第2話 千賀子
木佐貫がその日家路に着いたのは午後8時を過ぎてからだった。今日のテスト飛行の報告書をワープロで作成し名古屋の三川重工小牧南工場宛にファクシミリ送信してから松島基地を出た。三川重工小牧南工場はブルーファルコンが誕生した工場で、その製作チームがある所だ。ここでテスト飛行のデータを解析し、またトラブル等の対処策を検討していた。木佐貫はとりあえず右主翼付け根のビスの破損状況と明日超音波探傷検査をする旨だけをファクシミリ送信し、フライトレコーダのデータは超音波探傷検査の結果と合わせて報告することにした。
木佐貫は松島基地から車で5分もかからない所にアパートを借り滞在していた。松島基地と言っても所在地は矢本町である。矢本町は松島町の東隣で、石巻市と松島町にはさまれた位置にある。町の中心を国道45号線が走りその道路沿いに町並みが集中している小さな町である。その町の南側、やや西よりに松島基地がある。基地の向こうは海、石巻湾だ。
正門を出てすぐ田畑が広がる道を町の中心部がある北方に向かって車を走らせるとほどなく矢本町の住宅地に入っていく。右側にカーブした道を進むと矢本駅から南に延びる道に出る。そこを右に折れ一本目の路地を左に曲がると静かな住宅地がある。そこの一角にあるアパートに居を借りていた。
アパートの前にある駐車場に車を止め自分の部屋がある二階に目をやると灯りが付いていた。
「来ているのか」と木佐貫は思い、「こういうのもいいもんだな」と感じた。脇の階段から二階に上り部屋の前まで来ると自分で鍵を開けドアを引いた。
「あら、おかえりなさい。おじゃましてます」と言って微笑む女性が木佐貫を迎えた。肩位まである髪を後ろで束ね、エプロンをして台所で夕飯の支度をしていた。
「今日はちょっと遅かったんじゃない?」と彼女が尋ねると、
「ああ、トラブルがあってね、その報告書を書いていたんだ」靴を脱ぎながら木佐貫は答えた。
「大変ね、帰ってきてから焼こうと思っていたの、サ・ン・マ」
「え、魚?もう何年も食べてないなぁ」木佐貫は魚が苦手であった。生臭さも嫌だが、小骨をとるのも面倒だし、小骨が口の中に入るともう気になって仕方が無いのである。
「嫌いなの?でも食べなきゃだめよ。肉ばかりじゃ栄養が偏るわ。それにこのサンマは今日石巻に水揚げされたばかりのモノだって言うから美味しいわよ絶対」
「ああ、そうなの」木佐貫は苦笑いを浮かべ居間に向かった。
「着替えて待ってて焼いたらできあがりだから」
彼女の言葉を後ろに聞きながら木佐貫は居間の右にある寝室に入りスーツから部屋着のジャージに着替え始めた。すると焼き魚の匂いがしてきた。
「これはたまらんなぁ」と思いつつ着替えを済ませ居間の座卓の前にあぐらをかいて座った。
「もうちょっとだから待っててね」彼女はサンマの焼け具合を見ながら言った。
彼女の名前は目黒千賀子。一ヶ月ほど前に知り合ったばかりの女性だ。9月に入ってすぐの頃、木佐貫は仕事帰りにスーパーに立ち寄り晩ご飯の食材を買っていた。食材といっても料理の出来ない木佐貫が買うのは弁当か惣菜である。家に炊飯器があるのでご飯ぐらいは炊く事もあるが、ほとんど出来たものを買って晩飯を済ませていた。その時声をかけてきたのが千賀子だった。
「あら、基地の方ですよね」と言われる方を振り向いた木佐貫だったが見覚えのない顔に怪訝そうにしていたら、
「あ、ごめんなさい。私、基地の食堂で働いているんです。そこでお見かけしたものですから」
「そうでしたか、存じ上げなくて失礼しました。私、こちらに来て一月ほどしか経ってないのでまだ皆さんの顔を覚えきれないものですから」
