第1章 8話

放課後がやってきた。

意識を教室内に集中させる。愛那と新藤くんがいるのは確認済み。あとの数人をいったん教室から出さないと。

窓越しにレンへ合図を送ると、彼は廊下へ駆けだしていく。

それからしばらくして──パァン!と破裂音が鳴った。

「え、何々」

「バクハツ!?」

教室の中にいる子たちは音の出所を突き止めるべく、一斉に廊下へ駆けていった。

これはレンの発案だった。コンビニで買ってきた風船を膨らませ、その状態で姿を視えなくさせる。そうすれば破裂音だけがみんなの耳に届くって寸法だ。

愛那には(レンのことは端折りつつ)事情を話してある。新藤くんには……。

彼の後ろに回ると、同じ要領で仕込んでおいた耳栓をそっと外した。

地道なうえ地味な作戦だけど、あたしの負担は多少減る。

再び息を吐く。もわもわとした霞が教室の扉と窓を覆う。

これであたしがいる間、この教室の存在は誰にも認知されない。完全に二人きりの空間が出来上がった。

「あれ?皆どこ行ったんだ?」

「さあ……」

無人になった教室で愛那と新藤くんは立ち尽くしている。

「愛那、自然に喋って。どうしようもなくなったらあたしもフォロー入れるから」

背後から囁くけれど返事はない。

……いや、愛那はともかく新藤くんまで喋らないのはどういうわけだ。こないだや今朝の威勢の良さはどうした。

「……あ、さ、桜庭しゃん」

嚙んだ。

「……なあに?」

どうにか愛想笑いを作ろうとする愛那。

「そのプリント整理、手伝おうか?」

言われてみると愛那の机の上にはプリントの束があった。学級委員の仕事かな?

「別にい……」

いつものように突っぱねようとして思い直したのか、愛那は咳払いをする。

「……お願い」

よし。

しばらくは再びの沈黙の中、紙をばさばさと動かす音だけが響いた。

「そうだ新藤。手大丈夫?」

「ああ、保健室で見てもらったけど何ともなかったよ。あれ何だったんだろうな?虫じゃなかったのかな」

「流れ星でも落ちたんじゃない?」

「えー、だったら欠片だけでも残ったらジマンできたのに。流れ星を捕まえた俺!って」

「もう」

くすりと笑う愛那を見て、新藤くんの顔がぱっと輝いた。

よしよし、滑り出しは順調だ。

プリント整理が一段落すると、新藤くんは椅子で伸びをした。

「そういえば桜庭さん、今日来てた叔父さん?カッコ良かったよなー」

ドキッとした。ここでレンの話題になるとは。

「やっぱ似てるよな、なんとなく」

「そ、そう?」

照れたように髪の毛をいじる愛那。

「レンく……叔父さんはいい人だよ。面白い話いっぱい教えてくれるし」

「へえ。例えば?」

「えーとね。仕入れ……仕事先での土産話とか、古くから伝わるお伽噺とか、色々あるけど……迷子になったのを妖精に助けられた話とか」

うっかり声をあげそうになった。

「……妖精?」

「そう。叔父さんが小さいころにね、近くの山で迷子になったことがあるんだって。そのうち山の奥に辿り着いて、そこでは妖精たちが集会をしていたんだって。このくらいのサイズの」

愛那が親指と人差し指を曲げて長さを表す。

あたしの背丈と同じくらいの長さを。

「なんだか重い空気で……妖精たち全員ををまとめるリーダーみたいな女の人がいたんだけど、その人が叔父さんに話しかけてきたの」

やっぱりレンは妖精女王ティターニア様に逢ったことがあるんだ……。

「『私たちが視えるのか?』って聞いてきたんだって。叔父さんが頷いたら、しばらく怖い顔して黙り込んでたんだけど、こう言ったの。『私たちに叶えてほしいことはあるか?』って。そしたら」

愛那の語りは淀みがなかった。心なしか口調も家にいるときのように優しくなっている。

「叔父さんは『とくにないです』って。勿体ないよね。それとも怖かったのかな」

「……それで、どうなったの?」

新藤くんも引き込まれている。

話そのものだけじゃなく、柔らかくなった愛那の表情に見惚れているんだろう。

「そうしたら女の人は悲しい顔して、『もう私たちは必要ないのか』って肩を落としたの。そしたら叔父さんは慌てて」

まるで自分がそこにいるかのように愛那は語る。同じ話を何度も読み聞かされてきたのが想像できた。

「『一方的に叶えてほしいわけじゃない。僕があなたたちの役に立てたら、そのお礼として何かを返してください』って……」

愛那がちらりとあたしを見た気がした。

「叔父さんは何かしたの?」

「ううん、まだ子供だったし迷子だし、その場では何も。叔父さんも言ってから恥ずかしくなったらしいしね。ただ女の人はわかってくれたみたい。叔父さんが次に目覚めたときには山の麓にいて無事に帰れたって」

