第7話 蒼昊
ヘンドリクソン司令はアメリカ軍三沢基地の管制塔から駐機場のF15戦闘機を見ていた。背筋を伸ばし腰の後で握っていた手を解き視線を腕時計に移すと、時計の針は10時15分を回っていた。そして、また腰の後ろで手を握ると隣に座っている管制官に声をかけた。
「テイラー、順調か?」
「はい、間もなくアーミングエリアでのチェックが終わると思います」
するとパイロットのフレミング大佐から連絡が入った。
「チェック終了、指示を待つ」
「了解」と言いながらテイラーは司令を見た。ヘンドリクソンが小さく頭を縦に振るのを確認し、続けた。
「滑走路に移動してください」
「了解」
F15はゆっくり動き始め誘導路を進み滑走路の西端へ向かっていった。
「事前情報では10時30分の予定だが、CIAの工作員からマックに最終確認情報が入ることになっている。そうしたら即座にテイクオフだ。それまで待機させていてくれ」
「分かりました」とテイラーは答え、無線で、
「大佐、こちらの指示があるまで滑走路にて待機願います」とフレミングに伝えた。
その頃、国防情報局のマクレガーは三沢基地の一室で千賀子からの電話を待っていた。デスクに両肘を載せ顔の前で手を組みその前にある電話を凝視していた。その視線を少し上にずらして壁に掛けてある時計を見ると時計の針が10時半を指そうとしていた。足を小刻みに揺すりながら「どうなっているんだ」と心の中で苛ついていた。
すると「リ・・」と微かにベルが鳴り、その瞬間マクレガーは素早く左手で受話器を持ちあげ左耳に当て、「マクレガーだ」と言った。
「離陸開始」女の声がした。
「分かった」マクレガーが言い終わらないうちにガチャリと受話器越しに電話を切る音がした。
マクレガーは即座に右手の人差指で電話を切りその指で管制塔へダイヤルした。
「司令に伝えてくれ、今、飛び立ったと」
管制塔でマクレガーの電話を取ったのはテイラーの同僚の管制官だ。
「司令」
「マックか?」ヘンドリクソンが視線を滑走路のF15に向けたまま問うと、
「はい、今、飛び立ったと」
それを聞き素早く「テイラー」と命令口調で名を呼んだ。
「イエッ、サー」テイラーが返事をし「大佐、離陸してください」と無線でフレミングに指示を出した。
テイラーの指示を受けフレミングはスロットルレバーをミリタリーの位置まで押し上げ、そこから少し左に押し込み、更にスロットルレバーを押し上げアフターバーナーを点火させた。蕾が開くようにジェットエンジンのノズルが広がり、排気口からオレンジの炎が幾本もの筋となって噴出するとF15は轟音とともに加速を始めた。3050メートルの滑走路の一割ほど進んだところでF15のノーズが上を向くと、車輪が地面を離れ、次の瞬間には急角度で上昇を始めた。車輪を格納すると上昇速度はさらに増し、途中右に旋回を始めF15は太平洋上空へと消えていった。
「16分後には何が起こるかわからんぞ」ヘンドリクソンが言うと、
レーダーに目をやりながら「大佐に委ねましょう」とテイラーは応えた。
松島基地を飛び立ったブルーファルコンは、牡鹿半島先端の東に浮かぶ金華山上空を通過した。
「只今金華山上空、速度400ノット、高度30000、さらに上昇中。間もなく訓練空域に入る」
「了解。異常はないか?神崎」
「今のところ異常なしだ。いいフィーリングで飛行できている」
佐々木の問い掛けに神崎が答えた。
「バカはするなよ」
「わかってますよ」と言った神崎だが、今日はブルーファルコンで普段ブルーインパルスでやっている曲技飛行をしようとしていた。ブルーインパルスで使用しているT2と同じアクロバットをした場合にどれだけの違いがあるのか前から試してみたかったのだ。編隊を組んでの飛行ではなく一機で自由にこの澄みきった空でアクロバティックな飛行ができると思うと神崎はワクワクした。
「訓練空域に入った。これよりきょく・・いやテスト飛行に入る」あわてて言い直した神崎に、「了解」と佐々木が返信してきた。
「やばい、やばい。またなんか言われるところだったよ」と思いながらスロットルレバーを引いて速度を落としていった。そして、操縦桿を左に倒し機体をロールさせ1回、2回と連続して回転させていった。