「私はもっと短いです。一週間前に臨時採用で働き始めたんですよ。でも、あなたのことはすぐに覚えたわ。だって、みんな制服姿なのにあなたともう一人の方だけネクタイ姿なんですもの、偉い人なのかなぁって」そう言って千賀子はニコッと微笑んだ。
「いえいえ、偉くはないです。私は自衛隊の人間じゃなくて、民間会社の人間なのでネクタイをしているんです」
「そうなんですか、じゃあ、単身赴任でこちらに来ているんですか?」
千賀子が買い物カゴを見ながら尋ねた。買い物カゴの中には弁当とカップ麺、それに缶ビールが入っていた。
「ええ、単身赴任といっても、もともと独りもんなのでどこに居ても晩飯はこんなものです」
「あらまあ、とても独身には見えないわ。すてきな奥様がいらっしゃると思っていましたわ」
少し意外そうな表情で千賀子は言った。そして、はっと気づき、
「あ、ごめんなさい失礼なこと言っちゃったかしら私」と謝った。
「いえいえ、そんなことはないですよ。では失礼します」と木佐貫は軽くお辞儀をして彼女に背を向け立ち去ろうとしたら、
「また、食堂で」と千賀子の声がしたので振り向くと彼女がまたニコッと微笑んで肩口で小さく手を振っていた。
翌日の昼休憩の時、木佐貫は食堂に行き昼食のおかずを選んでいた。ここの食堂は一般的に言うバイキング方式と一緒でおかずが入った大きな容器が並んでいて、皿や小鉢に自分で取り分けていく。木佐貫はチキンカツを三切れとマカロニサラダを皿に取り分けお漬物を小鉢に移し、味噌汁とごはんを分けようと味噌汁とごはんのコーナーにさしかかったところ、
「こんにちは、きのうはどうも」と声をかけられた。給食係の白衣を着て千賀子が立っていた。
「きさぬき、さん?」木佐貫の左胸のところの名札を見ながら千賀子は尋ねた。
「あ、どうも」木佐貫は少し頭をさげながら、
「はい、木佐貫です。目黒さんと言うんですか」木佐貫もまた千賀子の名札を見て言った。
「ええ、味噌汁ですか?」
「はい」
「ちょっと待ってね、いま寸胴ごと取り替えますから」そう言いながら、台車に載せてある味噌汁の入った寸胴を軽々と持ち上げ取り替えた。その様子を見て木佐貫は、
「力持ちなんですね」と感心した。
「ええ、こう見えても体力にはちょっと自信があるんですよ」
千賀子は、175cmの木佐貫より背が低く165cmぐらいで見た目は細身である。顔が小さくスリムな体にしては胸やお尻が少し大きめで形が良く足も長いのでスタイルがよく見えた。
「給食係の採用試験なのになんで体力テストをするのかしらと思ったけど、働いてみて分かったわ。なんでも量が多いからすべてが力仕事っていう感じなの。始めのうちはちょっと筋肉痛になったけどもう慣れたわ」
「大変ですね」そう言いながら木佐貫は味噌汁とごはんをお椀に分けた。そして、
「頑張ってください、それでは」と声をかけると、彼女は「はい」と元気よく返事をし「それじゃまた」と笑顔を浮かべぺこりと頭を下げた。
自衛隊では食事も隊員が作る。野外での戦闘や、訓練時に自ら食事を用意しなければならないため隊員で賄うのである。また、災害時においても自衛隊が被災地に赴き炊き出しを行うためでもあるのだ。
松島基地では給食係りの隊員に欠員がでたため臨時に募集を掛け補充することにした。基地側では体力的な観点から男性の採用を予定していたのだが、応募者の中で調理師免許と栄養士の資格を持っていた者が千賀子だけで体力的にも合格点を取ったため異例の女性採用となったのだった。
