第14話 大暴走しちゃった

 清美君はまたも警戒せずに、いいですけど、と受け入れた。「ど」の音くらいで首に腕を回して抱きついた。

 清美君は戸惑いの声を上げてよろめいた。バランスをとるためか、肩を抱えられた。

 出来るだけ体を密着させた。すっぽりと体を包み込まれた安心感に酩酊していった。自然と瞼が落ちて、体の力が抜けていった。

 無駄な脂肪が無い引き締まった感触がした。背中を撫でてみると、何となく元々骨格ががっしりとしていることが分かった。此処まで大きくなるのも納得だ。偉いぞ、清美君の骨。抜くなんてとんでもない。

 清美君がお返しとばかりに僕の背中を撫でた。大きな手でしているというだけでもかなり来るものがあるが、力加減が上手過ぎた。技術面もやばいが、ぎこちなさ零でできるメンタル何なの。初対面でこんなに受け入れられちゃったら、多幸感で頭おかしくなっちゃうよ。

 ああ、もうね、もう、もうだよ。もうだよね。

「好き。清美君、好き」

 清美君が一瞬強張った。解したくて、頭を撫でた。そのまま、柔く押して僕の首元に埋めさせた。

「君が来てくれて嬉しい」

 ちゃんと伝わるように耳元に口を寄せた。

「これからもっと君を好きになれるなんて最高だよ」

 もう一度、好きだと告げて体を放した。清美君がふらふらと体を戻して、僕を唖然と見た。目があって笑いかけると、顔を押さえてしゃがみこんだ。

「何よ、こるぇ……」

 呂律がちょっと回っていなかったのが、妙に可愛かった。顔は見えないけど、耳が真っ赤なのも加点だ。僕もしゃがもうとした時、氷点下の声が突き刺さった。

「痴漢行為」

 声がした方向を見ると、声の主が三段下にいた。近い。驚いて壁で背中を打つことになった。僕が清美君しか見てなかったのもあるけど、絶対気配殺していた。凄い技術の無駄な使用。意味不明だよ。

 彼は僕を冷めた目で見つめながら、淡々と清美君に話し続けた。

「正気になった方がいい。照れてる場合じゃない」

 そんな、と清美君がそのままの態勢で返事をした。

「効くんです! あまりにも! すうっと! 荒んだ心に! や、荒んでたことに気付きました! 気付く程、効きました!」

「気のせい。君が単に疲れているだけじゃないかな」

 そうですよ、と奏君が同意した。それで清美君がはっとして彼に顔を向けた。奏君に似ている中性的なつくりであるのに、奏君と違って垂れ目で真っ黒な目がついている顔が清美君を見つめ返した。

「初めまして……橘清美です。……三ツ矢焔、さん?」

「初めまして。今朝の電話の件で話をしに来た。とりあえず、階段を降りよう」

 焔の提案に清美君が体を起こして、階段を降り始めた。僕と奏君も続く。焔は後ろ向きにそのまま降りていった。驚異の空間把握能力とバランス感覚を発揮する場面じゃなくない? しかもそのまま奏君に話しかけた。

「奏、懐くのは良いことだけど、あまり虐めるなよ」

 最初からさ、と残り三段を静かに飛び降りた。短い漆黒の髪と白い麻のカーディガンが豪勢に揺れた。足元見なよ。

「虐めてない」

 奏君がそう言いながら残り十段を飛び降りた。手は首のチョーカーに触れていた。軽やかに着地して定位置だと言わんばかりに焔の左に立った。

「ただ、後輩のくせに、四つも年上で、二十七センチも大きくて、男性的で、可愛げが無いから、やり辛くって堪らない。要素を一つくらい抜きたくなって当然だ」

 無茶苦茶なことを言ってると思うのだが、焔は成程と奏君の頭を撫でた。何で納得できちゃうの。

 焔がすうと清美君へと目を移す。

「百八十もいかないの? そうは見えないね」

 奏君が焔に向かって歯を食いしばった。

「焔が俺を虐めてる」

「ごめん、計算間違い」

「嘘だ」

「文系は三桁同士の計算ができない生き物なんだよ」

 そう言って、焔が手の甲で奏君の頭を軽く小突いた。奏君が唇を尖らせた。奏君は焔の隣だと表情が豊かになるんだなあ。まあ、若干だけれど。

 焔が清美君に営業スマイルを向けた。

「今朝はごめんね。頻度は週一くらいでいいかな」

 お願いします、と清美君が嬉しそうに返した。

「焔に剣道教えてもらうの?」

 僕がそう尋ねると、清美君は肯定した。僕にまで嬉しそうにするもんだから、にやけちゃった。そうすると、清美君は笑みを深めた。いつまでもそのままの君でいてほしい。

 奏君は僕らのペースに乱されず、不機嫌なまま口を挟んだ。

「何曜日にするんですか? 木曜日にしましょうよ」

 瞬間、今年の春に電話越しにブチ切れていた巴さんの声を思い出した。頭痛がしてきたぞ。

 毎週木曜日は焔にとっては休日だ。午後に大阪で働く妻の巴さんの家に行き、彼女に散々尽くして金曜の午前に帰ってくる。ざっくり言うと通い婚の日だ。焔が大学を卒業してから連綿と続く生活リズムだ。僕を含めた周囲の人間は慣れきっていた。でも、奏君は違った。焔が巴さんと懇ろになる前――もっと正確に言えば、不仲のために互いを無視し合う関係性に落ち着いていた頃――から今年まで日本にいなかった彼の目には奇妙に映った。巴さんのことを嫌っているから、嫌悪感さえあったようだ。胸に秘めていたらまだ良かったのに、行動で示した。木曜日に焔と遊ぶようになった。怖いもの知らずだよ。焔は奏君が大好きなので、そっちを優先させた。三週くらい。挙句の果てに、久しぶりに会った巴さんに惚気たらしい。さあキスするぞという時に急に思い出し笑いして話し出したらしい。同性の友達に対しても嫉妬する程の独占欲大魔神の前でやることじゃない。危機管理の低さが伺える。伺いたくなかった。火のついた巴さんは、想定外の提案する係の僕に愚痴ってお仕置きの提案を求めた。あー、改めて考えると、訳の分からない立場だ。バイセクシャルだとバレて責められた時に焔の友人という地位を保持するためにあの手この手で――二人の仲を脅かす存在は在さんだと考えを誘導して味方面する等して――頑張った結果だ。直接的な成果は焔からの顔面パンチだ。やり直したいけど、やり直しても同じ結果にしかならない気がする。救いがないよお。そんなこんなで僕が巴さんに求められる役割をしっかり果たした後、焔はお仕置きされた。余程酷かったらしく、奏君に対して暫くぎこちなかった。奏君はそれから巴さんの邪魔をしなくなったが、まあ完全に懲りていなかった訳だ。納得したくないなあ。

 清美君はそんな事情を露知らず、ひりついた空気に不思議そうに瞬いた。

 焔が表情に苦みを滲ませて、奏君の横っ腹を肘で小突いた。奏君は足を払おうとした。焔はあっさりかわして、何もなかったかのように清美君に話しかけた。

「火曜日の午前。とりあえず、九時に来てもらおう。構わない?」

「だ、大丈夫です」

 清美君も何とか調子を合わせるが、顔にクエスチョンマークが書いてあった。後で事情を教えてあげたけど、エクスクラメーションマークが追加されただけだった。もっと詳しく話そうとしたら、強引に別の話題にされた。こういう系統の話は苦手みたいだ。潔癖の気があるねえ。

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