かつて少女だった私たちへ

軒下ツバメ

かつて少女だった私たちへ

 しょう‐じょ【少女】

 ①年若い女の子。七歳前後から十八歳前後までの、成年に達しない女子をさす。おとめ。「多感な―時代」「文学―」

 ②律令制で、十七歳以上、二十歳(のち二十一歳)以下の女子の称。


 辞書を信じるのであれば、私はもう少女じゃない。



 一日に何度も、「申し訳ございません」「すみません」と謝る。何度も。何度も。

 それだけを何度も繰り返す。

 働くことに夢をいだいていたわけではなかった。けれど少しくらいは、期待していた。しかしいだいていた輝きは、研修中担当してくれた先輩に「うちの部署は謝るのが仕事だから」と言われた日から消え失せた。

 言葉の意味はすぐに分かった。

 私が配属されたのは、クレームを主に担当する部署だった。

 働きだして、もう四年目。

 何千回と、同じ言葉を繰り返した。「申し訳ございません」も「すみません」も、私のなかで記号のようになってしまっている。

 自分が原因じゃなくても、人から強い言葉を向けられ続ければストレスは積み重なっていく。

 謝り続ける毎日は、緩やかに心を蝕んでいった。

 それでも「簡単に仕事を辞めるなんて、軟弱だ。ゆとりはこれだから」と。

 働き始めの頃、私の一年先輩が辞めたときに上司が口にしていた言葉を聞いて以来、仕事を辞めたいと言い出せない。

 その発言を聞いたのが、一度や二度のことではないから、尚更に。

 「三年は働きなさい」よく聞く安易な言葉を信じて、三年我慢をしよう。そう思い働いてきた。

 だけど四年目に入った、今。寿退社以外では、沢村遙香が辞めるはずない。そういう空気になってしまっている。

 誇らしげに言われる「彼女を見習え」という上司の言葉。それがどれほど私の重荷になっているのか、当の上司は知るはずもない。

 いつになれば、私はここから逃げ出せるのだろう。

 クレーム処理と平衡して、年々増える仕事量。転職先を探す時間すらない。

 起きて出社して日付が変わる手前に帰宅して、寝る。

 それだけで手いっぱいの毎日。

 どうしてこうなってしまったのだろう。

 どうして、私は、少女の頃に命を絶ってしまわなかったんだろう。


 「女子会」「オトナ女子」女子ではないと言われる年齢になっても、女子という言葉は使えてしまう。

 だけど決して、私たちはもう少女の頃には戻れない。

 制服を脱いだその瞬間から、私たちは少女ではなくなってしまう。

 私はそれが嫌で嫌でたまらなかった。

 少女でいられる今のまま消えてしまいたかった。

 大人になんてなりたくなかった。

 綺麗なまま消えてなくなりたかった。

 祈る様に願ったそれは、叶うことなく。今日も私は息苦しい日常を生きている。


 少女というのは、特別だ。

 辞書の記載を見る限りでは、二十一歳までは少女と言えなくもないそうだが、それは違う。

 十八まで。十八までだ。

 少女と名乗っていいのは十八までだ。

 学校という箱庭の中で、箱庭の中の苦しみで生きていたあの頃。

 清らかではない、生身のどろどろした生き物でありながら、特別な美しさも兼ね備えていたあの頃。

 少女である特別さ。それは、かつて少女であった皆がきっと知っている。

 どんな個性を持っていても。皆等しく、私たちは少女だった。

 ある日突然に、同じ瞬間にその資格を失ってしまうまで。


 私たちは、少女だった。




 両親を見ていたら、年を重ねるのが幸せだと思えなかった。

 中学生になる時期に始まって、それから年々ひどくなっていった夫婦喧嘩。

 離婚しないのは、娘のため娘のためと、繰り返された言葉。

 私のためなんかじゃない、田舎の狭い世界で生き辛くなるからだろうに。

 誰かが離婚すれば、驚くほどのはやさで近隣に知れ渡る。それくらいの田舎で私は育った。

 休日は地獄だった。

 口喧嘩をしなくても、ぴりぴりした空気感。

 いつ破裂するのかビクビクして過ごす時間。家にいるのが苦痛で理由をつくっては外に逃げた。

 その姿だっておばさんたちの話の肴にされていたのを私は知っていた。

 私は、地元が大嫌いだった。

 地元という言葉も嫌いだ。離れてしまいたい、消してしまいたいのに、出身、育った場所、というのは死ぬまでつきまとう。

 そこで出来あがった関係があるから、完全に切り離すことも出来ない。

 学校という箱と、その一回り大きい、地域という箱。

 私の十八年間はそこで完結していた。

 狭い世界は幸せだろうか。そういう人だっているだろうけど、私は耐えられなかった。

 すれ違う名前も知らない人が、私を知っている。その近さが耐えられなかった。ここにいる大人の誰もが濁って見えた。

 あんなものにはなりたくない。

 だけど少女のままに死ねなかった。だから、なりたくない存在にならないために大嫌いな田舎を抜け出した。

 必死だった。

 都会に逃げてからは、人に無関心な関係性が楽でやっと私は安息を手に入れたのだと思った。

 深く呼吸が出来た。

 隣に住む人の顔すら知らない、私の何も知らない。それにどれだけ安心したか、あの人たちにはきっと分からないだろう。

 学校の箱の中ならまだ良かった。少し息苦しくも守ってくれる箱、それを奪われて。広くても息も出来ないあの場所から逃げ出せたのが、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。