その次の日、木佐貫は食堂で千賀子の姿を見ることが無かった。「今日は休みかな」と思いちょっとがっかりしている自分に気づいた。こんな気持ちになるのは久しぶりの感覚だった。今の会社に入ってからは仕事以外のことには関心も示さず仕事一筋でやってきた。気がつけば36歳になるまで彼女と呼べる人は学生時代以降には誰一人いなかった。学生時代の友人や会社の同僚たちが次々と結婚していくと自分もそろそろと思うこともあったが、今はその時ではないと自分に言い聞かせ仕事に打ち込んできた。それほどに木佐貫には重要な仕事が回ってきた。今回のブルーファルコンの設計の仕事はその最たるものだ。
ちょうど8年前の1976年10月に政府が「防衛計画の大網」を閣議了承したことを受け、三川重工ではブルーファルコンの開発がスタートした。その設計者の一人に加わったのが当時28歳の木佐貫だった。30歳になると主任設計士に格上げされその一切を任されるようになったのだった。それ以後今日までブルーファルコン以外のことなど考える余地は全く無かったのだ。
薄闇の中、夕焼けなごりのオレンジ色が西の空に僅かに残る頃、木佐貫は家路に着いた。時計の針は7時に近づこうとしていた。木佐貫はいつものように晩飯を買おうといつものスーパーに立ち寄った。惣菜コーナーで弁当を選んでいると背後から、
「今日も弁当ですか?」と声をかけられた。振り向くと千賀子が微笑んで立っていた。
「ええ、どうも」すこし驚いた表情を浮かべ「今日はお休みだったんですか?」と木佐貫は尋ねた。
「いえ、今日は木佐貫さんが来られる時間には奥の厨房で揚げ物に追われていたの。そんな事より、飽きませんか弁当?」
「飽きませんかと言われても私は料理が出来ないので仕方ありません」
「じゃあ、今日は私が作ってあげます」
「え、作るって、どこで?」
「木佐貫さんの家に決まってるじゃないですか」
「いやいや、それは困ります」
「どうして?」
「どうしてって、散らかっているし、会ってまだ間もないのに、それに、私、男ですし・・・」
木佐貫がしどろもどろしていると、
「散らかっているのは前の彼氏で慣れているから平気よ。そんなことより、調味料とかある?」と訊いてきた。
「調味料って、醤油と砂糖ぐらいは、ああ、ソースもあった」
「わかったわ、聞いた私が間違ってたわ」そう言うと千賀子は木佐貫の手を引いて買い物を始めた。
「あの、どうして手を繋ぐのですか?」と木佐貫が訊くと、千賀子は「ふふっ」と笑って、
「だって、逃げられそうなんだもん」と答え、「お酒、日本酒ある?」と訊いた。
「ありますけど、日本酒党なんですか」
「飲むんじゃありません。料理に使うんですよ」と言いながら千賀子は木佐貫の持っている買い物カゴにじゃが芋や玉葱、それに味醂などを入れていった。
「今日は楽しい夕食になりそうだわ。一人じゃ味気なくて」と独り言のように千賀子が言うと、
「独り暮らしなんですか?」と木佐貫が尋ねた。
「ええ、さっき、前の彼氏って言いましたよね。別れて東京に居るのも嫌になって戻って来たの、この町に」
「東京にいらしたんですか」
「ええ、高校を卒業して東京の調理師学校に入ったの。それからずっと東京。考えてみれば10年も居たわ」買い物をしながら千賀子は続けた。
「実家に帰って両親と一緒にいたけど、早く結婚しろだのいろいろうるさいから、自衛隊で働くことになったのを機にアパートを借りて独り暮らしを始めたの。重いですか?」
木佐貫の持っている買い物カゴは野菜や肉、調味料で一杯になっていた。
「ええ、ちょっと」
「あと胡麻を買ったら終わりだから」そう言って千賀子は胡麻の袋を買い物カゴに入れ
