第53話 死食鬼1

 葉桜が目立つようになった四月上旬、俺は教会を訪れた。


 十字を切って聖堂に入る。


 金髪の修道女シスターに“許しの秘跡ひせき”を求めると小部屋へ案内された。


 俺は告白の小部屋へ入ると椅子に座り、続いて神父が反対側へ入る。


「父と子と聖霊の御名みなによって、アーメン」


 祈りと共に神父と一緒に十字を切った。


 年老いた神父は俺に視線を向けて口を開いた。


回心かいしんを呼びかけておられる神の声に心を開いてください」


 神父は聖書の一節を朗読する。


「その時、イエスは言われた。

 “もし人の過ちを赦すなら、貴方の天の父も貴方の過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、貴方の父も貴方の過ちをお赦しにならない”」


 そして罪の告白を促す。


「神のいつくしみを信頼して、あなたの罪を告白してください」


 俺はゆっくりと話を始めた。


 妻は妊娠して出産予定日まで二か月となった。


 だが、胎盤剥離たいばんはくりで酷い出血を伴ったため、母子ともに危険な状態だと病院から連絡があった。


 病院へ駆けつけた俺は母親か、子供のどちらかしか助けられないという選択肢が待っていた。


彼女の想いを尊重して、子供を優先することを俺は決めた。


子供は無事に生まれて助かった。


彼女は生まれた子供を一度抱いたが、すぐに意識を無くしてそのまま亡くなった。


「――俺の判断で妻を亡くしました。……罪を告白しました。ゆるしをお願いします」


 神父は十字を切りながら許しと助言を与えた。


あわれみ深い父は御子みこキリストの死と復活によって世をご自分に立ち帰らせ、罪の許しのために聖霊を注がれました。


 神が教会の奉仕を通して、貴方に許しと平和を与えてくださいますように。私は父と子と聖霊の御名によって貴方の罪を許します。


 貴方の判断は伴侶の意志を尊重したもの。罪ではありませんよ」


「アーメン」


「それと明日、遅くてもいいので来なさい。いいですね?」


「えっ、はい」


 気分が晴れない俺は小部屋を出て、心の中で自問自答をする。


――分かっていル。許しの秘跡を行っても罪の結果は変わらなイ。

(そうだ。罪の結果を取り除いて、後の人生を気楽に歩ませてくれるものではない。罪の結果も含めて、しっかり頭を上げて歩むことの助けに許しがある)


 俺は教会を出ると、シスターが見送った。



◆   ◇   ◆



 翌日、入力業務を行っていると困った表情をした上司が俺の元に来た。


「君の状況は分かっているが、休暇の予定を出してくれないかな?」


「いえ、自分は大丈夫です。今、休む気には……」


「いや、政府の働き方改革に我が社も沿っているからね。所定の年休を取らないのは、会社としても困ると話しているんだ。お子さんもご両親に預けっぱなしだろう。

 まあ、業務の一つだと思って、明日から年休を取っていいから」


 キーボードの上に夏季休暇予定表と有給休暇申請書を置いて、上司は俺の傍を離れていった。

 このやり取りを盗み見ていた同僚たちも作業に戻った。


(俺は今や腫れ物の扱いだな。それは仕方ないか)


 中小企業のこの会社で働き方改革は難しいのに、それでも俺に休暇を取らせたいのだろう。


 書類に記入して認印みとめいんを押し、上司に書類を渡して十九時に会社を出た。


 いつもの通勤電車へと乗り込み、扉近くの席に座る。


 アナウンスと共に扉が閉まって動き出した。


 暫く、扉の上にある液晶パネルに視線を向けた。


『“天候と闘い、安全・安定の緩急な運行で等しく横へ”をスローガンに、皆さまへより良いサービスを提供する闘急グループ』


 無音で流れる等横とうよこ線の広告に飽きて目を瞑った。


 何もしていないと、亡くなった妻のことをつい考えてしまう。


 俺は子供を優先することを決めたが、どこかで彼女も助かると俺は思っていた。

 でも、そうはならなかった。


 彼女の死に耐えられない俺は生まれたばかりの子供を両親に預けて仕事に逃げた。


 疲労感と眠気を感じながら、いつもの自問自答と葛藤が始まる。


(二日前の定期検査で良好の診断だ。彼女も大丈夫と言って俺を見送った。なのに……)

――彼女の大丈夫は空元気だったんじゃないカ? 俺と一緒だろウ?


(……そうだ。もっと彼女の傍にいるべきだった。きっと異変に気付けて助かったかもしれない)

――きっと、そうダ。間に合ったはずダ。


 彼女の大丈夫は“大丈夫じゃない”ことが多い。


 俺と同じで似た者同士だった。


(でも子供は無事に生まれて助かった。赤ちゃんを抱いた彼女は微笑んでいた――)

――違ウ。彼女は見捨てられたことを知っタ。彼女は微笑んでいなイ。


(微笑んでは……思い出せない。……彼女が死んだのは俺の決断だ。だが、子供は育っている)

――いや、育てているのは両親じゃないカ。彼女はなんと言うカ……。


(責めるかなぁ。仕事に逃げているじゃないかって)

――そうダ。仕事だって周りの気遣いを無視、飲み会を断り、腫れ物じゃないカ。


 言葉の縄が首に巻きつくようで、息苦しい。


 首に縄を掛けられ、心の糸で支えられた絞首刑台にいるようだ。


(腫れ物だから、距離を置く。俺や彼女、子供の話をしても周りは迷惑だからな)


 事実を認めた言葉で一つの糸が切れる。


――仕事は回ル。腫れ物の俺がいなくても何も問題は無イ。代わりになる人材はいるからナ。

(長期の休みが貰えるぐらいだからなぁ)


また一つ糸が切れる。首の縄が徐々に閉まって、息苦しい。


――親は無なくとも子は育ツ。両親がしっかり育ててくれるから大丈夫ダ。

(両親はしっかり者だ。でも、彼女は許さないだろうな)


――確かめよウ。また勝手に彼女の気持ちを忖度したナァ。会って確かめればいイ。

(……会って確かめるって――)

――会いたイ。彼女は俺を責めるために待っているはずダ。


 残った支えの糸が張り詰める。


(……そんなこと)

――オレはいらないイ。オレは必要とされていないじゃなイ。

(子供は両親が……。仕事も誰かが……。彼女は亡くなって……)


 残った糸が次々と切れて無くなっていく。


 首の周りが絞まる感覚があって、ひどく息苦しい。


 その時、車内に自動音声のアナウンスが流れた。


『次は武蔵大杉です。The next station is Musashi-Ōsugi.』


 目的の駅に降り立って深呼吸をする。


 そして首回りを手で触り、何もないことを確かめた。


 ただ俺の気持ちが大きく沈んでいた。


(俺の必要とされる居場所は、ないんじゃないか……)

――彼女に会いたイ。


 暗い思考で改札口へと向かった。

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