第6話 離陸
10月15日、松島基地は雲ひとつ無い青空に覆われていた。秋特有の乾燥した空気は空の青を一層際立たせ藍色に映していた。
その藍色の空を見上げながら神崎三佐はブルーファルコンの格納庫へと向かって行った。自然に笑みを浮かべている自分に気付くと美香の声がした。
「なにニタニタしてんのよ」
「だって見ろよ、すっげー青空だぜ。こんな青空の中飛べると思ったら笑っちゃうってもんだぜ」
「そうよね。今度こんな天気の日に私を乗っけて飛んでよ」美香もまた空を見上げた。
「ああ、今日でもいいぜ」
「いや・・今日はよしとくわ。翔太と心中したくないから」
「ちょ、ちょっと、そりゃどういう意味だよ、おい」
「なんでもないわ」
「なんでもないって、おい、まさかブルーファルコンがなんかヤバいのか」
「ヤバくなんかないわよ。だれが整備してると思ってんの」
二人が言い合いながら格納庫に近づいてくると、そのやり取りを聴きながらブルーファルコンを点検していた新田班長が、
「おい、松本、またやってるぜ夫婦喧嘩の予行演習」と小声で言うと、
「班長、早いとこあの二人をくっ付けてやった方がいいですよ」と返す松本に同調して、
「僕もそう思います」とCCVのチェックをしていた伊藤が言った。
「ちょっと、そこ、なに言ってんの? 聞こえてるわよ」美香の矛先が新田班長たちに向いた。
「美香、おまえは本当に耳がいいなぁ」
「そうよ、私は遠くからでもジェットエンジンの音を聞き分けられるのよ」
「そうかそうか」新田班長がなだめるように言うと、神崎が割り込んできた。
「班長、ブルーファルコン、なんかヤバいんですか」
「ヤバくねえ。だれが整備してると思ってるんだ」
「それは美香にも聞きました」
「ならそれでいいじゃねぇか」
「はい」無理やり納得させられた感じの返事を神崎がすると、
「朝から賑やかですね」と木佐貫が声をかけてきた。
「おはようございます木佐貫さん」神崎が挨拶し、つづけて、
「最近太られたんじゃないですか」と言った。
突然突拍子も無い事を聞かれた木佐貫だが、
「そうですか?こちらの食べ物が美味しいからですかね」といつもの表情で答えると、
「ほんとうですか?他にも理由があるんじゃないですか?」と探りを入れるように神崎が尋ねた。
「え?」と、戸惑いの表情を一瞬浮かべた木佐貫を見て美香が割り込んできた。
「木佐貫さん、こいつのことは放っといて点検項目に目を通してください」と点検項目のファイルを木佐貫に手渡した。
「ああ、はい、ではプレハブで目を通してきます。リベットは大丈夫ですか美香さん」
「はい、一回り大きいサイズの物に変えてあります。テスト飛行のレベルでは問題はないはずです。こいつが無茶をしない限りは」と神崎に横目で睨むように視線を向けた。
「こいつって、俺のことか?」
「他に誰がいるっていうのよ」
「そうですね、今日のテストメニューは機体にそれほど無理のかかるものではありませんので大丈夫でしょう」
険悪になりそうな二人をよそにいつものように淡々と木佐貫が答えると、
「翔太、美香、飛行前点検の準備をしておけ、俺たちの点検はもうすぐ終わる」と新田班長が見詰め合っている、いや、睨み合っている二人に声をかけた。
「はい」と二人同時に返事をしたのを聞き、
「さすが、息の合った返事ですね」と伊藤が感心したようにボソッと言った。
「仁坊、そりゃどういう意味だぁ」
「伊藤君、なんか最近言うようになったよね」
神崎と美香が二人して伊藤に詰め寄っていくと、
「こら、おまえたちいい加減にしろ」新田班長に一喝された。
二人はまた「はい」と返事をし、なにやらボソボソと小声で言い合いながら飛行前点検の準備へと向かった。
その様子を穏やかな表情で見ていた木佐貫が、
「仲がいいのですね」と新田班長の脇で呟いた。
これまでに見たこともない柔和な木佐貫の表情を見ながら、
「ええ、幼なじみのように喧嘩してもすぐに仲直りするんですよ、二人とも」と新田班長はほほ笑むように言った。
神崎がヘルメットを小脇に抱え装備一式を身に纏い駐機場に姿を現すとブルーファルコンはトーイングトラクターで格納庫から引っ張り出され待機していた。
神崎は秋の乾いた太陽の光を鈍く反射している灰色の機体に近づくと、まず右翼の付け根付近の付け変えられたリベットを確認し右手で軽くポンポンとその部分をたたくと振り向いた。
そこには美香が立っていて浅く頷いた。神崎はそこから時計回りに機体を回り外部チェックを始めた。美香も神崎の後について回りその様子を見ながら彼女もチェックしていった。外部チェックを終えるとコクピット左側に掛けてあるハシゴから神崎はコクピットに乗り込んだ。
