第32話 穣芽さんに電話するよ

 ワンコールで穣芽さんは出て、お決まりの台詞を抜かして言ったのだった。

「巳幸、待っていたよ」

 そして、僕の返事を待たずに言葉を浴びせた。

「お疲れ様。繊細な巳幸には彼のおもりは重労働だったろう。今は漸く解放されたのかな。それとも隙を見てという感じかな。後者であれば、この電話は早く切った方が良いね。彼からもう聞き出しているだろうけど、彼には弁償金を払いたくてね。なあに、巳幸は関わらなくていい。いや、本当は潤滑油になって欲しかったのだが、待っているうちに考えが変わってしまってね。つい先程の事だ。郵便受けに突っ込むことにするよ」

 流石に黙ってもらうように頼んだ。余りにも話が噛み合わない。猪突猛進な所は彼の短所だ。電話から薄っすらと流れるジャズを五秒程聴いた。喫茶店にでもいるのだろうか。呼吸を整えて話した。

「あのねえ、穣芽さん。勘違いしているみたいだけど、清美君は良い子だよ。変なことしないであげてよ。今、清美君はこの世界に来たばかりなんだよ。右も左も分からないんだよ。大変な時期なんだよ。怖がらせるようなことしちゃ駄目だよ」

「怖がらせる? 私が彼を?」

 穣芽さんはこちらの耳を擽るような笑い声を上げた。それを抑え込むようにしながら語り出した。

「今日、会いに行った時のことだ。最初のうちは、彼は気のいい人間だったよ。柔らかい物腰に人懐っこさ。拍子抜けしたね、その時は。私は良かったんだが――いや金を受け取ってもらえないから悪いと言えば悪かったんだが、他の二人はそうじゃなかった。血の気の多いこと……」

 穣芽さんはどうやら陽斗さんと久太郎君に流し目でも送ったのだろう。二人の不満げな声が聞こえてきた。穣芽さんはわざわざ僕に聞こえやすいように二人にスマホを向けたようだ。

 久太郎君は捲し立てた。蝶の形に剃りこみを入れた頭が神経質そうに向けられ、ナイロールの眼鏡の奥の目がぎらついていることだろう。彼が言うことを纏めよう。宗助さんから聞いた話と違って清美君は大人しくて弱そうに見えたが、白金会傘下の金剛組の人間としては桜刃組の実力を正確に把握する必要があるので試さざるを得なかった。……僕は久太郎君をそれなりに可愛がっているので、褒めておこう。アイデンティティがしっかりしてて偉いね!

 隣で陽斗さんが無邪気に主張した。喧嘩してえ。顔の中心を横一文字に切るように描かれた蝙蝠の刺青を羽搏かせるように大きく口を動かしていることだろう。

 こういうことでね、と穣芽さんが呆れたように言った。事情説明が続きそうだったので、僕は先行して言った。

「久太郎君がお尻蹴って、清美君は逃げたんでしょ。もっと穏便に行動してほしかったよ」

 穣芽さんは吐息を漏らした。溜息と笑い声が混ざり合って湿っぽかった。

「橘清美から聞いたのか」

「そうだよ」

 逃げる、と二回程繰り返された。

「問題は逃げる直前だ」

 穣芽さんはその時のことをたっぷりと語り出した。

 マンションのエントランスで蹴られた清美君は、表情を変えた。それまで困ったような顔をしていたのが、パチンと切り替わった。眉根を顰め、目を眇め、唇を歪め、体全体を硬くし、拳をつくった。肉体の反応を並べるとそれだけだったが、空気が急に重くなったそうだ。視線自体は久太郎君に向けられたが、穣芽さんは息もできない密度の殺気が三人全員に向けられていると感じた。

 僕が語り直すと、素っ気なくなっちゃうな。穣芽さんは言葉を重ねて恐怖を説明してくれたけど、分かりにくかった。返事に困っていると、穣芽さんは清美君自体を語り始めた。

「高校の時の話、あるだろう。喧嘩がべらぼうに強かったという。あれ、巳幸もこうぎょく組の鈴木から聞いたんじゃないのか?」

 僕は肯定した。

 紅玉組というのは東京に拠点を置く白金会傘下の組だ。今の組長は白金会会長の一人息子・のうさか金時きんときだ。彼が組長になったのも、彼を持ち上げる一派の出現も最近のことだ。僕が清美君を調べていた四年前、紅玉組は別の、桜刃組と友好的と明確に言える派閥にいた。だから、鈴木さんとも気軽に接触した。正確に言えば、僕が清美君のことを調べていることを知った彼から話しに来てくれた。

「鈴木は橘清美に喧嘩を売って負けた。自身も不良だった高校時代に、日本全国津々浦々喧嘩の旅をしている最中にね。鈴木はその時のことをえらく生々しく楽しげに話してくれたよ。巳幸に対してもそうだったんだろう?」

 これも肯定した。鈴木さんは童心に返ったようにはしゃぎながら喋ってくれた。彼の口から語られる清美君は暴力の塊だった。さながら怪談のようでもあった。「最終兵器と書いてアンゴルモア」とか言っちゃってたし。

「私は、凶行の内容自体に注目してしまっていたね。でも、橘清美の恐ろしさはそこじゃないんだ」

 本当に恐ろしいのは、と真剣な声が紡いだ。

「語らずにはいられなかった、という所だ」

 突飛な話になって来たので、曖昧に相槌を打った。同調でも拒絶でもない返事で穣芽さんは満足したらしい。揚々と語りを続けるのだった。

「強烈な場の支配。説得力。目を惹かずにはおれない魔性。刻み込んでくる存在感。そういう心理的な力が彼の恐ろしさであり、強さだ」

 当時の僕はよく分からなかった。理解してないままに清美君に話してみたら、次の感想を頂いた。変な買い被りされとんなあ。つまりは、本人もあまり自覚していないんだろう。

「彼は宗助さんの取って置きだ。宗助さんは自身の父と同じく小柄ながらに喧嘩が強かったものの、主張の仕方が不味くて仲間にリンチされた人間だ。そういう人間が重視するのは、心理的な力じゃないのか」

 巳幸、と心配そうな声がした。一緒にいた頃、僕が無茶をしたと知る度に見せたあの柔らかな眼差しが浮かんだ。

「気を付けるんだよ」

 釈然としない警告だった。

「大丈夫だよ」

 穣芽さんは僕の返事に呆れたようで、溜息を吐いた。それから自ら話題を切り替えた。正直ほっとした。

「……彼に金を渡すのは止めておこう」

「良いことだよ。清美君も喜ぶよ」

 また溜息を聞かされた。そして、さらりと別れの言葉を告げられて通話が終わった。

 僕は悶々とした。会話の内容を反芻して考え続けた。

 恐ろしさという言葉の引っ掛かりはとれることが無かった。ただ、穣芽さんが語った特徴は、恐ろしさではなく魅力として捉え直していくと納得がいった。今朝から嫌なこと続きでボロボロだった心が回復し、こうも楽しいのは、清美君のそういった魅力のお蔭だと考えた。

 僕は嬉しくなって、急いで清美君のもとに向かった。


 穣芽さんの言葉が素直に捉えれるようになったのは、六月二十八日水曜日だった。

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