第5話 決意
10月14日、千賀子は木佐貫の部屋で夕飯の支度をしながら時計を見た。時計の針は夜の9時を回っていた。
「今日は遅いわね」と思っていたところにドアノブにカギを指す音がガチャガチャと聞こえドアが開いた。
「おかえりなさい。遅かったのね」
「ええ」靴を脱ぎながら木佐貫は答えた。
「明日のテスト飛行の最終確認を念入りにしていたものですから」
「そう、大変ね。ごはん、もう少しで出来るけど、どうする?」
「ごはんの前に風呂に入ります」
「そう思ってお風呂沸かしておいたわ」
「ありがとう」
そう言いながら木佐貫は台所を抜け居間に行きカバンを置くと隣の寝室に入りスーツを脱いだ。夕食後に眠気が差しそのまま朝までぐっすり寝込んでしまう事が度々あるため夕食前に風呂に入るようにした木佐貫だが、それが千賀子による薬のためだとは微塵も疑ってはいなかった。
台所から「下着とバスタオル用意してあるからね」と千賀子の声がした。
既に布団が敷いてありその横に下着とバスタオル、それと風呂上りに着るジャージがたたんであった。それを手に取りながら「ありがとう」と返し下着姿のまま台所の隣にある風呂場に向かった。
風呂場のドアの横には二段になったカゴがあり、上のカゴにバスタオル類を置き、脱いだ下着を下のカゴに入れた。千賀子は流しに向いて料理をしている。木佐貫は風呂場のドアを開け中に入り、体にお湯をかけてから湯船に身を沈めた。
脱衣カゴは千賀子が揃えてくれた。他にも、台所用のスリッパ、食器はもちろんだがこぢんまりした食器棚や食器洗いカゴなどや様々な調味料類など。以前は殺風景で生活の匂いがしない寒々としていた部屋が生活感のある暖かい家庭の匂いがしている。
「ここにずっと居るわけではないのでそんなに揃えなくていいですよ」と木佐貫が言うと、
「いいじゃない、帰る時持って行けばいいんだから。ついでに私もくっついて行っちゃおうかな」と笑いながら千賀子が言ったのを湯船に浸かりながら思い出していた。
木佐貫は幸せを感じていた。千賀子と夕飯を食べながら他愛もない会話をすることがこんなにも幸せだと感じるものなのか。この幸せは自分が松島基地を離れる時が来た時にはどうなるのだろう。また独りになり寂しい生活に戻るのか。以前は寂しいとは思わなかった生活が今は寂しいと思う。耐えられるのだろうか今の自分にその生活が。千賀子がずっと傍にいてくれたら。木佐貫は湯船で目を閉じた。
風呂から出ると千賀子の姿は台所には無かった。ジャージを着て居間に行くと小さい座卓に夕食の用意がしてあり、千賀子は座卓の前に座っていた。
肉じゃがとほうれん草の胡麻和え、それにアサリの味噌汁とごはん。その横には缶ビールがあった。
「ごめん、今日はこれだけなの。メインがないけど肉じゃが一杯食べて」
「いえ、十分です」と言って木佐貫は座卓の前に座ると缶ビールのプルタブを開けゴクゴクと飲んだ。
「ねえ、覚えてる?私が初めて作った料理」
「はい、肉じゃがとほうれん草の胡麻和えでしたね」
「ふふ、覚えてたんだ」
「美味しかったですからね。いただきます」そう言うと木佐貫はさっそく肉じゃがに箸をつけた。口に運ぶと笑みを浮かべうなずくように噛みしめた。
「どう?」と訊く千賀子に、
「やっぱり美味しいです」と答えた。
「これが私の味だからね。覚えててね、ずっとだよ」
「はい」
ほうれん草の胡麻和えを食べてまた柔和な表情を浮かべた木佐貫。一人暮らしの頃には見せたことが無い表情だった。
千賀子はアサリの味噌汁を啜りながら木佐貫の表情を見ていた。そして慈しむような眼差しで木佐貫を見詰める自分に気がついた。今までこんな感情を持つことは無かった事だったし、持ってはならない事だった。何がそうさせたのか千賀子自身にも分からなかった。でも、私は忘れる事が出来るわ。きっと。だから今夜だけこの気持ちのままで過ごしたい。
「ねえ」味噌汁のお椀を置きながら千賀子は尋ねた。「明日の朝は早いの?」
「いえ、いつも通りですよ」
「今夜泊まってもいい?」
「いいですよ」最近ではしょっちゅう泊まっている千賀子が改まって訊くことでもないことだろうにときょとんとした返事をすると、
「へへ、いいよね、いつものことだもんね」と照れ笑いのような笑みを浮かべた。
「ええ、どうしたんですか今日は」
「こういう日もあるの。女なんだから。木佐貫さんはもうちょっと女について勉強するべきね」
「確かに女性に関しては無知ですから私、いろいろ教えてください」
「わかったわ、少しずつ教えてあげるわ女という生きものを」千賀子は持っている箸で木佐貫を指差すようにして、覚悟しておけみたいな表情でそう言うと、「あはは」と笑った。木佐貫もつられて「ははは」と声を出して笑った。
その夜、千賀子は木佐貫の布団にもぐり込むといつもより長いキスをした。そして強く抱きしめた。
今夜があなたと過ごす最後の夜。基地内で会う事はあってももうここには来ない。私はあなたのことを忘れるかもしれない。あなたはどうなの?忘れてしまうよね、きっと。
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