第3話 繋ぎ

 猪俣が乗っている車は三菱のランサーEX1800GSRインタークーラー・ターボである。最高出力は160馬力を絞り出し、ターボが効き始めるエンジン回転数3000以上ではもう一つのエンジンが回り始めたかのような加速をする。元ラリー・ドライバーであっただけにパワーがあり、しかもラリーで活躍している車種を仕事用の車に選んだのは如何にも猪俣らしい。

 猪俣は国道45号線を走り続け仙台の市街地に入ってきた。原町、小田原を通過し花京院まで来ると賑やかなビル群が立ち並ぶ。ここで国道45号線から反れて左に曲がるとすぐに仙台駅が見えてくる。駅の手前でまた左に折れた猪俣のランサーは東北本線を越える小さな橋を渡り駅の東側の地区に入った。通称X橋と呼ばれるこの橋を越えると道が二手に分かれる。右側は進入禁止の標識があり、左には一方通行の標識がある。その左側の道に入っていくと緩やかに右にカーブし細く真っ直ぐな道が現れる。古い昔ながらの家並みが道の両側に沿って続き、まだ夜の11時を過ぎたばかりだというのに暗くひっそりとしていた。駅の西側にはデパートやオフィスビルが立ち並び夜でも明るく賑やかだが、東側は古くからの住宅地がまだ多く残されており街灯の数も少なく暗く静かであった。

 猪俣は道が直線になるとすぐ車を左に寄せ止めた。ハザードランプを点けライトを消しイグニッションをオフにしてキーを抜き取った。エンジンはまだアイドリングをつづけたままだが車から降りるとドアをロックした。そして注意深く辺りを見回した。前方にはまばらに立ち並ぶ街灯がぼんやりと照らす薄暗い道が真っ直ぐ伸び、後ろを振り返ると駅付近のネオンの明かりが夜空を染め上げていた。人の姿はなく時折車が通り過ぎていくだけだった。周りに誰もいないことを確認すると猪俣は道の左側にある二階建ての古ぼけたアパートに向かった。一階の一番奥の部屋の前まで行くともう一度周囲を確認した。そして、チャイムは鳴らさず静かにドアを二度ノックした。少ししてまた二度ノックをするとドアが開いた。猪俣は中に入りドアを閉めた。中には男が一人立っていた。猪俣はこの男を後藤と呼んでいたがそれが本当の名前なのかは知らなかった。年の頃は35歳ぐらいでほっそりした体つきをして目つきが鋭く不気味さを漂わせていた。猪俣は玄関口に立ったまま千賀子から渡された小型カメラとメモを左ポケットから取り出し後藤に渡した。

「ご苦労、今日はこれだけか?」と言って後藤はメモを見た。

「はい」

 そう言うと猪俣は「それでは」と部屋を出ようとした。

「ちょっと待て。その左手はどうした?」

 後藤は猪俣から小型カメラとメモを受け取る時に左手の傷に気がついた。その傷は左手小指から手の平あたりまで擦り傷になっていて赤く滲んでいた。千賀子に投げ飛ばされた際に左手で受身を取った時にできた擦り傷だった。

「転んだ時にできた傷です」

「転んだ?・・」

 後藤は疑いの眼差しで猪俣を見ると、

「ふん、まあいい、面倒は起こすなよ。それから・・」と続けて、

「今度のテスト飛行の時に軍が動く。このメモによると15日、再来週の月曜だ。そうすると我々の存在が疑われることになるだろう。いつでも消える準備はしておけ」と言った。

「千賀子には?」猪俣が尋ねると、

「あいつは、そこいらの諜報員とは違い別格だ。自分で判断して動く。そんなことは気にしなくていい」と後藤が返した。

「わかった」そう言うと猪俣は部屋を出た。そして、周囲を見渡しながら車に向かった。車まで来るとすでにエンジンは止まっていた。ドアを開ける前に車の外周をチェックし、しゃがんで下回りも覗き込みそれから車に乗り込みエンジンを掛けた。薄暗く真っ直ぐ伸びる細い道を2、3百メートルほど走るとそこは鉄砲町である。鉄砲町に入って程なくして猪俣は右側の月極め駐車場に入り一番奥の駐車スペースに車を止めた。隣に二階建てのアパートがあり、その一階の一番奥に猪俣は部屋を借りていた。ここでも周囲に気を配りながら部屋の前まで来ると注意深く慎重にドアを開け中に入った。

 中に入ると小さな流しがある台所があり、その奥に六畳一間の居間があった。明かりも点けずに居間まで行くとそこには布団が敷いたままになっていて、猪俣はそこに倒れこむように寝転んだ。暗い天井を見上げながら自分が何も知らないことに少し苛立ちを覚えていた。

 猪俣は上司から後藤と千賀子の繋ぎ役を指示され後藤が今借りているアパートの住所を教えられた。その後は後藤の指示に従えという命令だけである。もちろん日本が今開発している戦闘機について情報収集する旨は知っていたが、後藤や千賀子については何も知らされていなかった。また、自分たちが収集した情報によってアメリカがどう動くのか、日本では自分たちの存在を知っているのかなど猪俣には何も伝わってこなかった。

 猪俣は諜報員になりたての自分がまだ信頼されるキャリアを積み重ねていないため詳しい情報が知らされないことは自分なりに納得はしていた。情報を得るにも組織内にこれといった人脈も無い。これまでは言われた任務をただこなしていればいいと思っていたが、諜報活動をする上で自分なりに情報収集しないと自分の保身ができないかもしれないと思い始めてきた。

 後藤が「消える準備をしておけ」と言ったことは自分の判断で逃げなければならに状況になるかもしれないということだ。「まずは逃走ルートを決めておかなくてはなるまい」と猪俣は思った。

 それにしても千賀子はこれまでにどれだけ重要な任務をこなしてきたのか?後藤が言った「別格」という言葉が猪俣の耳の奥にまだ残っていた。

 千賀子にとって俺のことは聞いたことも無い信用の置けない新米諜報員としか思っていないのだろう。そう思わせるのがこれまでの千賀子の猪俣に対する接し方だ。千賀子はこれまでただの一度も口を利かなかった。唯一千賀子が猪俣に発した言葉が今晩であったのだ。猪俣を投げ飛ばした後に言った「私の体は仕事以外では使わないことにしているの。今度こんな真似したら仕事が出来ない体にしてやる」だけだった。

「あの女」と呟くと「今に俺のことを認めさせてやる」と猪俣は口に出さず噛みしめた歯の奥にその言葉を飲み込んだ。


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