「へえ─」

「…………」

話し終えて我に返ったのか、愛那はそこで初めて狼狽えた。

「ご、ごめん。なんか一方的に喋っちゃって」

「あ、ううん。いや、桜庭さんがそういう話するのイガイだなって」

新藤くんは椅子から立ち上がり、盆踊りのようなポーズをする。

「俺もさあ、妖精はよくわかんないけど、たまにオバケとか、そういう不思議っぽいことが身の回りで起こったりはするよ。皆そうかもしんないけど」

「……信じてくれるの?」

「信じるよ」

淀みない喋りとはいかないけど、素直に話しているのが伝わってくる。

「でも俺が言っても信じてもらえないしさー、桜庭さんみたいに喋るの上手かったらみんな信じてくれるのかもね」

「新藤は」

言葉が切れた瞬間、愛那が問いを挟む。

「嫌じゃないの? 皆にいじられて」

核心を突かれても新藤君はへらりとしていた。

「んー、別に。そういうノリだし。みんな楽しそうにしてるからいっかなって」

今朝の一幕を思い返す。

彼はムードメーカーではあるんだろう。ただ、その空気が彼自身にとっていいものかどうかは少し首を傾げるところがあった。

「……なんか、ごめん」

ぽつりと新藤くんが言う。

「え?」

「ウザくして。俺がなんかするとすぐ周りが騒ぐし」

「……別に、そんなことないけど」

愛那の声が震えだす。

「新藤は……なんで私に構ってたの?私はノリ悪いでしょ」

さらなる核心に踏み込む愛那。

「んー」

言葉を選ぶ新藤くんをじっと待つ。

彼女の瞳がさざ波のように揺れているのを、あたしはただ眺めるしかできない。

「まあ、最初はなんか真面目そーで合わないかなって思ったけど」

正直だなあこの子……。

「でもさ、桜庭さんはキビシーけど、俺の言ってること無視しないしちゃんと最後まで話聞いてくれるし。朝声かけるのがだんだん楽しくなってさ。一人くらい、そういうノリじゃない人がいるのもいいなって」

えへへ、と照れくさそうに笑う。

……本当に、なんてわかりやすい子なんだろう。

本人に自覚があるかはともかく、こんなの「あなたが特別」と言ってるも同然じゃないか。

「わ、私──」

しばらく惚けていた愛那が言葉を紡ぐよりも前に、


「でも、もうやめるから」


新藤くんのその一言が空間を凍らせた。

……え?

「……え?」

「女子にも言われたんだ、『桜庭さんに迷惑だからやめなよ』って。ほんとごめん。いい機会だし」

ぱんっと手を合わせられて、愛那は氷のように固まっていた。

「俺ほんと空気読めないってよく言われるし。ごめん、困らせたかったわけじゃなくてさ」

──違うでしょうが、新藤慈!その女子共は『クラスのお調子者』のあんたが特定の子に入れあげてるのが気に食わなくて、でもその相手が人望のある愛那だから蹴落とすこともできなくて、まわりくどく引き離そうとしてるだけなんだってばー!!!

許されるなら大声で叫びたかった。なんなら新藤の肩を掴んでこれでもかと揺すぶってやりたかった──物理的に揺らせるかはともかく。

新藤は頭を下げたまま、その真意は見えなかった。

青褪めている愛那の肩を慌ててつつく。

「愛那。……愛那、しっかりして。誤解を解くのよ」

急き立てる小声は果たして彼女の耳に届いているのか。

動かない愛那をはらはらしながら見つめていると、視界がふっと霞んできた。

……まずい、そろそろ時間切れだ。

廊下で騒ぎは起きていない。レンは粘ってくれている。

こんな最悪のタイミングで力が解けたら、せっかくのチャンスが無駄になってしまう。

「愛──」

「新藤はさ」

一瞬耳を疑った。

聞き慣れたはずの愛那の声が、地獄の底から響いていると思うほど低かったからだ。

「私と、私じゃない人が言うことと、どっちを信じるの?」

「……へ?」

「わ、私……新藤がそんなふうに考えてるなんて知らなかった。ずっと冗談でからかわれてると思ってたのに、褒めてもらえるなんて思わなくて、嬉しかったのに」

「桜庭さん……」

「今日、初めてちゃんと二人で話せて楽しかった。新藤は違うの?」

新藤がようやくはっとした顔をする。

「私は新藤の話、もっと聞きたいよ。新藤はどうなの?他の女の子にやめなよって言われたらやめちゃう程度!?」

愛那はきっと顔を上げる。

その瞳は潤んでいた。

「私、一度も迷惑なんて言ってない。私の気持ちを勝手に決めないで!」

そう叫ぶなり、愛那は後ろの扉へと駆け出した。

「愛那!」

追いかけるために広げた羽がうまく動かない。

教室にかけた結界は外側から視えないだけで内側からの干渉は難なくできる。扉はあっさりと開いた。

でも、扉の外には──

「……愛那?」

「レンくん……」

見張りを続けていたレンは、一瞬にして中で起こったことを悟ったようだった。彼にかけた力から先に解けてしまったらしい。

「どうした、愛那。泣いてるのか?」

痺れて動かない身体で辛うじて外に出る。

「何でもないよ」

「何でもないことはないだろう。一緒に帰ろう、な?昨日のカヌレまだ残ってるから──」

「お願い。今は一人にして……」

パシン、と手を払う音と、頼りなく走る足音。

しばらくすると生徒たちのざわめきが戻ってきた。教室の結界も完全に解けたのだ。

愛那を追いかけなきゃ……。

途切れゆく意識の中で渦巻いたのはもちろん愛那のこと。教室で茫然と立ち尽くしている新藤のこと。

それから、手を差し伸べたまま微動だにしないレンの背中。


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