不機嫌な錬金術師

橘 紀里

厄介な客

 そのお客が店に入ってきた時、ルネは何やら嫌な予感がした。髭が顔中を覆い、顔と同じくむさ苦しい格好をしたその男は、殴りつけるように店の扉を開いて飛び込んでくると、止める間もなくカウンターの向こうに座っていた彼の師匠の襟首を締め上げた。

「どうしてくれるんだ!」

「ちょ、ちょっと……!」

「ルネ」

 声を上げた彼に、けれど師匠が静かな声で彼の名を呼び、ゆっくりと首を横に振った。それは口を出すな、というサインで、師匠の透き通る蛍石のような瞳も——不機嫌そうながらも——穏やかだったから、彼は渋々口を閉じて一歩下がる。


「それで、どういったご用件で?」


 師匠の表情は静かだが、声音から不機嫌がこぼれ落ちている。だが、相手の男はそれを怯えと取ったのか、居丈高にさらに師匠の首を締め上げようとした。師匠はその手を、ぐっと掴むと下ろさせる。男が少し驚いたように目を見開いたが、すぐにもう一度、その顔に怒りを滲ませて口を開く。


「お前にこの間作らせた『賢者の石』、全然役に立たねえじゃねえか! 黄金きんになるどころか、錆びちまったぞ!」

「……誰が『賢者の石』だなどと。あんなのはただの手品用の合金石だ。あんたが勝手に持っていったんだろう。しかも代金も払わずに」

 そういえば、先週そんな客がいたと師匠がぼやいていた気がする。ということは、もはや客というよりは、ただの盗人だ。

「そういうことだな」

 ルネの心を読んだかのように、ふと師匠が不穏な笑みを浮かべる。だいたい普段は無表情なこの人が、そういう表情をするときは、概ねときだとルネはよく知っている。だから、さらに一歩下がって棚の影に隠れた。

 師匠の手元はよく見えなかったけれど、何かを混ぜるのが見えて、カッと目も眩むような閃光がそこから放たれた。

「な……ッ、なんだ……⁉︎」

 とっさに目を覆ったルネは難を逃れたが、男はまともに食らったらしい。両目を押さえて床に蹲って呻いている。

 師匠はそんな男を冷たく見下ろしながらカウンターから出てくると、襟首をつかんで、勢いよく扉の外へと放り出した。そのあと何やら物騒な音が響いていたけれど、ルネは聞こえないふりをした。


 すでに日が傾いたこの時刻の店の中は薄暗い。ルネがカウンターの上の蝋燭に火を灯していると、師匠が戻ってきて少しだけ柔らかい微笑を浮かべる。


「ありがとう。ちょうどそろそろ点けようと思っていたんだ」


 そうして微笑んだ師匠の瞳は蛍石が光るようにとても綺麗な色になる。それを知っているのはごく一部の人間だけだったけれど。

 顎と頬を覆う髭がややむさ苦しいが、全体としては端正な顔立ち。彼の素顔を知る女性からは意外と好意を寄せられているのだが、本人は気づいていないのか単純に興味がないのか、今のところ誰かに心を寄せる様子はないようだった。

「あ、でも一人だけいるか……」

 ぼそりとルネが呟いた時、カランと入り口の鐘が鳴った。


「錬金術師ー! いるー?」


 底抜けに明るい声と共に、店の中が、まるで鮮やかな向日葵が咲いたみたいにぱあっと明るくなる。対照的に、師匠が苦虫を百匹くらい噛み潰したような顔になる。

「……俺は薬師くすしだし、名はシルヴァンだと何度言ったら覚えるんだ?」

「え、兼業錬金術師なの? せっかくいい腕してるのに勿体無いよ。ちゃんと看板出したら?」

「お前、人の話を聞いているのか?」

「え、ごめん。話って何? そういえば昨日ノエルの店で焼き菓子を買ったんだけど、これがすごく不味まずくてさ。お土産に持ってきたから一緒に食べよ?」


 そう言って小さなカゴを差し出すその人の髪は、カウンターの上の仄かな蝋燭の明かりにさえ、きらきらと輝く緩く波打つ濃い黄金色。その髪の色に負けないほどに、鮮やかに深い瑠璃色の瞳。顔全体の造作はそれこそ黙っていれば、神の手になったかというほどの繊細な美貌なのに、次々繰り出される言葉が残念すぎて、全部が台無しと評判だ。