コクピットに着座するとヘルメットを被りシートベルトを締め、身に纏った装備のコネクター類を接続しエンジン始動の準備に取り掛かった。美香は松本と共にハシゴを外し機体の正面へと回った。松本は機体の左側に、そして新田班長は右側にそれぞれ配置した。
神崎はジェット・フュエル・スターター(JFS)を始動させた。これはジェットエンジンを始動させるための小型ジェットエンジンである。この小型ジェットエンジンを利用してメインのジェットエンジンを動かすのである。ブルーファルコンは双発タイプでジェットエンジンを横に二基配列しているが、その間にこの小型ジェットエンジンを搭載している。そして、一基ずつ始動するのである。
ジェット・フュエル・スターターが正常に回転し始めたことを示すランプが点灯すると神崎はキャノピー(風防)が開いたままのコクピットから右手を出し右側のジェットエンジンから始動するサインを美香に送った。美香は左手を水平に出しそれに答えた。確認した神崎はジェット・フュエル・スターターを右側のジェットエンジンに接続するスイッチを操作すると「シュイーン」という音とともに右側のジェットエンジンが回りだした。計器を見ながらアイドル(自立回転)できる状態になったことを確認すると右エンジンのスロットル・レバーをアイドルの位置にしてジェット・フュエル・スターターと右側のジェットエンジンの接続をオフにした。
神崎は次に左側のジェットエンジンを始動するサインを美香に出し、同様の手順で始動させた。
ジェットエンジンが正常に回転していることを神崎が計器等で確認し終えると、翼の各操作舵面が正常に作動するかの確認をジェットエンジンの始動時と同様に美香とハンドシグナルを交わしながら一つずつチェックしていった。各部の作動状況は機体の左右にいる新田班長と松本がより近くで確認した。すべてのチェックが終わると新田班長と松本は車輪止めを外した。
神崎はキャノピーを閉めると左側に首を捻った。その視線の先には新田班長、美香、そして松本が整列して敬礼をしていた。三人は口を真一文字にして緊迫した眼差しを神崎に向けていた。神崎はそれに答えるように敬礼をして一人ずつに視線を移していった。整備班の三人は無事に帰還することを祈り、パイロットは整備班に信頼を寄せ飛び立つ。
神崎は左手でスロットル・レバーを前に押し出しジェットエンジンの回転を上げた。するとブルーファルコンはゆっくり滑り出すように動き出し駐機場から離陸用滑走路へと向かっていった。
「こちらブルーファルコン。今日の気象状況は?」
「見ての通りだ」佐々木の声がした。
「それだけ?」
「おまえが無茶をしない限り何の問題もない気象状況だ」
「まったくどいつもこいつも」神崎が小声で呟くと、
「なんか言ったか?」即座に佐々木が切り返した。
「いえ、なんでもありません」
そんなやり取りをしている間にブルーファルコンは東西に延びる離陸用滑走路の東端に着いた。
「いつでも離陸OKだ。神崎、昼までには帰ってこいよ。俺は腹が減ってきた」
「まったくなんつークリアランスだ」神崎はスロットル・レバーに掛けた左手の腕時計に目をやると時計の針は10時30分を指していた。その手でスロットル・レバーをミリタリー・パワーの位置まで一気に押し上げた。
ジェットエンジンの音が甲高い響きへと変わり、ブルーファルコンは静かに進み始めたかと思った次の瞬間には神崎の背中を座席シートへと強烈に押し付け凄まじい加速を始めた。神崎は車輪から地面の振動を感じながらヘッドアップディスプレイの速度表示を見ていた。速度が110ノット(203km/h)を示したところで神崎は操縦桿をほんの僅か引いた。車輪から伝わる振動が消え浮遊感を覚えた直後、神崎はギアアップの操作をし車輪を格納した。滑走路スレスレを水平飛行しスピードを乗せ速度表示が160ノットを示すと同時に操縦桿を今度はクッと引いた。ブルーファルコンは機首を上げ急角度で上昇を開始した。間、髪を容れず操縦桿を引きながら機体を左に傾けロールさせ上昇しながら左旋回を始め、澄み渡る青い石巻湾上空へとブルーファルコンを導いた。
「相変わらず見事な離陸だな」小さくなっていく機影を目で追いながら新田が言うと、
「大丈夫かしら、また、無理しなきゃいいけど、あのバカ」と美香も新田と同じ方角を見ながら呟いた。
「大丈夫だって。それより、帰ってきてからも忙しくなるから、その準備をしないと」松本の言葉に「そうね」と言い美香たちは格納庫に向かっていった。
ブルーファルコンの離陸の様子を千賀子は食堂の隅にある公衆電話の脇に立ち、そこの窓から見ていた。機影が東南の彼方に見えなくなると彼女は振り返り厨房へと戻っていった。
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