 これ、ストーカーってやつなんじゃないか。

 数ヶ月前から。否定しても、否定しても、そうとしか思えない出来事が始まった。

 決定的なことがあったわけじゃない。

 ただ視線を感じる。ただ妙に距離が近い。ただ書類を渡すときに手が毎回触れる。妙に休憩の時間が重なる。妙に退勤のタイミングが同じになる。

 それらが始まりだった。

 どうせだから、駅まで一緒に帰らないかと言われる。それが気づけば、帰宅をともにするのが当然のように振る舞われ始める。

 友人と遊びに行くと話せば、相手は男かと問われる。

 付き合っているかのような振る舞いを、時折される。

 飲み会の時に、当たり前のように隣にくるように言われる。

 勘違いだったら、それならいい。馬鹿にされてもいいから確認しておきたい。

 ……違和感がどうしても拭えなかった。

「私たち、ただの同僚ですよね?」

 怖々と私がそれを告げた瞬間、彼の雰囲気が途端に変わった。

「何を言ってるの? ……ああ、会社では隠しておきたいってやつ? でも今更じゃないかな? 部長とか、皆、俺たちは付き合ってるって気づいてるよ」

 皆って、誰だろう。私以外の皆だろうか。

 私は彼とデートをしたこともない。連絡先すら知らない。なのに、この人は一体何を言っているのだろう。 

「まさか、付き合ってるって思ってなかった。なんて、言わないよね。毎日一緒に帰ってるでしょ」

 理解が、出来ない。

 たまたま時間が重なって方向が同じだったから一緒に帰っているだけだ。それがどうして付き合ってることになるんだろう。

「仕事忙しくて、まだデートは出来てないけどさ。来月になればお互い時間も出来るだろう。そうだ、この前二人で住む家を下見してきたんだよ」

 彼の思考が理解出来ない。

 気持ち悪い。

 気持ち悪い。

 気持ち悪い。


 上司に、彼が勘違いをしていると伝えた。自分ではどうにか出来そうにない。助けてほしいと。

 すると、「彼女が恥ずかしがってるだけ。真に受けないでほしい」彼からそう言われたと、告げられた。

 付き合ってるとそういうこともあるよなってしたり顔で思い出話を聞かされた。

 私の言葉を信じてくれる人が、いなかった。

 仕事ぶりを信頼されて近いうちに出世すると噂される彼相手だったから、余計にそれは増長されていた。

 上司以外にも相談した。でも返事は、素直になりなよ。そればかりだった。

 一度彼から呼び出された。不機嫌そうに「いい加減、逃げるの止めようよ」と私の手首を掴んだ。

 伝わるてのひらのじめっとした感触、鳥肌がたち思わず手を振り払って叫んだ。

「気持ち悪い! 触らないで!」

 それからは針のむしろだ。噂を流され、どんどん居場所を失った。

 よく働けるなと陰で言われる日々。

 内臓が圧迫されるような時間を過ごした。それでも我慢した。

 我慢した。が、ぷつりと切れた。

 逃げ場がどこにもなくなってしまった私は、行方をくらますように仕事を辞め。家も引き払い。大嫌いだった地元に、逃げた。


 仕事を辞め、地元に戻った私を母は歓迎してくれた。父は家にいなかった。

 離婚はしていないらしいが、別居するようになったのはここ最近の話ではないのだろう。父の荷物がほとんど無かった。

 ああ、やっぱり離婚しなかったのは私のためなんかじゃなかった。

 都会で就職したのに、辞めてまで地元に帰って親のそばにいることを選んだ孝行娘。

 近所の人にそんな風にうまく話していた母を見た。世間体的に問題がなかったから、母は私を歓迎してくれたのだろう。

 ここを逃げ出した日から、八年。

 八年も帰っていなかったのに、私はまた戻ってきてしまった。

 駅に着き最初に見た光景は、幸せそうに子どもの手を引きながら歩く同級生の姿だった。

 笑いあいながら何か話す親子。幸せな光景だった。誰が見てもそう思う光景だった。

 私はそうは思えないけれど。

 親になってもおかしくない年齢に自分がなっていたのを、痛感する。

 子を宿す。ということ。

 それが私には理解が出来なかった。自分の胎内に、命が存在してしまえる。それに嫌悪感を覚えることすらあった。

 彼女も、彼女も、彼女も。母に、なるのだろうか。

