第30話 君って子は! ねえ!

 清美君が先程と同じスピードで指先を額へと滑らせた。巻き込まれないように僕は手を放した。

 完全に顔が隠れた頃、唸り声がした。今までのものより高く旋回した。

「何じゃろお……この気持ち。聞きたくないけど聞きたい、二律背反」

 幕が開くように、伸ばされた十本の指が丸まった。現れた目は半眼で誘うように僕を見据えていた。長い睫毛が頬に煽情的な影をつくった。必要以上の艶があって、心臓が跳ねた。定型の元気印な表情よりこちらの方が、美しさが直接的に伝わる。

 口元を隠していた手が飛びのくように膝の上に落とされた。口角の上がった唇はあまりにも柔らかそうで、唾が湧いちゃった。でも、そこから飛び出した笑い声が僕の邪気を吹き飛ばした。

 どぎまぎとした気持ちを誤魔化す為に僕も同調して笑い声を上げた。

 ちょうど信号が青になったので、前の車を意識的に見ながらアクセルを踏んだ。

 信号の下を通った頃、清美君の人差し指がカーステレオのボタンを突いた。課題曲が流れ出した。その曲に別の意味付けをするように清美君は慎重に言葉を紡いだ。

「他の恋人ってマンション近くの弁当屋の人? 俺見て挙動不審になったんじゃが」

 自分の口から弾けるような笑い声が飛び出して、驚いちゃった。体の中で踊り出した勢いを抑える為にハンドルを二度握り直す。

「清美君、君って子は」

 そうは言ってみたものの、彼を捉える言葉は思い浮かばなかった。

 清美君が顔を前に向けながら、鼻歌でも歌うような軽い声で話した。

「どうせなら最後まで聞きたいわい。毒を食らわば皿までってやつじゃね」

 じゃあ、話してあげよう。意欲的に口を開いたが、続いた言葉が閉じさせた。

「宗助揶揄えるし」

 僕の脳裏に拒絶している宗助さんがカットインしてきた。歯がガチンと音を立てて、顎が痺れた。

 僕の隣で宗助さんの息子が不満そうにした。

「あんたが言ったとは言わんよ」

「いやいやいやいやいやいやいやいやいやいや、僕以外は言わないでしょ」

「猪沢さんとかあ」

「絶対言わないよお! 聖域だからね、優作さんは! 皆にとって! 彼の前ではそんなじめえっとしたお話はないないなの!」

 非難の声があがった。場の主導権を握らないといけない気がして、言葉を重ねる。

「僕ねえ、あまり宗助さんに好かれてないんだよ。苦手にされてるんだよ! 媚び諂うバイがお嫌いみたいだから! 僕の存在全否定だよお! でも、仲良くしなきゃならないんだよ。桜刃組わくわくどきどき増員計画の為に! 少しでも失点しちゃ駄目なの。今の聞かなかったことにしてよお! 頼むよお! 僕のこと多少は可愛いと思ってくれてるでしょ、君は。可愛い僕に憐みを頂戴よお」

 三秒程おいて、うぇへへという笑い声が返ってきた。意味をとりかねていると、どろどろの甘え声が襲ってきた。

「桜刃組わくわくどきどき増員計画とやらが終わるまで使わんけん、話してえや。ええじゃんか。此処まで来たら何処まで行っても一緒じゃよ。あんたも本当は話したいんじゃろお? そういう顔しとるわい。楽しもうや」

 堪らないな、というのが率直な感想だ。昨日元気よく青くなっていた年下君だったとは思えない。飽きさせないこの多様さにメロメロだ。まあ、でも、乗ってあげられないから、会話のハンドルを切る。左手でカーステレオを示した。

「清美君、この曲どう思う?」

「露骨!」

「テンポが速いうえ、リズムが変で嫌な曲だと思わない?」

 清美君は、デクレッシェンドで鳴いた後に呟いた。

「あんた、ちょっと心配なるわ」

「君もたいがいだよ……。所で、どうだい、この曲は。僕はこれを弾くように言われて練習していてねえ、嫌いなんだよね」

「頼まれて?」

 清美君が首を傾げて、ゆっくりと戻した。

「バイオリン弾くってこと?」

 バイオリンを弾くような動作をしているのを視界の端に捉えた。がっつり正面から見たかった。

 清美君の言葉を肯定すると、すご、と返ってきた。

「副業ってやつ? いや、こっちが本業なんか?」

「情報屋としてのお仕事の一部さ、一応」

 ん、と清美君が鳴いた。一瞬の一音じゃなく、様々な長さと高さで量産した。例えばこの世界が過剰な演出のアニメーションであれば、清美君の声に合わせてはてなマークが具現化して積み重なっていくだろう。助手席どころか運転席までみっちり埋まって、画面ははてなマークで覆い潰される。そんな妄想が出来る程に長く清美君は悩んだ。そして、おそらく今まで嗜んできたフィクションを参考に、ある結論に達した。

「暗号?」

「詳しく聞かせてもらおうじゃないか」

「何処か自然な場所……バーのステージとかで演奏して、クライアントが一般客を装って聞いて取引する、みたいな」

「何それかっこいいね」

 二人で同時に笑い声をあげた。

「残念、不正解ー!」

「じゃろね!」

「答えは、幼少期からの縁で情報屋になったばかりの頃にパトロンしてくれたこともあるお客様に頼まれた、でしたあ! 断れないんだよねえ!」

 格好悪い。パトロン、と繰り返された。居たたまれなくなって喋り続ける。

「僕は情報屋としては出来が悪くてね。純粋に働けないんだ。器用貧乏を生かして、できることは何でもしなきゃやっていけないんだよう」

「えー、それはそれでかっこいいじゃん」

 照れちゃうぞ。いや、実際照れて何も言えなくなった。反射で人を褒めないで欲しい。頬が熱を持つのを制御できなかった。余程だらしない顔をしていたんだろう。清美君は囃し立てた。

「器用貧乏なんか言うてもうてえ。謙遜してもうてえ。何でもできるなんて偉いぞお。超人じゃあん。頼りになるわあ。有難いわあ」

 止めないと同じ調子で延々と続けそうなことが伺えた。このくすぐったさで僕が爆発しちゃいかねないので、カーステレオを指さした。

「ほらほら僕が言いたい、特に嫌な部分が来ちゃうよ! さんっ、にー、いちっ」

 清美君は喋るのを止めて聞いた。すっかりモードを切り替えて、真剣そう。

「ね! もしゃっとするでしょ!」

「えー、うーん、まあ、言われたらもしゃっとするけども」

 清美君は唇を尖らせたようだった。

「弾かんと分からんのとちゃう?」

 そうかなあ、と言って、僕は言葉を続けた。

 当時の僕としては、宗助さんの話じゃなくなるなら話題は何でも良かった。その筈なのに、つい熱くなってしまった。清美君は演奏する趣味なんて無い上にバイオリンの曲に拘りが無いので、集中しづらい話だったろう。面白くなくて当然だ。でも、変わらず弾けたテンションのまま、僕の話を聞き続けた。

 此処までよく出ていた笑い声も唸り声も絶好調だった。

 こういうものだったら良かったと披露した架空のメロディを繰り返してくれた。盗み見たハミングする横顔は優しかった。軽く閉じられた唇は柔らかい弧を描き、細められた目は慈しみが溢れていた。後日ふと思い出してにやけちゃった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る