訓練空域でのブルーファルコンの位置情報をレーダースクリーン上で確認していた佐々木は不審な機影がスクリーンに突然現れたのを認めた。
「司令、宮古沖に航空機です。南下しています」
「民間機か?」
「いえ、識別信号からアメリカさんですね。高度5000フィートで速度が・・・」少し間をおいて佐々木は緊迫した口調で言った。
「およそ600ノット。戦闘機と思われます」
「なに?」富樫の顔色が変わった。そして、佐々木に尋ねた。
「飛行計画は出ていたか?」
「いえ、朝の時点では確認されていません」
「至急神崎に連絡。回避させろ。佐々木、目を離すなよ。場合によっては帰還させる」
語気が強くなった富樫に「了解」と返し佐々木は無線で神崎を呼んだ。
「神崎、応答しろ」佐々木の叫ぶような呼びかけに、
「こちらブルーファルコン、ヤバイことはやってませんよ」と、ドキッとして神崎は答えた。
「神崎、米軍機が北から接近中。速度から戦闘機と思われる。高度は5000フィ・・、いや10000フィートでさらに上昇中。あと4分程で訓練空域を通過すると思われる。回避しろ」
「こちらのレーダーでも確認した。でも、回避って、どこに?」
「万が一の事も考えて沖に逃げろ」
「了解。でも、万が一って何?」
その無線のやり取りを聞きながら富樫は三沢基地にダイヤルしていた。
「松島基地司令の富樫だ。大至急原村司令に繋いでくれ、一刻を争う事態が起こっている大至急だ」怒鳴るように富樫が言ってから程なくすると、
「原村だ、どうした?」と三沢基地司令が電話口に出た。
「少し前にアメリカの戦闘機が飛び立たなかったか?」
「ああ、10分ぐらい前にF15が発進したが」
「F15ぉ?」
「ああ、一昨日に嘉手納から来たのだが、何のために来たのかはこちらには知らされていなかったが、今日になって横田へ移動することを先程聞いたばかりだ」
「分かった。ありがとう」富樫は電話をガチャンと切るか切らないうちに、
「佐々木、状況は?」と訊いた。
「神崎は高度を下げ三陸沖に回避中ですが、米軍機は高度を上げながら追うように進路を変えています」
「相手はF15だ。奴らの目標はブルーファルコンだ」富樫は確信した。そして「神崎を帰還させろ。そして、待機機を上げろ、急げ」と叫んだ。
「了解。早川、待機機を頼む、俺は神崎に集中する」佐々木は別の管制官に待機機の発進を頼み、
「神崎、帰還しろ。米軍機はF15だ。F15がお前を追うように進路を変えた」と神崎に伝えた。
「了解」
と神崎は答えながらも「イーグルかぁ、ちょっと絡んでみたい気もするな」と思った。ブルーファルコンは右に旋回をしながらさらに高度を下げ機首が松島基地に向いた時には高度を300メートル程まで下げていた。そして速度を上げようとした時、
「神崎、3時の方向、高度およそ3000フィートだ」佐々木の声がした。即座に右に首を捻れば、右にロールし降下を始めた機影を目視で確認した。
「ヤツの狙いはやっぱりコイツみたいですね。とりあえず回避する」
「神崎、いかん。真っ直ぐ逃げて帰ってこい」佐々木の命令に、
「このままだとヤツとランデブー飛行だ。そんなことはできないでしょ」
神崎は言いながらスロットルレバーをミリタリーの位置まで押し上げ、さらに押し上げアフターバーナーに点火させた。そして、スティックを引いた。
ブルーファルコンは瞬時に機首を上に向け急上昇を始めた。急上昇中も神崎はGに耐えながらF15を視界に収めていた。F15はブルーファルコンが急上昇を始めると左に反転しながら後を追うように上昇を始めた。それを見た神崎はスロットルレバーをミリタリーの位置まで戻し、機体を90度捻りそしてループを始めF15の後ろに回り込もうとした。
神崎にはさらなるGが加わり耐Gスーツが足を圧迫し続ける。視界から色が失われていく中、「ヤツは降下の加速度がついているから大回りになるはずだ。我慢してヤツの背後につけブルーファルコン」と呟いた。そして、ブルーファルコンがF15の後ろに回り込める位置関係になったところで、F15が左にロールし一転急降下を始めた。
「逃がすか」神崎もブルーファルコンを左にロールさせ後を追った。その時、
「神崎、深追いするな、戻ってこい」佐々木の声がした。
「分かりました。タイミングを見て帰還しますから」