 母になれてしまうのだろうか。私も。

 分からない。どうしても。


「遙香? ねえ遙香じゃない?」

 明るい声で話しかけられたのは、家にいたくなくて、外をうろついていた時のことだ。

「遙香、久しぶり。本当に久しぶりじゃない? 高校の卒業式以来だよね」

「……実咲。久しぶり。地元に残ったんだっけ」

 声をかけてきたのは、高校の同級生だった実咲。彼女は確か地元の短大に進学したはずだ。

「そう、就職もこっちでしたんだ。そろそろ辞めちゃうけどね」

 からからと笑いながら、左手をすいっと持ちあげてきらきら輝くそれを見せてくれる。

「……寿退社、か。誰と? 私の知ってる人?」

 無理に高い声で話している自覚があった。だけどそうでもしないと心を隠せない。

「ふふふ。知ってる人。よーく知ってる人。私が高二の時に付き合ってた相手。覚えてるよね」

 ――実咲は少女であった頃、恋に生きた子だった。高二の頃でも相手は数人いる。

「あれ、忘れちゃった? 遙香がキューピットだったのに」

「私が? え、まさか祐樹と?」

「そう! 祐樹と。私もまさか自分が祐樹と結婚するなんて思わなかったよ」

 祐樹は、当時私が付き合っていた彼氏の友達で、グループで行動するようになって実咲と知り合った。

 当時は実咲が祐樹に一目惚れをして付き合うようになったが、半年も持たずに別れたはずだった。

「実はさ、就職してからなんだけど。共通の知り合いがいて、偶然飲み会で会ったんだ」

 あの頃は分からなかったんだけど、良い男だったんだよ。そう笑う彼女は美しかった。

「そうだ、来週ね、皆とランチするんだ。遙香もきてよ」

 時間と場所を伝えると、彼女は、またね。と言って去っていった。

 どうしよう。就職をして、結婚をして、親になっている彼女たちに、私はどんな顔で会えばいいのだ。

 地元が、嫌いだった。でも友人は嫌いではなかった。

 一度も帰らなかった私は、彼女たちにどう思われているのだろう。

 彼女たちだって昔は田舎を馬鹿にし、都会に憧れ、落ち着くことを恰好悪いと言っていた。

 だけど今はきっと違う。

 結婚をし、親になり、守るべき対象が出来た彼女たち。

 あやふやなものよりも、目に見える大事なものを大切にするようになっているだろう彼女たち。

 彼女たちの目に、私はどんな風に映るのだろう。

 最後に会ったのは、高校の卒業式だ。もう少女でなくなった彼女たちに、私は初めて会う。

 ……実咲。つけまつ毛を、してなかったな。

 あんなにも、毎日そればかり気にしていたのに。


 少女だったあの頃、私たちは狭い箱庭の中で、それでも息をしようと精一杯だった。

 同じになることが嫌で。同一視されるのを毛嫌いしていた。少しでも隣の、前の、後ろの、誰かと違う存在になりたいと思っていた。

 だがそれと同じくらい、違いに恐怖を感じていた。

 似た所のある友達とつるみ、お揃いのストラップを持ち、似たタイプの彼氏をつくった。

 その愚かさが今でも愛しい。


 実咲に教えられた日までぐるぐると悩んだが、私に欠席するという選択肢はなかった。

 どうせ帰ってきていることは、もう知られてしまっている。

 化粧をして、持ってきた中で一番お気に入りの服に着替える。

 胃が、重い。

 久しぶりの感覚だ。昔は親が喧嘩を始めるたびになっていたのに。

 伝えられた時間から五分後、もう人が集まっているだろう時間に店に到着した。扉に手をかけたまま、息を整える。

 さあ、私は何に出会うだろう。

「遙香! 久しぶり!」

 お手洗いか何かで、席を外していたのだろう。入口の近くに真衣がいた。私たちの仲をいつもまとめてくれていた子だ。

 ――真衣はショートカットのよく似合う、部活少女だった。

 髪が、長い。綺麗に整えられている。

「久しぶり真衣。ちょっと遅くなっちゃたけど大丈夫?」

「大丈夫! 実咲から聞いて、皆楽しみに待ってたんだから。まあ、皆って言っても、いるのは私と実咲と比沙子の三人だけどね」

 こっち。と真衣に連れられ皆のもとに向かう。

 比沙子。比沙子も、いるんだ。

 ――比沙子は私が憧れた少女だった。彼女だけは、あの日のまま今も止まっているんじゃないか。そう思うくらい彼女は完璧だった。