「さあ行きましょう」と楽しそうに木佐貫の手を引いてレジに向かった。
会計を済ませ外に出ると夜の暗闇が町を覆っていた。木佐貫が買い物袋を車に積み込んでいると、
「木佐貫さんの家、どこなんですか?」と千賀子は尋ねた。
「この道路の一本裏のアパートなんですが・・」
「じゃあ私自転車で追いかけますから先行っててください」そう言って自転車置き場に小走りで駆けていった。木佐貫は、なかなか強引な子だなと思いながらも嫌な気はしなかった。そして、車に乗り込みアパートに向かった。
アパート前の駐車場に着き買い物袋とカバンを持って車から降りたところに、
「お待たせー」と息を弾ませ千賀子がやって来た。自転車を木佐貫の車の脇に停め、両手に荷物を持った木佐貫を見て、「ひとつ持ちます」と言ったが、
「大丈夫です」と断り木佐貫は階段を上って行った。
「二階なんだぁ」後ろから千賀子が続いた。部屋のドアの前に来たところで、
「あ、鍵が」両手に荷物を持っていた木佐貫が言うと、
「スーツのポケット?どっち?」
「右」
千賀子が木佐貫の背中にくっつき右手をスーツの右ポケットに入れ鍵をまさぐった。ふわっといい香りが木佐貫に纏わりついてきた。千賀子に知られないように思わず深めに鼻から息を吸い込んだ。香水でもつけているのだろうか?女性との付き合いがほとんど無かった木佐貫にとって、香水とかオーデコロンなどの化粧品にはまったく無知で、この良い香りが何の香りか知る由も無かった。そして、このような行為やスーパーで手を繋いで買い物をするようなことはこれまでしたことがなく、今まで覚えたことの無い感情が湧いてくるのが木佐貫には感じ取れた。
「あ、あったわ」そう言って千賀子は鍵を取り出し、ドアの鍵を開けた。そして、ドアを引いて躊躇することなく中に入っていった。
「おじゃましまーす。スイッチはどこかしら」
「右の柱のところ」
「ああ、これね」
電気のスイッチを入れると台所の灯りが点いた。千賀子は上がり込むと周りを見渡した。台所の奥に居間があり、開け放たれた扉から居間の様子も見えた。
「散らかってないじゃない。随分片付いてるわ・・・。と言うより、物が無いだけね」
台所には流しの脇に小さな冷蔵庫とその上に炊飯器があり、鍋やフライパンなどは見当たらない。ガステーブルも有ったが使った形跡がないほどに綺麗だ。居間の中央には小さな座卓が有り、壁際にカラーボックスが幾つか見えた。そのうちの一つが横にしてありその上に小型のテレビが載っていた。カラーボックスには木佐貫が仕事で使うファイルや本がぎっしり詰め込まれていた。居間の右側に襖が見えたのでもう一つ部屋があるようだった。
「あの、お鍋ってあるのかしら、それとお米・・・」
木佐貫は買い物袋を流しの近くに置きながら、
「流しの下にあります。茶碗や包丁なんかもその辺にありますので」と答えた。
千賀子は流しの下の扉や引き出しを開け鍋やお玉を取り出していった。
「オッケー、後は適当にやるわ。なんか燃えてきたわ」
「燃えるって・・・、私ちょっと着替えてきますんで」そう言って木佐貫は居間を抜け隣の部屋に入って行った。部屋着のジャージを着て出てくると千賀子は米を研ぎ終わり炊飯器にセットしているところだった。
「あら、随分ラフな格好になっちゃって」
「ええ、これが一番楽なので。何か手伝うことありますか?」
「ふふっ、いいですよ。向こうでお酒を飲んでテレビでも観ててください」
「じゃあそうします」
木佐貫は冷蔵庫から缶ビールを取り出し居間の座卓の前に座った。そして、カバンの中から資料らしきものを出し見始めた。
