを左右のサイドフェンダーに3カ所ずつ引っかけ固定した。張力は十分あり、これならフライトレコーダーをリアシートに積んでも大丈夫だろうと神崎は思った。ヘルメットを被り、グローブをはめてバイクに跨りサイドスタンドを蹴り上げ、チョークノブを戻し、アクセルを2、3度捻り、クラッチレバーを握り、ギアチェンジレバーを踏み込んだ。エンジン回転を上げクラッチミートするとRZVはスーッと動き出した。
正面ゲート前でバイクを止め、門衛の所に行き「3、4時間外出します」と言って出入記録簿に名前等を記載し、再びバイクに跨った。公道に出ようと一旦停止して左右を確認すると右側のやや離れた所に白い車を確認した。しかし、この車はどうも停車中らしくこちらに向かってくる様子がなかったので、神崎は左折をして公道へと出て行った。
止まっていた白い車が動き出したのはその直後だった。
神崎のバイクは県道247号線へ出ると右折し石巻方面へと向かった。白い車も後を追うように右折した。程なくすると左右に大規模な工場が立ち並ぶ石巻の工業地帯に入り込んだ。工場で生産している物によってその周辺の空気が独特の臭いのバリアを張り巡らしている。その特有の臭いのバリアの中を幾つか通り抜け海辺の道路に出た。東に一直線に延びる道幅の広い道路は、右手に陽光を反射させ煌めく太平洋を望める。工業地帯特有の臭いの中を走ってきてから磯の匂いを乗せた海風を受け、バイクで走っているととても気持ちが良い。気持ちが良すぎてついアクセルを開けてしまいスピード・メーターに目をやると、90km/h付近をメーターの針が指していた。警察を気にしてバックミラーをチラッと見ると白い車が映っていた。一瞬ドキッとしアクセルを緩めたが、屋根の部分に回転燈らしきものが無いのでパトカーで無い事がすぐに分かった。神崎は少しスピードを落としたまま前方に目をやると上り坂が見えてきた。北上川の広い河口に架かるアーチ状の日和大橋だ。橋を上り頂上付近からの眺望を楽しみながら渡りきると料金所がある。そこで止まると鼻をつく臭いがした。近くに魚の加工工場でもあるのだろうか。神崎はポケットから100円硬貨を一枚出して料金所の人に渡した。
バックミラーを見ると、先程の白い車が後ろに止まっていた。「三菱ランサー」か、神崎は車種を確認し、運転席も見た。ドライバーは男でサングラスをかけていた。この時神崎はあまり気にも留めずにいたが、国道398号線へ出て渡波方面へ向かってもこの車がついてくるので気に懸かってきた。「俺はつけられているのか?」
と言うのも、調査隊の事や、新田班長が「スパイを探しているのさ」と言ったことが思い出されて「もしや、こいつが?」と思い始めたのである。
「まてよ、この白い車は基地を出る時に右手に止まっていた車ではないのか?」神崎の頭の中では疑念が止まらなくなっていった。
神崎の疑念は当たっていた。ランサーを運転していたのは猪俣である。猪俣は千賀子からフライトレコーダーの回収を神崎がするという連絡を受け、神崎が基地から出てくるのを待ち構えていたのだった。
渡波の駅前の道路を右手に折れると鮎川港へ向かうのだが、神崎はそのまま直進して女川へと向かった。少し遠回りをして鮎川港へと向かい、後ろの車が追いかけてくるのかを確かめようとした。養殖棚が点在する万石浦を右手に見ながら走行する。ランサーは少し離れてついてきている。女川に入るとすぐに右に折れ、牡鹿半島を縦断するコバルトラインへと向かった。
緩やかな勾配の道を上っていくと料金所が見えてきた。料金所で一旦バイクを止めヘルメットのシールドを開けて、自動二輪車の通行料金の200円をポケットから出すと、
「こんにちは、今日は警察の人は入っていますか?」と尋ねながら料金所の人に渡した。