 美しい、子だった。アイドルにでも、モデルにでも、女優にでも、彼女ならきっとなれた。

 だけど彼女は、ここに残った。

「遙香久しぶり。元気だった?」

 穏やかな笑みを浮かべて私を迎え入れてくれた比沙子の隣から、声が聞こえた。

 目を丸くして言葉を失った私を見て、彼女は笑みを深くさせる。

「ああ。去年ね。唯香っていうの」

 まだ言語になっていない高い声が聞こえる。小さな小さな手がパタパタと動いていた。

「久しぶり……。比沙子、そう、だったんだ。……実咲、会った時に何も言ってなかったから」

「驚かせたかったの。それにここで色々話したかったんだもん」

「そう! 話すことも話たいこともたくさんあるでしょ! 何年ぶりだと思ってるの?」

 比沙子が、母になっていた。実咲でもなく、真衣でもなく、比沙子が。

「そうだ聞いてよ! 真衣ったら、前の彼氏と別れてから二年もたってるのに、恋愛はまだいいっていうんだよ」

「ちょっと、最初に話すのがそれ?」

「実咲。まずは遙香の話でしょ。ねえ遙香。何か私たちに聞きたいことある?」

 ……懐かしい。

 いつも、こうだった。四人でいると。

 実咲が切欠で、真衣と実咲が話を盛りあげて、比沙子がまとめて、私はそれを聞いて、笑って、話に混ざって。毎日、話してた。

 好きだった。皆といるのが。

 好きだった。息が自然に出来た。

 好きだった。離れるのが耐えられないほどに。

 好きだった。けど、箱がなくなってしまったら、一緒にいてもらえないと思った。

 好きだった。から、会いたくなかった。

 少女ですらなくなった自分を見せたくなかった。

 夫婦喧嘩をしながらも、体面のために離婚しない両親。ここが嫌いだと思いながらも、特別なものを何も持たない自分。何もやりたいものを持てない自分。人を愛せない自分。謝ってばかりだった仕事。

 年々自分が、劣化しているのを感じてしまう。軽やかだった頃と全然違う身体の重さ。

 化粧をせずに、外に出られなくなってしまったのは、いつからだったんだろう。

 こんな自分、見られたくなかった。

 顔が歪んでいくのが分かる。見られたくなくてどんどん俯いてしまう。

「遙香。ねえ遙香。寂しかったんだから、私たち。連絡、だんだん返してくれなくなったでしょう? 寂しかったんだから」

 比沙子の声が、昔よりも柔らかく届く。

 心がきゅうっとなった。

 どうして、そんな私と会ってくれるの。と消え入りそうな声が口からこぼれる。

「え、何いってるの。それくらいで無くなるような友情じゃないでしょ」

「家族のことも知ってたしね。遙香のパパとママ、周りにばれてないと思ってたらしいけど、あんな大声で喧嘩して、どうしてばれてないと思うんだか」

「帰ってきたくないって知ってたけど、連絡くらいしてって思ってたよ。遙香の方が私たちのこと、もういらないんじゃないかって。……悲しかったよ」

 ごめん、ね。ごめんね。ごめんねと。謝ることしか、出来ない。

 感情の蛇口が破裂してしまったように溢れて、言葉が何も出てこない。

 仕事ではもっと上手に謝っていたのに。大事な時には、上手く出来ない。

「遙香。私たちは、大人になっても変わらないよ。確かに、高校の時みたいにとはいかないけど。でも変わらないよ」

 就職しても、結婚しても、お母さんになっても。

「もう、いつまで泣いてるの。遙香に聞きたいこと沢山あるんだからね」

 うん。うん。話したい。本当は会いたかったこと。だけど会いに行けなかったこと。だから連絡も取れなくなっていったこと。

 私だって寂しかったってこと。

 少女でなくなってしまった自分では、そばにいてもらえないと、思っていたこと。


 泣きやんでから仕事を辞めた理由を話したら、皆自分のことのように怒ってくれた。

 ふざけんなって。許せないって。辞めて正解だって。

 昔、少女だった頃と同じように。


 かつて少女だった私たちへ。

 自分を消してしまいたくもなるけれど。

 失われても、世界は終わりません。

 私もまだ、生きています。

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