「帰ってきてまで仕事ですかぁ?」料理をしながら千賀子が声をかけてきた。
「ええ、こちらに居る時間が限られるものですから」
「いつ頃までこちらに居るんですか?ちなみに私は3月までの契約なんですけどね」
「4月か5月頃までかな。それ以上になる可能性もありますけど」
「結構いらっしゃるんですね」
「目黒さんは・・」
「千賀子でいいわ」木佐貫の言葉をさえぎって千賀子が言うと、
「じゃあ・・、千賀子さんは」
「木佐貫さん、ち・か・こって呼び捨てにして。その方がうれしいの。ネ」今度は、料理の手を止め木佐貫を見ながら微笑んで言った。木佐貫は名前を呼び捨てにする間柄の女性はこれまでいなかった。名前を呼び捨てで呼ぶことに憧れめいたものがないと言えば嘘になるが、照れがあり違和感があったのだ。
「はぁ・・、千賀子は・・住んでいるのはこの近くなのですか?」ぎこちなく木佐貫が尋ねた。
「うん。自転車で4、5分よ。でも、どうして?」
「帰り、車で送っていこうかと思って、夜だし」
「平気よ。この辺は都会と違って物騒じゃないから。私の生まれた町だから分かるわ」
千賀子はまた料理を始めながら言った。木佐貫はその言葉を聞いて缶ビールのプルタブを引いた。「プシュ」と音がしたのを聞き、
「やさしいのね」千賀子は木佐貫に聞こえないような小声で独り言のように呟いた。その表情は寂しそうでもあり、悲しそうでもあった。木佐貫はそんな千賀子の表情を見ることもなくビールを一口ごくりと飲んでまた資料を見始めた。
しばらくすると空腹感を煽るような美味しそうな匂いが居間に漂ってきた。
「もうちょっとだから、テーブルの上片付けておいてね」
「はい」木佐貫は資料をバックに仕舞った。間もなく千賀子が丼に入ったご飯と味噌汁を持ってきた。
「これ、木佐貫さんの分ね。食器が揃ってないから適当に使わせてもらったから」
次に千賀子の分のご飯と味噌汁、そして、最後に大き目の皿に盛った肉じゃがとすこし小さめの皿にほうれん草の胡麻和えを持ってきた。
「二人分一緒の皿に入れたから。いいでしょ?」
「構いません。美味しそうですね」
「へへっ。ねぇ、食べてみて」
「では、いただきます」木佐貫はまず肉じゃがに箸をつけた。口に運ぶと今まで食べてきた肉じゃがの中で一番美味しいと思うほどの味だった。あまりの美味しさにもう一口食べようと箸を伸ばしたところ、
「ねぇ、ねぇ、どうなのよぉ」と千賀子が木佐貫の顔を覗き込んできた。これまでにない間近で彼女の顔を見ると、ほとんど化粧っ気はなくすべすべした白い頬をして、かわいいというより美人系の顔立ちは口元の右にある小さなほくろが色気を漂わせていた。
「美味しいです。美味しすぎて、ついもう一口と思ったものですから」
「あら、うれしい。こっちも食べてみて」
木佐貫は肉じゃがに伸ばしかけた箸をほうれん草の胡麻和えに伸ばしひと摘まみし口に運んだ。柔らかいほうれん草が程よく味加減されていて胡麻の風味が美味さを引き立てている。
「これも美味しいです。お上手なんですね」
「よかった。ふふっ、好きなの、料理が」
千賀子はホッとした表情を浮かべ味噌汁を飲んで、肉じゃがを口にした。
「うん、我ながら上出来だわ。肉じゃがを上手に作れる女ってもてるのよ。知ってた?」
「そうなんですか」
木佐貫は食べながら、あまり感心なさげに返事をした。
「ちょっと鈍いかな。でも、まあいいや」
「え?なにか」
「いえ、なんでもありません」
