第1章 地獄のオリエンテーション

第1話 緊急特別事前研修(前)

 大学の卒業式の数日前、市役所の『特命特別対策室』なる謎の部署から以下のようなメールが届いた。


『3月◯日、緊急特別事前研修を実施します。本件につきましては、他の内定者や知人は元より、ご家族にも絶対に伝えないで下さい』


 そのあからさまに特別扱いを示唆する内容を見た俺は、非公式かつ内々に幹部候補生のような扱いを受けるのだと判断する。


 俺には然程の上昇志向がなかったため、十分合格の見込みがあった国家公務員試験ではなく、敢えて地方公務員一本に絞っていたわけであるが……それでも、勤め先から高く評価されることが嬉しくないわけじゃない。


 そんなわけで、俺は先日顔合わせをした同期の面々に申し訳なさと一抹の優越感を覚えつつ、指定された日時に市役所へと赴いた。


     ◇


「……」


「……」


 三人掛けの座席が三列並ぶ小会議室。その最前列の両端の机をそれぞれ一人で使用する男女は、いずれも見たところ俺と同世代。

 二人とも武道でも嗜んでいるのか、やたらと良い姿勢で正面のホワイトボードを見据えていた。


 ただ、いずれも内定者同士の顔合わせには参加していなかった人物だし、俺同様に困惑と緊張をしている様子。

 ……縁故採用か何かの裏ルートを使った不届き者、という雰囲気でもなさそうだが。


「……」


 そんな二人がこちらに視線を向けたので、俺は内心で首を傾げながらも会釈を返し、彼らに倣って演台真っ正面の席に着く。

 名札シールが貼られた長机は最前列の三つだけであり、これで特別事前研修に呼ばれたメンバーは全部らしい。


「さて……」


 これから長い付き合いになるであろう二人とは親交を深めるべきなのかもしれないが、それは今すぐすべき事柄ではないだろう。

 ひとまず俺は研修を受ける者の作法として筆記用具を机に並べ、鞄を通路側に置いて居住まいを正す。


 すると、その一連の作業が終わるタイミングを見測らっていたかのように、ホワイトボード側の扉がスッと開いた。


     ◇


「急なお呼び立てだったにもかかわらず、お集まりくださりありがとうございます。私は本日の研修を担当する沙羅と申します」


 随分とせっかちな事に、演台に到着するまでの間に挨拶から自己紹介まで済ませてしまったのは、いかにも仕事がデキそうな女性。


 パンツスーツと縁無し眼鏡が良く似合う、東南アジア系のハーフっぽい顔立ちをしたクールビューティだ。

 ……ただし、スタイルのほうは上中下いずれも情熱的。


「皆さんお揃いになったところで、早速研修を始めさせていただきます。本日はスライド上映、口頭での説明、質疑応答という流れで進めさせていただきます」


 ホワイトボード前で俺たちに向き直っても彼女のペースは何ら変わらず、開始予定時刻を無視して研修を進行させていくサラさん。


 ……どういうわけか下の名前のほうを名乗ってしまわれたので、脳内では馴れ馴れしくもそう呼ばせてもらうことにする。


「それでは、まずはスライドから。皆さん、こちらをご覧ください」


 そう言って彼女がポケットから取り出したのは、スクリーンを降下させるためのリモコン……ではなく、僅かに紫色を帯びた小さな水晶クラスター。


 そのボケとも何とも判断つかない意味不明の行動に、三人が顔を見合わせかけた刹那。

 その紫水晶が妖しく煌めき……続いて、プロジェクターのハロゲンランプよりも強烈な閃光を放った。


     ◇


     ◇


 ……悪魔、妖怪、怨霊。


 眼前に映し出されるは、見る者の根源的恐怖を掻き立てる異形。地域や文化によって呼称は違えど、いずれも闇に棲まうモノども。

 科学が最大宗教となった現代においては、そのほぼ全てが駆逐されてしまった非現実の住人たち。


 ……そう。あくまで『ほぼ』なのだ。


 一般の人々が認識する世界の裏側では、そういったモノたちが我々の文明を脅かそうと今なお息を潜めている。