コバルトラインでは時々スピード違反の取り締まりをしているのである。昨今バイクブームとなり全長34キロメートルに及びワインディングロードが続くコバルトラインはライダー達の絶好の走行スポットとなっていた。それを警察では時々取り締まりをしていたのである。
神崎は以前料金所の人から「この先で取り締まりをしているから」と教えられたことがあるので、それ以降料金所の人に尋ねることが常となったのだ。
「今日は入っていないよ」
「ありがとう」そう言いながら神崎はバックミラーに目をやった。ランサーはゆっくり料金所に向かってきていた。
「間違いない、奴は俺をつけている」
神崎はヘルメットのシールドをパコンと閉め、バイクを発進させスピードを上げ逃げるように走った。
猪俣はそれを見て「フン」と鼻を鳴らして料金所に入った。
「400円です」料金所の人に言われ財布を覗くと、小銭がちょうど400円あったのでそれを渡し、すぐさま料金所を出た。
神崎はかなりのスピードで走っていた。コバルトラインには何度も走りに来ていたので次のカーブがヘアピンのようにきついカーブなのか、高速で走れる緩いカーブなのかをほぼ把握していて、バイクのスピードをカーブに合わせてコントロールして駆け抜けていた。
その腕前は、コバルトラインに走りに来るライダー達の中でも1、2を争うものだった。
しかし、神崎は自分が速く走れる限界ギリギリのスピードではなく、7、8割のスピードで走り、少し余力を残していた。それでも「普通なら追い付いてこられない」速さで走っていたが、一応バックミラーでランサーが追い付いてこないかを時々見ていた。
一方の猪俣は神崎のバイクを2、3のカーブが見通せるところで確認できる距離で付かず離れず走っていた。
コバルトラインから望める勇壮な景観を楽しむこと無く半分ほども走りきる頃には、神崎は2台の車を追い越していた。バイクの瞬発力のある加速があれば乗用車は容易く追い越しができる。
一方の猪俣もそれを追うように追い越しをしていた。カーブの手前で前の車との距離を幾分開け、前の車より速いスピードでコーナリングをして、カーブが終わる付近では前車に追い付き、対向車がいないことを確認し、そのままランサーを加速させスピードを乗せながら右車線に持ち込みあっという間に追い越してしまう。それは猪俣にとっては容易なことであった。そして、猪俣はペースを上げていた。
少し長い直線部分のところで神崎はバイクのバックミラーにチラチラと猪俣のランサーが写し出されるようになってきた事に気付いた。
「なんてこった、追い付いてきやがった。そう言えば、ジェームズ・ボンドも車の運転は上手かったもんな」
神崎の中ではスパイと言えば「007」のジェームズ・ボンドなのであった。神崎もスピードアップした。それでもランサーはバックミラーに写し出されている。しかも、その姿が徐々に大きくなってきた。「こいつはただ者ではないな」そうなのだ、猪俣は元ラリードライバーだ。車をおもちゃのように扱うテクニックを持ち如何なる路面状況でも速く走ることができるプロのドライバーであったのだ。
神崎はアクセルを緩めてスピードを落とした。2つ目の料金所に着いたからだ。料金所で止まり、ポケットからまた200円を出し「はい」と料金所の人に渡しバックミラーを見ると、ランサーはゆっくりと近づいてきていた。
「こっからが本番だぜ」