千賀子が帰っていったのは時計の針が夜の11時を回ったころだった。食事の後片付けも千賀子がすべてしてくれた。木佐貫の日常にはない時間を千賀子が与えてくれた。仕事とは関係のない他愛もない会話が新鮮に感じられ心が和むのがわかった。いつも堅苦しい表情を崩すことのない木佐貫だが自分でも少し和らいだ顔つきになっているような感じを覚えていた。
それから千賀子は度々木佐貫の部屋を訪れ夕飯を作ってくれるようになった。時にはアパートの階段に腰掛けて木佐貫の帰りを待っていたこともあったので、部屋の合鍵を作って千賀子に渡した。二人が深い仲になったのもこの頃である。
「さあ焼けたわよ」と言って千賀子がトレーに焼けたサンマが入った皿を載せて運んで来た。今では二人分の茶碗や皿など千賀子が揃えてくれたので食卓の上は前よりも賑やかになった。食卓と言っても座卓は小さいままなのでいっそう賑やかに見えた。ごはんや味噌汁などすべて運び終わると千賀子も座卓を前に正座した。
「さあ、いただきましょうか。サンマはすこし塩をかけて焼いたからおろしの醤油は自分で加減してね」
「はい。いただきます」と言って木佐貫は大きく息を吸った。そして、サンマの隣にある小鉢を見て、「こちらは?」と訊いた。
「これは茄子の炒め物よ。茄子と一緒に炒めたのは油麩といってこっちの方にしかないものだからめずらしいかもしれないわね」
木佐貫はサンマよりも先に茄子の炒め物に箸をつけた。茄子と油麩を一緒に摘まみ口に運ぶと彩りの悪さとは裏腹になかなかに美味しかった。油麩の感触も独特なものだったがこの油麩にしみこんだ味が茄子と絡み合って美味しさを引き立てていた。
「これは旨い」
「美味しいでしょ。油麩がいいのよ。これはね玉葱なんかと一緒に炒めても美味しいし、味噌汁に入れても旨いの」
「へぇーそうなの」と言いながら木佐貫はおろしに醤油をかけ、サンマの背肉を箸で取りそれにおろしを載せ一瞬ためらったが思い切って口に入れた。
「あれ?」心の中で呟くと続けざまにもう一口食べた。
「美味しいや」
「でしょー。この時期に石巻に水揚げされるサンマって脂が乗っていておいしいのよぉ」
「旬と言うことですか」
「そう。魚嫌いの木佐貫さんには旬の美味しい魚を食べさせてあげるね。そしたら少しは食べられるようになると思うから」
「美味しいのでしたら食べられると思うけど・・、でも肉料理中心でお願いします」
「はいはい、分かってます」
木佐貫は千賀子の手料理を食べるようになってから美味しいと思って晩ご飯を食べるようになった。これまでは売っている弁当で夕飯を済ませていたので美味しく食べると言うよりもただ単に空腹を満たすだけの夕飯だった。弁当の種類も限られてくるので同じようなものだけを日替わりで食べるようなものだったので「美味しい」という感覚はもはや無くなってしまっていたのだ。
「これが暖かい手料理の良さなのか」と木佐貫は感じていた。
夕飯を食べ終え木佐貫はバックから今日のトラブルに関する資料を取り出し見ていた。すると不意に睡魔が襲ってきた。時計に目をやるとまだ10時を過ぎたばかりだった。近頃こういうことが増えていたが木佐貫は、疲れが溜まっている為か、それとも美味しい料理を食べすぎ満腹感からくるものなのか、またはその両方が原因だろうと結論付けていた。
千賀子が流しで夕飯の後片付けの洗い物を終え居間に目をやると、木佐貫が座卓に頭を伏せて寝ているのが見えた。
「あらあら、もう眠くなってしまったの」と声をかけたが返事はなかった。木佐貫の傍に行き今度は肩を軽く揺すりながら「木佐貫さん、木佐貫さん」と耳元で呼んでみたが薄目すら開けなかった。