 しかし、我々が築き上げた文明と常識が未だ崩壊していないということは、人知れずそれらと闘う者たちが存在する事を意味する。


 ……聖職者、魔術師、サイキッカーなどなど。


 祈りで神々しき光輝を、魔術で恐るべき業火を。あるいは、科学では到底説明不可能な不可思議な現象を以って闇を照らす。

 こちらも地域や文化および各人の技能によって呼称は違えど、何らかの異能を有した特別な人間たち。


 有史以来、彼らは血と汗と涙を流し、時に魂を闇に蝕まれ……しかし、決して挫けることなく、闇にあるべきモノを闇の中へと退けてくれていたのだ。


 ……だが、しかし。


 風水を無視した土地開発。現世に沈着する未練や無念。そして、異能者たちの心に芽生える悪意。

 光と闇の境界線は、未だ定まっていない。


     ◇


 ……異界(国際呼称:ダンジョン)による浸食、怪異(同:モンスター)等の跋扈。あるいは、異能者(同:スキルホルダー)たちによる凶悪犯罪。


 現在の我が国において、それらの重大な特殊事案については、内閣直属の超法規的特務機関『陰陽寮』および『明王護国衆』、自衛隊の極秘特殊作戦群『ガーデンキーパー』などが中心になって対応しています。


 ただ、人員数の不足等の理由から、もっと軽微な諸問題……つまり、中小規模ダンジョンの管理運営や異能者による些細なトラブルなどには、残念ながら手が回っていないのが現状です。


 そして、それらの諸問題に対応しているのは、われわれ地方独立行政法人『特殊事案特別対策局』。

 職務の性質上、その存在は一般に公開されている法律には明記されていませんが、実際には他の公的団体と同等に位置付けられて長い歴史と実績を誇っています。


 なお、先のメールに記載しました『京都市役所・特命特別対策室』というのは、関西支局が一般社会に関わる際に名乗る架空の部署ですので悪しからず。


     ◇


     ◇


「…………」


 事前の想定とはあまりにもかけ離れた研修の幕開けに、言うまでもなく俺は絶句するしかない。もちろん、残る二人も同様だ。

 しかしながら……誰も笑い飛ばす事はできなかった。


 ……前半のファンタジー映画のオープニングのような映像はスクリーンでも網膜でもなく脳裏に直接上映されたものであるし、後半の説明に至っては口頭ではなくテレパシーによる情報伝達だったからだ。


「…………」


 揃って口をあんぐり開ける俺たち三人を見て、これまでずっと無表情だったサラさんの顔が僅かに苦笑の形に変化する。


 ……そりゃ、異能者とやらにとっては常識レベルの話だったのかもしれないが、一般人にとっては世界が揺らぐほどの衝撃なのだ。


「失礼、今回のように異能者以外からの採用は初めてのケースですので、少々ペースが早かったようですね。当初の予定を変更して、質疑応答を先にしたほうがいいのでしょうか……」


 まるで仮面を着けているかのような彼女が僅かに血の通った迷いを見せたことで、俺は幾分か落ち着きを取り戻した。


 そして、気分を切り替えるべく背筋を伸ばして周囲に目をやってみれば、出入り口の扉にラテン語だかヘブライ語だかで構成された魔法陣の輝きが見えた。

 ……ダンジョンだのモンスターだのはともかく、異能とやらの存在は信じるしかなさそうだぞ。


 一方、そんな俺の視線の行方を追ったサラさんは、元より早口だった語り口調をさらに加速させてしまう。


「あれはですね、機密保持の観点から結界を張っておいただけでして、断じて監禁ではございません。今回の話も強制ではなく、断っていただく事も勿論可能です。そうですね、ともかく一旦休憩にいたしましょう」


 さすがに、真っ昼間の市役所で身の危険までは感じていなかったのだが……何にせよ、一旦情報を咀嚼させてもらえるのは有り難い。


 等しく間抜けな顔を晒す三人は互いに頷き合ったあと、サラさんにも向けてブンブンと首を縦に振った。

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