第2話 えっと、返品…

 おい、俺のビールはよ。どこだ。


 暑い部屋の中、熱いシャワーを浴びた俺の体はすでにビールへの禁断症状が出ている。


 素っ裸にタオルを巻いただけの格好のまま、玄関を開けて自転車かごも確認しに行くが空っぽだった。


 おいおい、どこ行ったんだよ、ビール。


 再び部屋に戻り冷蔵庫を開ける。するとさっきはなかったはずのビールがあった。だが、缶はベコベコに凹んで原型を留めていない。よく中身が噴き出さなかったなと感心するほどだ。

 しかし、一緒に袋に入れてあったつまみと弁当は見当たらない。


 なんだ、一体なんなんだ。誰かの嫌がらせか。ドッキリか。


 いろんな可能性が頭の中を駆け巡るが、次の瞬間すべてが吹き飛ぶ。


 冷蔵庫の中から聞こえてくる変な声。


『ギギギ、グギギ』

『ナクマ! ワワノメカニオセ」



 驚いて後ろに飛びのく。尻もちをつきながら、驚きのあまり腰に思うように力が入らない。これが腰が抜けるというやつか。生まれて初めて経験する。


 慌てている自分と冷静な自分が混在する訳の分からない状況の中で、冷蔵庫の中から聞こえる声は止む気配がない。俺は一心不乱に足の先を伸ばし、冷蔵庫のドアを閉める。


 変な声は聞こえなくなり、冷蔵庫の低いモーター音だけが部屋に響く。


 何分たったのか、何秒だったのか息をするのも忘れていた。ようやく乾いたのどを鳴らして息を吸う。そして大きく一息。やっと生きている実感がわいてくる。


 何だったんだ、今のは。夢か? 幻聴か? 


 さっきまでの動揺が嘘のようにいつも通りの部屋だ。夢じゃない。


 腰にはだいぶ力が入るようになったが、冷蔵庫には近づくことが出来ない。まだ、恐いのだ。なにかが冷蔵庫の中にいる。


 でもなんで? 運び込んだ時には何も入っていなかった。玄関ドアには鍵もかけていた。窓も閉まっていた。何かが侵入するはずはない。


 やっぱり幻聴だったのか。これを解決するには目の前の冷蔵庫を開けるしかない。


 俺は小さく一息つくと生唾を飲み込み冷蔵庫の扉をゆっくりと開ける。


 冷気が俺の冷え切った裸の体をかすめていく。


 徐々に中の状況が見えてくる。凹んだビールの缶。先の声はもう聞こえなかった。凝り固まった肩から力が抜ける。生きた心地がよみがえってきた。


 ホッとしてビール缶を冷蔵庫から取り出す。どうやったらこんな形になるんだと不思議に思えるほど複雑な凹み方。いっぺんに多方向から力が加わったかのようなそんな形だ。


 とてもじゃないが飲む気にはなれずに冷蔵庫の上のポンと置く。


 気味の悪い冷蔵庫だがとてもそのままにはしてけないので、中を覗く。


 部屋の中は真夏の暑さだというのに冷蔵庫の中からはもの凄い冷気が吹き出してくる。


「さっきよりもだいぶ冷たいよな…」


 かなり冷えてきた冷蔵庫を覗きこむ。


「暗いな」


 スマホのライトで照らして奥を覗く。


「何もない…よな?」


 冷蔵庫の奥は白い壁。いたって普通だ。幻覚、幻聴だと思いたいが冷蔵庫の上の凹んだビール缶がそれを拒絶する。いや、マジ、怖すぎるだろ。こんなものはもうこうするしかない。


「よし、返品」


 冷蔵庫を何度もチラ見しながら服を着ると、自転車に乗り冷蔵庫を買ったリサイクルショップへと急ぐ。あのおじさんにリヤカーで取りに来てもらおう。この際、配送料くらいは払ってもいい。




「こんばんは、すみません」

「はい、どちらさまでしょうか」


 店に行って倉庫の前で声を張り上げる。その声に反応して出てきたのはジーンズの前掛けをした茶髪のお兄ちゃん。バイトのようだ。おじさんが雇ったのか。


 俺を見て若干困惑顔のバイトの兄ちゃんに早速本題をぶつける。


「あ、すみませんが、先ほどこちらで購入させてもらった冷蔵庫なんですが、ちょっとうちには合わないというか、強すぎるというか、その電気代とかもかかるんで…」

「えっと、すみませんが、何の話ですか?」


 俺がこの店に来るまでに考えてきたできる限りの返品理由を告げ終える前に、目の前の兄ちゃんは俺の言葉をぶった切る。ちょっとうざったそうに。


「いえ、ここで買った冷蔵庫を返品したいんですけど」

「はあ? うちは明日オープン予定で、今日はまだ開店していないんですけど」

「えっ?」


 茶髪の兄ちゃんは不信感を込めた露骨な視線で俺を射抜いてくる。駄目だ、俺はこういうのは苦手だ。無理だ。


「あ、えっと。すみません、何かの勘違いだったかもしれないです」

「はあ、そうですか………因みに、この辺だとリサイクルショップはうちだけです。他にはないですよ。冷蔵庫が必要なのでしたらその道を行った先の大型家電店で…」


 おい、兄ちゃん、違う、誤解だ。俺はクレーマーじゃない。別に迷惑料をふんだくろうとか、あわよくば冷蔵庫もいったれとか、そんなんじゃない。


「あ、もう、大丈夫です。勘違いだったので」


 俺はそう言うと逃げるように自転車に飛び乗り、アパートに向かってペダルをこぎ出す。頭の中は真っ白だ。もう何が何だかわからない。



 あ、そうか。全部夢か。そうか。そうだよな。


 これは夢。そのうち覚めるんだろう。いや、家に帰ったら冷蔵庫も前の白いのがちゃんと動いてたりするんじゃないか。



 俺は自転車を家の前に置き、玄関を開ける。

 


 そこには黒い冷蔵庫とその上に置かれた凹んだビール缶。



「……もう、わかんね。いいわ、もう」



 そう言って俺は再び自転車に乗るとコンビニに夕飯の弁当を買いに出かけた。凹んだビール缶はコンビニのごみ箱に捨てて、弁当と新しい缶ビール、つまみを買い直し、加えてさっきは買い忘れていた翌朝のパンと缶コーヒーも買って帰宅。冷蔵庫にパンと缶コーヒーを放り込み、弁当に缶ビール、つまみはそのまま食い散らかして酔っぱらった勢いで寝た。



 翌朝、何もかも忘れて寝ぼけ眼で冷蔵庫のドアに手を掛ける。そこで自分が開こうとしているのが、白ではなく黒い冷蔵庫だと気づくが、時すでに遅し。俺の手は勢いそのままドアを開く。


 中にあるのはベコベコに凹んだコーヒー缶ひとつだけ。

 毎朝お決まりで食うはずのソーセージコーンマヨパンはなくなっていた。



 おい、俺のパンはよ。




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