「んもう」と言いながら千賀子は隣の部屋に入り押入れを開け布団を敷きはじめた。敷布団を出したところで木佐貫のもとに寄り後ろから両脇の下に両手をいれ懐に抱え込み引きずるようにして木佐貫を敷布団の上まで運び寝かせ掛け布団をかけた。それから目覚まし時計を6時にセットし枕もとに置いた。居間に戻り、帰り支度をし、メモ書きを座卓の上に置くと寝ている木佐貫のもとに行き、
「じゃあ、私帰るね」と言い木佐貫の唇に自分の唇をやさしく重ねた。反応しない木佐貫をしばらく見つめてから立ち上がると電気を消し居間に行き襖を閉めた。
居間の座卓に目をやるとブルーファルコンの資料が広げられたままだった。千賀子は膝を付きこの資料に一通り目を通した。そして、自分のバックから超小型のカメラを取り出した。一枚、また一枚とシャッターを切り資料すべてをカメラに収めた。さらに、千賀子はテスト飛行の日程が変更されていることに気が付きその日程を小紙に書き写した。資料を木佐貫のバックに仕舞い込み居間の電気を豆電球の明かりにし、台所の電気を消し部屋を出てドアを閉めて鍵を掛けアパートの階段を下りていった。
自転車のカゴにバックを入れると、後ろの方で車のドアが閉まる音がした。振り向くと一人の男が近づいて来た。その男は千賀子の傍まで来ると小声で言った。
「今日は早いな。寝てこなかったのか?」
千賀子は返事をせず男を睨んだ。
「ふん、渡すものはあるのか?」
男の言葉に千賀子は無言でバックの中から小型カメラとテスト飛行の日程を書いたメモ書きを取り出し男に手渡すと、背を向けて自転車に乗ろうとした。すると男が千賀子の後ろから二の腕を覆うように両腕をまわし右手が左の胸に、左手で右胸を掴むように抱きしめてきた。そして、耳元で、
「今日は俺が相手をしてやるよ」と囁き両手で千賀子の胸を揉んできた。
その瞬間千賀子は両肘を跳ね上げ男の抱きしめた腕を跳ね除け、後ろ向きのまま素早く右肘で男の鳩尾に肘打ちを食らわした。たまらず腰を引いた男の右腕を右肩越しに抱え一瞬腰を沈めると一本背負いで男を投げ飛ばした。そのスピードは女とは思えないほど素早いものでまさに一瞬の出来事だった。さらに千賀子は地面に無様に寝転がった男の腹に蹴りを食らわした。
低く呻く男を一瞥し、
「私の体は仕事以外では使わないことにしているの」と男だけに聞こえる声で静かに言った。さらに、
「今度こんな真似したら仕事が出来ない体にしてやる」と小柄なかわいい女性とは思えない低く凄みのある口調で付け加え男を睨みつけた。そして自転車に跨ると暗闇の町に消えていった。
男は一分程倒れたまま腹を抱えて苦しんでいたがゆっくり起き上がり車に乗り込んだ。車の中でポケットの中の小型カメラとメモを確認しエンジンを掛けると車を出した。路地を抜け国道45号線に出ると仙台方面に車を向けた。痛みの残る腹をさすりながら男は以前上司に千賀子に付いて尋ねた時のことを思い出していた。その上司は、
「彼女はCIAの特殊訓練を受けた諜報員だ。身体能力の高さは全諜報員の中で十本の指に入るほどだ。しかも女性であるため女にしか出来ない重要な任務に就く事が多い」と言っていた。男は身をもって千賀子の身体能力を体感したことになった。
男は猪俣と名のっていた。以前ラリードライバーをしていてそのドライヴィング・テクニックを買われ、車を使った繋ぎ役などの任務につくことが多いまだ駆け出しの諜報員だ。
猪俣は手に残っている千賀子の胸の感触を記憶にとどめようとしていた。そして、
「いつか服の上からではなく直に触れてみたいものだ」と思いつつも「今の俺では無理か」と苦笑いを浮かべた。
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