神崎はF15とドッグファイトができる喜びを感じていた。不謹慎だとは思っていても自分が興奮しているのが良く分かった。そして、その衝動を抑えることができないのだった。
ヘッドアップディスプレイにF15の機影を収め「逃がさないぜ、イーグル」と神崎が呟いた瞬間、F15が急降下から急上昇に転じた。
素早い反応でスティックを引くとブルーファルコンもそれに続く。強烈なGにより視界が狭まる中F15を目で追っていくと今度は左に反転し急旋回をし始めた。
「フン、後ろに回り込むつもりだな。そうはさせねえぜ」
神崎はスティックとラダーペダルを瞬時に操りブルーファルコンの機首を左に向けF15を追って左旋回の体勢に持ち込む。急激な姿勢変化は当然強烈なGを発生させ神崎に襲いかかる。苦しい状態にもかかわらず神崎は興奮していた。
「コイツはすげぇぜ。イーグルの旋回性能を上回っている」
ブルーファルコンをF15の軌道の内側に着けられることを知った神崎は狂喜した。
その時である。機体が揺れ始めた。と同時に異常を知らせるアラーム音が鳴り響いた。
次の瞬間、バリッという音が右側から聞こえた。神崎は咄嗟に右主翼に目を向けた。翼の一部が剥がれ飛び骨組みが露骨してグラグラと上下に大きく揺れていた。その刹那、翼が付け根付近から捻じれ始めた。
「ヤバイ、翼が吹き飛ぶ」
「どうした、神崎」
「制御不能に陥る。脱出する」
「何が起こったんだ神崎」佐々木の声に混じりバキバキと鈍い音をたてて右の翼が吹き飛んだ。ブルーファルコンは右に回転し始めキリモミ状態へと陥った。
神崎は眼下が海であることを確認し、足をラダーペダルから離し座席に引き寄せ、背筋を伸ばし姿勢を正し両肘を締め顎を引き全身に力を入れ射出ハンドルを引いた。
頭上のキャノピーが吹き飛び、座席ごと機外に射出された。その衝撃はこれまで経験したことが無いGを伴い神崎の体に襲いかり神崎は気を失った。
ブルーファルコンから射出された神崎はグルグルと空中で回転していた。独りでに小さなパラシュートが放出されそれが開くと徐々に回転が収まり、座席が神崎の体から脱去されメインのパラシュートが開いた。
神崎はパラシュートが開いた時の空気抵抗でグイッと引っ張られその衝撃で意識を取り戻した。
さほど間を置かず状況を飲み込んだ神崎は静かに手足を動かし首や背中、そして、腰の状態を自分でチェックしていった。首の辺りに少し痛みを覚えた以外は異常が無いように思われた。
「俺って運が強ぇぜ」と呟き下を見れば、神崎の体から紐で吊り下げられた救命具が数個ぶら下がっているのが見え、そのすぐ下には海面が迫ってきていた。
「もう着水かよ、早すぎるぜ」と言った時にはぶら下がっている物が波頭に触れ水しぶきが飛んだ。神崎は手動でパラシュートを切り離すと海面に救命具がドボドボと落ち、続いて神崎が足からドボンと落ちた。海中数メートルまで沈み込む間に救命胴衣が膨らみ、すぐに浮き上がると思ったがなかなか浮き上がらない。海中で手と足で水を掻いて早く浮きあがろうともがくが思うように手足が動かない。「重てー」耐Gスーツやらヘルメット、ブーツなどが水を吸い込んで重くなり相当の力がひと掻きに必要だ。ようやく海面から頭を出すと神崎は「プハー」と大きく息をした。ハアハアと喘ぐような息をしながら周りを見渡せば波間から自動で空気が入り浮かんでいる黄色い小さな救命ゴムボートが見えた。
その救命ゴムボートに向かって泳ぎ始めたが、思うように泳げずなかなか近づかない。
「ん?こうすりゃいいじゃん。俺ってバカだなぁ」
神崎は自分の体からボートに繋がっている紐を手繰り寄せ引っ張り始めた。ボートが見る見る近づき、漸くボートの縁に手をかけグイッと引き寄せた。ボートの縁を両腕で上から抱え込みハアハアと4、5回ほど荒い呼吸をしてから「うりゃあ」と気合を入れて上半身をボートに乗せ、そして、右手を伸ばし向かい側の縁を掴みグィッと引き寄せ、うつ伏せ状態でボートに全身を乗せた。
神崎は狭いゴムボートの中で体を捩り仰向けになった。ハアハアと喘ぎながら目を開ければ雲ひとつない蒼昊が視界のすべてを占めていた。
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