神崎はギアペダルを踏み込みギアを1速に入れ、上半身をタンクの上に被せるようにしてアクセルを捻りエンジン回転を5000まで上げ半クラで回転を落とさないようにクラッチミートした。グイッとRZVは急発進しフロントタイヤを持ち上げた。ステップを踏ん張り、前方に重心を掛けフロントが浮き上がらないように抑え込む。それでもフロントタイヤは宙に浮き続ける。クラッチを切り、ギアペダルをかき上げ2速へ入れクラッチレバーをパッと離しアクセルをさらに捻ると、一度接地したフロントタイヤはまた宙へ浮き上がりRZVは暴力的な加速を始めた。
エンジン回転数を示すタコメーターの針はレッドゾーンの10000回転を超え、スピード・メーターの針は100km/hを回っていた。ギアを3速に入れると漸くフロントタイヤは地面を捉えRZVはカーブへと消えていった。
その頃猪俣は料金所に止まった。「400円です」と言われ財布を覗くと、前の料金所で小銭を使い果たしていて無かった。1000札を取り出して渡したが、おつりが出てくるまでちょっと時間が掛かってしまった。普通なら焦るところなのだろうが猪俣は神崎の速さと自分の速さの力量を推し量り、「すぐに追いつける」と踏んでいた。
神崎の本気の走りのスピードは、猪俣の予想を上回っていた。カーブに差し掛かる直前までアクセル全開で来てフルブレーキング。と同時に曲がる方向にシートから少しお尻をずらし、膝を開き、ギアをひとつ、ふたつとシフトダウンしていく。その度にアクセルを捻りエンジン回転を合わせクラッチミートしてパワーバンドにエンジン回転数をキープする。バイクを傾け、カーブのアウト側からインへと切れ込んでいく。イン側の開いた膝が路面スレスレになるまでバイクを傾け、アウト側の足でステップを強く踏み込みバイクを抑え込む。視線はカーブの出口に向け、直線が見えてきたらアクセルを開ける。バイクは加速と同時にアウト側へふくらみ傾いている状態から起き上がろうとする。パワーバンドからのフル加速はバイクが傾いている状態でもフロントタイヤが浮き上がろうとするか、駆動輪であるリアタイヤが空転してスリップしてしまう。それを外側の膝でタンクを、そして、アウト側のステップを踏みつけるように足に力を入れてバイクを路面に押しつけるように抑え込み、これまでにないスピードでカーブを立ち上がっていく。500cc2サイクルエンジンのパワーはケタ違いのスピードを出す。
猪俣が料金所を出る頃には神崎はかなり先まで行っていた。神崎が飛ばすのには思惑があったからである。コバルトラインは有料道路ではあるが一般道へ続く道が幾つか枝分かれしている所がある。そのため料金所がふたつ設けられていたのである。神崎はふたつ目の料金所から程なくした所に鮎川港へと向かう道が枝分かれしていることを知っていた。そこまで猪俣と距離を離しておいて、その道を曲がったことを気付かせないでおきたかったのだ。
猪俣は漸くおつりを受け取り、その小銭をポケットに突っ込み、窓を閉め料金所を出た。猪俣もまたペースを上げた。神崎が料金所を出た時の飛ばし方を見て、これまで以上にスピードを上げないと追いつけないだろうと感じていたからだ。
直線でスピードを乗せ、カーブが迫ってくると右足でブレーキング。と同時に、左足でクラッチペダルを踏み込み、左手でシフトノブを操りシフトダウン。左足でクラッチを繋ぐ瞬間、右足のつま先でブレーキを踏み込んだまま、その踵でアクセルペダルを踏み込みエンジン回転を上げる。所謂ヒールアンドトゥでシフトダウンしながら、常にエンジン回転をターボが効く回転域にキープしながら減速していく。カーブ入口で一旦アウト側にハンドルを切り、すぐさま今度はイン側にハンドルをグイッと切りこみながらエンジン回転を上げフルパワーをリアタイヤに伝えるとタイヤは空転しアウト側へとスライドを始める。イン側に切ったハンドルをスライドに合わせ今度はアウト側へと切り返し、車の姿勢をパワースライドから4輪ドリフトへと持ち込む。ランサーはカーブに対し、カニのように横向きに滑りながら走りカーブを曲がって行き、直線が見えたらハンドルでドリフトを修正し160馬力をリアタイヤに伝達して、猪俣の背中をシートへ強く押し付け加速していく。
