第2話 寿観29年6月10日未明②

 目の前の安藤が左の踵を軸にくるりと回って清美に正面を向けた。緑色のカーディガンがふわりと膨らんで萎んだ。真鍮の羽根を揺らしながら、安藤は清美との距離を更に詰めた。

「何か今不穏な事考えてたでしょ」

 分かっちゃったあと目が眇められた。ついでに薬指が清美の腹を突いた。

 正直に言える訳も無く、清美はさらりと嘘を吐いた。

「生活のことを考えとったんよ。家電やら食器やら必要なもんは何も無いけん」

 安藤は唇を尖らせた後、ぱっと笑みを咲かせた。両手を叩いて軽い音を鳴らした。

「それじゃあ永苑に連れて行ってあげよう。全部揃うよ」

 自分の言葉に更に喜んで、安藤はふふふと笑い声を上げた。

「永苑に買い物しに行くなんて、清美君はまごうこと無き匣織の住人だね」

「イニシエーションなん?」

「んー、ちょっと違う感覚だねえ。儀式っぽくないね。そうだねえ」

 安藤は清美の右手を両手で包み込んだ。そして、愛おしげに撫で回した。

「浸っていく感じかな。匣織に――桜刃組に。君が此処にいることは当然のことになっていくんだよ」

 ゆっくりと手は上がっていき、安藤の胸の前で留まった。

「あの夢にまで見た清美君が現実的なものになっていくんだよ」

 安藤は恍惚と目を細める。唇は優美な弧を結んだ。

「……清美君がいることが日常になっていく」

 甘い声が暁を控えた夜の空気を震わせる。

「素晴らしいことだよ。君が来てくれて嬉しい」

 安藤は真っ直ぐに清美を見つめていた。

 清美は自分の頬が熱を持っていくのを感じて、俯いて顔を隠した。

「何回目よ、それ! 言い過ぎじゃ。十分分かったわい」

 安藤は少ししゃがんで清美の照れた顔を覗き込んだ。そして、悪戯気に歯を見せた。

「何度だって言わずにはいられない程の幸福だもの!」

 匣織の空気の中に解き放つように清美の手が自由になった。自然と落ちていくそれが清美の臍を通り過ぎる前に、安藤は清美に抱き着いた。惜しげも無く全てを預けられた体を支えようと、清美がタップを踏んだ。安定を得た途端、安藤は体を右へと傾けた。二人の体が一回転する。

 前髪の一部分だけ色を抜いた清美の前髪が、安藤の緋色の髪が、清美のくくった後ろ髪が、安藤のピアスが、清美の紺色のTシャツが、安藤のカーディガンが、匣織の空気の中を泳いだ。

 安藤が驚く清美をエスコートし、再度安定させた。それから清美の両頬を両手で包み込んだ。二人がどちらともなく頬を緩めた。

 安藤が頬を紅潮させて声を弾ませる。


「ようこそ、匣織へ! 桜刃組へ!」

 

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