「オーレリア、人の話を……」

「やだ、レリィって呼んでっていっつも言ってるじゃない。まだ若いのに、ちょっと耄碌しちゃった?」

 一瞬、完全な沈黙が降りる。それから、それ以上、話しても無駄だと再認識したらしい。師匠はカウンターの向こう側の椅子に腰掛けて羽ペンを握ると、オーレリアに尋ねた。

「今日は何の用なんだ?」

「え、だからこの不味い焼き菓子を——」

「オーレリア」

「あ、そうだった。こないだ作ってもらった魔法薬、もうなくなっちゃったからおかわりちょうだい?」

 その言葉に、師匠が怪訝そうな表情を浮かべる。魔法薬というのは、多分、前回オーレリアが来た時に渡していた、植物の成長を促進する薬のことだろうか。数種の薬草と、錬金術で作り出した緑命の合金をほんの少し混ぜて作られたもの。ほんの数滴で荒れ地が緑野に変わるほどの効果があるはずのものなのだが。


「あれが、もう、ない?」


 一語一語、区切ってそう言った師匠に、オーレリアは黄金色の髪を揺らして優雅に、事も無げに頷く。

「うん。北の闇森やみもりで撒いてみたら、のろたちがあっという間に綺麗な樫の木に戻ってねえ。いやー、本当に君の腕前は大したもんだよ」

「ちょっと待て」

「え、何?」

「闇の森で、あの薬を撒いた?」

「そう言ったじゃない」

「……何でそんなことを?」

「ちょっと試しに?」


 しれっと言うその美貌に、師匠は羽ペンを持ったままの手で額を押さえた。こめかみがひくひくと引き攣っている。その理由はルネにさえも明らかだったが、当の本人は不思議そうに首を傾げている。


「何かまずかった?」

「あそこは闇の精霊の領域だ。そこを侵せば、下手をすればこんな街など吹き飛ぶぞ!」

「あ、それなら大丈夫。ちゃんと交渉したから。その代わり——」

「その代わり?」

「林檎と檸檬のパイを焼いてきてって」

「……そんな出鱈目な話を俺が信じるとでも?」

「失敬な言い草だなあ。あなたが困っているって言うから、頑張って交渉してきたのに」

 両手を広げて、天を仰ぐように言った彼女に、ルネも師匠も首を傾げる。

「北の街道を抜けるのに、あの森があるせいで回り道しないといけないって言ってたでしょう? そのせいで、街を空ける時間が長くなるって」

 だから、とオーレリアは輝かしい笑顔で続ける。

「森の真ん中にこれで道を開けてもらう約束をしたの」

「……脅した、の間違いじゃないのか?」

「それは秘密」

 にっこり笑った顔は無害に見えるけれど、ルネはなぜかひんやりと背筋が冷える気がした。師匠はそんな彼女の顔を、表情を改めてじっと見つめる。それから少し重々しい口調で尋ねた。

「本当に危険はないのか?」

「言ったでしょ。ちゃんと交渉してきたって。私は嘘はつかないよ」

「隠し事はするだろう」

「必要ならね」

 悪びれずにそう答えた彼女に、師匠はただ深くため息をついて、薬棚へと向き直る。


 セージ、フェンネル、それから燐石に、森の朝露。いくつもの材料を、使い込まれた金の天秤で正確に慎重に分量を計って混ぜていく。それから命の欠片の合金を溶かして流し込む。とろりとした緑の液体を、変質を防ぐ虹色の小瓶に詰めたら出来上がりだ。


「……用法用量、それから合意した範囲は守れよ」

「わかってるって。じゃあこのお菓子置いておくから、後で食べてね」

「……食べていかないのか?」

「え、だって不味いし」

 そう言って、オーレリアは師匠から小瓶を受け取ると、羽根でも生えているかのように軽やかな足取りで店を出ていった。急に暗くなったように感じる店の中で、師匠がため息を一つつく。

「何なんだ、あいつは」

 頭痛でもするかのように頭を抱えているけれど、こっそりルネは小さく笑みを浮かべる。だって、オーレリアが闇の森の精霊なんて、それなりに彼女にとっても厄介な相手と交渉してきた理由は一つしかないのだ。

「何だ、ルネ?」

「いいえ、そろそろ店じまいにして、晩ごはんにしましょうか」


 師匠はまだ怪訝な顔をしていたけれど、頷いて扉にかかった看板をひっくり返して鍵をかける。

 明日からの仕入れは短く済むようになるだろう。何しろ闇森を迂回するには三日はかかる。真っ直ぐに抜けられるようになれば、日帰りだって可能なはずだ。


 つまりは、師匠を街に留めておいて、いつでも会いにきたいと、そんな単純な理由なのだろうけれど、きっと知らぬは本人ばかりなり、なのだった。

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