猪俣はランサーを左右に振り回しながら連続するカーブを神崎を上回るスピードで駆け抜けていった。
その頃、神崎は鮎川港へ向かう道が枝分かれしている地点に近づいていた。バックミラーで確認するもランサーは見えない。「よし」神崎はスピードを落としコバルトラインから右に枝分かれしている道へとRZVを滑り込ませ、鮎川港へと下っている道を急いで走らせた。
やや遅れて猪俣はその地点までやって来た。長めの直線部分の途中に右に枝分かれした道を猪俣は確認したが猛スピードでそこを通過した。猪俣の計算ではあと僅かで神崎に追い付くはずだったからである。連続するカーブを幾つか走り抜け、少し長い直線部分においても神崎のバイクを確認できない猪俣は「おかしい」と思い、窓を開けてみた。
すぐ後ろまで迫っていれば、2サイクルエンジン特有の甲高い排気音やオイルが焼ける臭いを感じることができるはずなのだが、音も聞こえなければ臭いもまったくしない。
「くそったれ。あそこから曲がったか」猪俣は呟くと、ハンドルをグイッと右に切り込みサイドブレーキのレバーを引いた。後輪がロックし一瞬にしてランサーは180度スピンして対向車線へと車体を移動させた。その間にローギアへシフトダウンした猪俣はランサーを止めること無くUターンし枝分かれ地点へ向かった。
その頃神崎は鮎川漁港内に入ってきていた。時刻は既に12時を過ぎていた。さほど大きくない漁港内を見回し牡鹿丸を探しているとすぐに見つかった。岸壁に横付けしてある牡鹿丸のすぐ傍までバイクで行きエンジンを切りサイドスタンドを立て止めた。そして、ヘルメットを脱ぎ、甲板で作業している船員に大声で声をかけた。
「すみませーん。自衛隊松島基地の者ですが、船長さんいらっしゃいますかあ」
「おお、取りに来たのがぁ」
「え、はい」
「こいつだべぇ」と言ってその船員は腰をかがめ、甲板からオレンジ色の箱状の物を持ち上げて神崎に見せた。それは紛れも無くフライトレコーダーだった。
「あ、それです。」
その船員は岸壁越しに「ほれ」と言ってフライトレコーダーを差し出してきた。
「他にも何だがいろいろ網にかがったんだげど、こいづしかいらねって言うがら、あどは投げできた」
「ありがとうございます」と言いながら神崎は受け取り、それを一旦地面に置いて、ジャケットの内ポケットから身分証を出し、
「自分は松島基地の神崎と言います。船長さんですか?」と身分証を見せながら言った。
「んだ。そいづらの所為で」顎でフライトレコーダーを指しながら「網がだめになってしまった。直してもらいてぇところなんだげどもなぁ」と言った。
「すみません。帰ったら司令に報告しておきます」
「頼むっちゃ。ところで、飛行機でも落ちたのがぁ?」
「えっ?いや、自分はこれを受け取るように言われただけで詳しい事は・・」と神崎は言葉を濁した。
「ほうがぁ。まあいいや、んでは司令さんとやらによろしく言っといてくれや」
「分かりました。では失礼します」神崎は頭を下げ、フライトレコーダーを持ち上げ、急いで持ってきたバスタオルに包みバイクのリアシートに積みゴム紐で止めた。
バイクのエンジンを掛け「あいつが来る前に」漁港の出口へと向かった。
漁港の出口を左に折れ石巻方面へ向かい、先程コバルトラインから下って来た信号機のあるT字路に差し掛かった。青だったのでそのまま進みながら右手をチラッと見たらランサーが信号待ちをしていた。
「やべッ」神崎はアクセルをグイッと捻りランサーの前を横切った。
