はじめての脅迫
「きたよ」
「あら、トトリちゃん」
扉を開けると、ベッドに腰掛けたエコ姉が振り向いた。
「エコ姉、何してたの」
「なんにも。ぼんやり外を見てただけ。ゾンビがたくさんいるな〜。ついに私も仲間入りか〜って思ってただけ」
「それって楽しい?」
「ぜんぜん。……わかって言ってるでしょ」
「うん、今日はエコ姉が嫌がることをしに来たから」
エコ姉は私が手にしている薬瓶と腰の剣を見て半笑いを浮かべた。
「あらら、ずいぶん可愛らしい死神さんもいたものね」
「エコ姉のカワイイは何にでもすぐに使うから信用できない」
私は口を尖らせながらエコ姉の左隣に座った。
「でも、エコ姉がケルクスと駆け落ちしてなくて安心した」
「ケルクスが? あの人はそんなことしないでしょ」
「知ってる」
それでも世の中には万が一がある。前触れもなく里にゾンビが現れるように、何が起こるかわからないのが人生だ。
私はエコ姉に恐る恐る問いかけた。
「……あのさ」
「なあに?」
「…………エコ姉は、逃げたくならないの?」
「逃げれるものなら逃げてるわ。でも、敵は体の中。逃げ場なんてどこにもないでしょ」
「でも、最期に自分の宿木を一目見たいとは思わないの?」
「思わないとは言わないけど、どうせ私じゃたどり着けないもの。それなら生きたままゾンビになる前に楽になりたい」
エコ姉の表情には諦観が見える。落ち着き払ったセリフとは対照的に、傷を負った左腕は小刻みに震えていた。
私の前だから歳上らしく振る舞おうとでもしているのか。
不恰好に巻かれた包帯が痛々しい。
「エコ姉、その包帯もうちょっと何とかならなかったの」
「仕方ないでしょ。自分で巻いたんだから」
「ケルクスがやったんじゃないんだ」
「感染するかもしれないのに、そんなことさせられません」
私は包帯の結び目へと手を伸ばした。
「ちょっ、トトリちゃん、どうしたの?」
「くちゃくちゃ過ぎて見てらんない。巻き直したげる」
「話聞いてた?」
「聞いてたよ。自分でやったんでしょ。エプロンの後ろ結びもできないにしてはがんばった方じゃない」
「いや、そこじゃなくて。本当に危険なの」
それでも私は強引に包帯を解く。
エコ姉が止めようと右手を伸ばしてくるが、知ったことか。
「私がやりたいんだから、いいの」
「でも――」
「いいの!」
「……まったく、しかたないんだから」
エコ姉が手を止めた。
剥き出しになった左腕の傷を改めて眺める。
琥珀色の体液が滲んでいた傷口はすっかり変色し、獣の血のように赤黒くなっていた。ドライアドの体液の色とは思えない。ゾンビ化が進行している。
「トトリちゃん、私がいなくなっても、みんなと仲良くね」
「なにそれ」
「私からの一生のお願い」
「……やだ」
「最期のお願いでも?」
一生だろうが最期だろうが、する気もないことをできると言いたくはない。
「エコ姉はさ。こんなのが最期で本当にいいわけ」
「いいとかよくないとか、そういう話じゃないのよ」
「それはわかってる、けど」
「……」
「……」
部屋に沈黙が横たわる。
傷口のガーゼを取り替え、包帯を巻き直そうとすると、エコ姉がぼそりとつぶやいた。
「……そう、ね。結婚したかったかな」
思わず手が止まった。
「私もいい歳だから、そろそろ結婚して、子どもをお祈りして、家庭のひとつでも持ちたかったかな」
「それって…………ケルクスと?」
「うーん、どっちかというと特定の誰かというより、結婚や家庭そのものへの憧れというか、行き遅れの焦りというか」
「恋に恋する的な」
「そんな可愛いものじゃないの。だいたい、ケルクスだって私なんかに言い寄られても困るでしょ」
「家汚いもんね」
「いや、そうだけど……今それ言うかなぁ」
行き遅れと自嘲する割にエコ姉の顔は綺麗だ。可愛いといった方がいいかもしれない。身体を這う蔦や若草色の髪もみずみずしい。
たしかに宿木への水遣りは雑で、掃除もずぼら、昼過ぎまで寝ていることも多いけど、万事が万事その調子なわけでもない。エコ姉は自分のことに関して適当なだけだ。
幼い頃に世話をやかれたことがある私にはわかる。
「ちょっとトトリちゃん、手止まってるよ」
「あぁ、うん」
包帯を握ったまま手が止まっていたことを、指摘されて気づく。
「……あのさ、エコ姉」
「どうしたの?」
「ここから逃げよう。エコ姉の家に、宿木の根元に帰ろう」
エコ姉は淡い
「急にどうしたの、トトリちゃん?」
急なんかじゃない。最初からそのつもりだった。
私は意を決して小さく息を吸うと、真っ赤な傷に口づけた。
「きゃっ!」
鋭い悲鳴。ビクンと震える肢体。口内を埋め尽くす刺激。喉奥を削る苦味と舌を刺す痺れが、ドライアドの体液特有の甘さをかき消していく。
「痛っ、痛い! トトリちゃん、やめて!」
まるで
「なんでっ! 何してるの! こんなことしたら、トトリちゃんまでゾンビに――」
「はい、
「ッ!」
「もう、感染ったよ」
ようやく腕を放して顔をあげる。初めに視界に入ったのは、怯えるような瞳だった。
ゾンビに噛まれてもなお、気丈に振る舞っていた彼女の表情が今、たしかに揺らいでいる。
そのことに傷つくよりも先に、仄暗い独占欲が湧き上がる。
「エコ姉、一緒に逃げよう」
それは嘆願でも救済でもない、ただの脅迫だった。
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