「見つけたぜ」猪俣は赤信号にはお構いなしにT字路から飛び出し神崎を追いかけた。ランサーは直ぐにRZVの後ろに付いた。「あれがフライトレコーダーか?」リアシートに今まで無かった荷物を猪俣は確認した。
「あとはお前を転ばせてそいつを奪えばいいだけだ。ちょろいもんだぜ」
猪俣は次の右カーブでドリフトしながら神崎との間合いを詰めた。カーブの出口で神崎はアクセルを開けRZVを傾けた状態のまま加速体勢に入ったその瞬間、リアフェンダーに衝撃を感じた。猪俣がランサーのフロントノーズをRZVのリアフェンダーにぶつけてきたのだった。
アウト側へ遠心力が掛かっている不安定なところへリアを押されるようにぶつけられたRZVはアウト側へとリアタイヤをスライドさせスリップダウンしそうになった。普通ならアクセルを戻してしまうところなのだが、神崎はアクセルを戻さずハンドルをアウト側に僅かに切る、いわゆるカウンターを当ててスライドを修正しながらカーブを立ち上がって行った。もし、アクセルを戻したならスライドしているリアタイヤがグリップを取り戻し、傾いているバイクが急激に起き上がり、その反動で乗っている人がバイクから振り落とされてしまうハイサイド現象を起こしてしまうのだ。神崎は経験上それを知っていた。
「ほう、なかなかやるじゃないか。少しは楽しめそうだ」猪俣にはまだ余裕があった。
「あの野郎わざとやりやがったな」神崎は猛然とRZVを加速させ次の左カーブへと向かった。カーブ入口までにランサーとの距離を広げた神崎はフルブレーキングをしてバイクを力ずくでねじ伏せるように素早く傾けインに切れ込んでいく。ガードレールすれすれをヘルメットが通過する。ガードレールからはみ出した薄の穂がヘルメットにピシッピシッと当たるも神崎は瞬きもせず前方を見据えカーブ出口が見えた所でアクセルを捻る。RZVはアウトに膨らみながら空気を切り裂くように加速する。
チラッとバックミラーに目をやると離したはずのランサーがすぐ後ろに付いている。
「くそっ、離せない。なんなんだあいつは」
「ふふっ、加速ではバイクに劣るがコーナリングスピードは4輪の方が速いんだぜ」
神崎は直線で引き離そうとカウルの中に体を隠すようにかがめアクセルを捻り続けた。突然、人が旗を振りながら飛び出してきた。「なに?」一瞬アクセルを緩めたが、次の瞬間にはまたアクセルを捻っていた。
「警察だ。こんな所でねずみ取りか?」
神崎はスピードを上げながらも警官を避け通過した。
「止まれー」と一瞬聞こえたような気がした。
「捕まるわけにはいかねぇんだよ」
猪俣のランサーもその後に続く。
路肩に待機していた白バイがそれを見て追いかけて来た。さらにパトカーも追いかけて来た。
「早く仕留めないと厄介なことになりそうだ」猪俣は次のカーブで神崎との差を詰め、その次のカーブでまたバイクにぶつけることを決めた。
「まずい、絶対まずいって」神崎は焦りながら右カーブへと進入していった。その時、路肩付近に水をまいたような黒い跡がカーブ入口から出口に掛けて付いているのを見つけた。
「油か?」
この水をまいたような黒い跡は、魚を積んだトラックが零して行ったもので、カーブの遠心力でアウト側の方に一筋の跡になって魚の脂が混じった水が零れ落ちたものである。右カーブでは路肩の方に、そして左カーブではセンターライン付近に零して行くのである。神崎は以前この「魚の油」をコーナリング中に踏んでしまいスリップして転倒したことがあったのだ。
神崎はその「魚の油」を避けるようにイン側付近を通って走り抜けた。猪俣も「魚の油」を踏むこと無くカーブを曲がり神崎との距離を詰めて来た。
次の左カーブのセンターライン付近にもその跡はあった。神崎は同じくこれを踏まないように走り抜けた。猪俣はここでバイクにぶつけようとランサーをドリフトさせ一気に神崎との間合いを詰めた。
「ジ・エンドだ」そう言って猪俣はアクセルを踏み込んだ。ランサーのノーズがRZVのリアフェンダーに接触しそうになった時、ドリフト中のリアタイヤが魚の油を踏んだ。その瞬間リアタイヤが猪俣の想定以上にスライドした。
「なに?」猪俣はハンドルで修正しようとしたがすでにランサーはスピン状態に陥って右側の車線へとはみ出して行った。さらに、道路からはみ出し山の斜面へぶつかるとランサーは横転して道路へと戻って来た。ランサーはひっくり返り屋根を路面に擦りつけコマのようにスピンしながら道路を滑り、道を塞ぐように止まった。猪俣はシートベルトをしていたので何とか無事であった。
逆さまになったランサーの車内でシートベルトを外そうとしているところへ白バイが来て止まった。隊員が降りてきて、屈んで窓から猪俣をのぞき込み、
「大丈夫か?」と声をかけて来た。
「ああ、こいつのおかげで大丈夫だ」と逆さまになった状態でシートベルトを掴み猪俣は言った。
「そうか、今パトカーが来る。助け出してもらえ」そう言うと隊員は再び白バイに跨り神崎を追いかけていった。
「けっ、大人しく捕まってられっかよ」猪俣はシートベルトを外すと開いている運転席側の窓から外へと這い出した。そして山側の斜面を駆け登り林の中へと分け入った。
「あいつ、大丈夫かな」神崎はバックミラーでランサーが逆さまになっているところを見ていた。「助けなければ」と思いながらも、「警察に捕まるわけにはいかない」神崎はアクセルを緩めることなく走り続けていた。風切り音の中に遠く後ろの方に白バイのサイレンが微かに聞こえる気がした。
左手に海が見える道路を飛ばしていると、入り江に漁船が数隻停泊していて、その周辺に集落が点在している。神崎は石巻に向かう道路から急に左に折れ、その集落へと入り込んでいった。そして、その集落の中の一軒の門をくぐるとクラッチを握りハンドルのキルスイッチでエンジンを切り、扉が開いている納屋の中へ静かにRZVを滑り込ませた。バイクから降りると素早く納屋の扉を閉め、その陰に隠れるようにしゃがみこんだ。「はあはあ」と喘ぎながらヘルメットを脱ぐと白バイのサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。
その時、「おめえ、誰だ?」と納屋の奥の方から声がした。
声がした方へと神崎が顔を向けると、
「ん?翔太が?」と言いながら一人の男が現れた。
「おじさん、こんにちは」
「おめぇ一人が?美香は一緒でねぇのが?」
この家は美香の実家で、この男は美香の父親の寅夫であった。神崎は以前美香を送って実家まで何度か来た事があったのだった。
「はい、今日は俺一人です」
その時、美香の父親も白バイのサイレンの音に気が付いた。
「なんだ、おめぇ警察から追っかけられてんのが?」
「まあ、一応」
「一応って、おめぇ、自衛官がまずいんじゃねぇの?」
「そうなの、まずいの。それで、ちょっとかくまってくんない?」
「ああ、いいけど・・」寅夫はちょっと考え込んで、そして続けた。
「いいけど、条件がある」
「えー、なに条件って。俺に出来ること?」
しゃがんでいる神崎に寅夫は近寄り、同じようにしゃがみこんで神崎の肩に手を掛け、
「おめぇにしか出来ねえことだ」と言ってにやりと笑った。
「俺に出来る事なら何でもするから」
「よし、わがった。おらに任せろ」
白バイのサイレンの音が少しずつ小さくなって遠のいていった。
寅夫は立ち上がり、「警察も行ったみてぇだし、まあ、お茶でも飲めや」と言い母屋の方へ歩いて行った。
神崎も立ち上がり、ヘルメットをバイクのミラーに被せるように置き、後に続いた。
寅夫は玄関から母屋に入ると「母さん、母さん、お客さんだ。お茶入れてけろ」と叫んだ。
「はーい」と美香の母親であるヤヨエが玄関に現れると、「こんにちは」と神崎は挨拶をした。
「あらまあ、翔太さん、お一人?」
「はい、ちょっと仕事でこちらの方に来たものですから」
「そんでもって警察に追いかけられてんだと」
「いやいや、おじさん」
「あらまあ、さっきのサイレンがそうなの?」
「おおかたスピード違反でもやらかしたんだべ」
「ええ、まあ」
「じゃあ、お父さん、はやく警察に電話しないと」
「えーっ、おばさん」
「待て待て、母さん。翔太が美香を貰ってくれるっちゅうからかくまってやることにした」
「えーっ」神崎とヤヨエは声を揃えて驚いた。
「それならそうと早く言って下さいよ、お父さん。さ、さ、翔太さん上がって、今お茶を入れるから」そう言いながらヤヨエは奥の方に引っ込んでいった。
「さあ、上がれ」
「おじさん、美香と結婚するなんて聞いてませんよ」靴を脱ぎながら神崎が言うと、
「あたりめぇだ、言ってねぇんだがら。んだげど俺ができることならなんでもやるって言ったでねえが」先に上がった寅夫が神崎の方に振り返り言った。
「それはそうなんですけど、美香が承知しないでしょう?」
「美香が承知すればいいんだな?」
「え、そうきます?」
「美香の事は、おらと母さんに任しておけ。まあ、心配すんなって」
「心配って、どういう心配なんすか」そう言いながら二人は茶の間に入り座卓を挟み向かい合って、寅夫はあぐらを掻いて、神崎は正座をして座った。
「あらまあ、翔太さん正座なんかして」ヤヨエがお茶の入った湯呑をお盆に載せ茶の間に入って来た。湯呑をそれぞれの前に置くと、寅夫の隣に正座をして座り、
「さあ、いいわよ翔太さん」と言った。
「何がですか?」
「ほら、娘さんをください、とか言うんでしょ、正座してるんだから」
「いやいや、そうじゃなくて、おばさん、ふつう正座するでしょ、人の家に来たら」
「まあまあ、母さん、その挨拶は今度美香と一緒に来た時にやってもらうべ」
「そうですか・・、今日でもいいんですけどねぇ」渋々ヤヨエは引き下がった。
「ところで翔太、おめえどうやって基地へ帰る?」
「どうって、少し経ったらバイクで帰ろうと思ってますけど」
「そしたら捕まっと。検問やってっぺがらな」
「でも、早く帰らないといけないんですよ」フライトレコーダーを司令や木佐貫さんが待っているのでのんびりはしていられない。特に木佐貫さんは早くフライトレコーダーを解析したいはずだと神崎は思っていた。
「おらが、軽トラックで送って行ってやっからバイクはおらいさ置いていげ。軽トラックなら怪しまれねぇがらな」
「いいんですか?おじさん」
「それはいい考えだわ。バイクを取りに来る時、美香と一緒に来ればいいんだわ」
「えっ?」
「そして、娘さんをくださいって、その時に、ね、翔太さん」
「いやいや」
「んだんだ、それがいい、母さん。そうと決まれば、ほれ、お茶飲んで行ぐど、翔太」寅夫はグイッとお茶を飲み立ち上がった。
「ちょっと待って下さいよ」
「何してる、早ぐ呑め」急かされて神崎は仕方なくお茶を一口飲み立ち上がった。松島基地に早く帰るにはこれが一番いいと思ったからである。しかし、この夫婦は突拍子もない事を思い付く。と思いながらも神崎は悪い気がしなかった。むしろ期待をしている自分がいることに気付く。心の内にある美香への想いがそのような感情を湧きあがらせていた。
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