第51話 閉ざされた世界

 れんと二人になったリビングに沈黙が降りる。

 恋に言われて、咲嘉さくかさんに連絡した。

 咲嘉さんはすぐに来た。鍵を開けた俺と目を合わせた咲嘉さんは、何も言わずにっこり笑った。玄関を上がってホールを歩きながら咲嘉さんが言う。

「お邪魔しまーす。翔太君の遺体は?」

「まだ地下です」

 咲嘉さんに遅れてリビングに入る。恋が軽く礼をした。

「恋ちゃん、こんばんは。一緒に翔太君を運ぼっか」

「はい」

 歩みを止めることなく、恋と一緒に地下室に行こうとする咲嘉さんを引き止める。

「俺がやります」

 真顔の咲嘉さんに両肩を掴まれ、ソファの前まで連れていかれる。なんだろう。新しい叱り方だろうか。

 一気に視界が動き、いつの間にか天井を見上げていた。

 俺は咲嘉さんに、ソファに押し倒されていた。咲嘉さんの両手が俺の肩から離れ、背中に回る。耳元で、咲嘉さんの優しい声が囁く。

「りーちゃんは子どもなんだから、無理しなくていーの」

 大人気ないなんていつもは俺に言うのに、こういう時は子ども扱いするのか。

「……俺は、子どもじゃないんじゃ、ありませんでしたか?」

「辛いことに、大人も子どももないでしょ。そんな顔をしている人に、これ以上仕事はさせられませーん」

 俺が、一体どんな顔をしているというんだ。目が熱くて、出そうになるものを堪えている自覚はあるけれど。

「わかったら、今日はもう休みなさい。難しいことは明日考えればいいんだから」

 咲嘉さんの温かい手が離れる。

 俺と顔を合わせた咲嘉さんは、いつもよりも大人に見えた。

 咲嘉さんと恋が地下に降りて、翔太の遺体を持ってくる。翔太の閉じられた目は何も語りかけてこない。

「それじゃ、りーちゃん。私はこのまま失礼するけど、二人っきりだからって、恋ちゃんに変なことしないでね」

「何もしませんよ」

 咲嘉さんが翔太の遺体を引き取って行った。


 咲嘉さんと外に出た恋が戻って来る。

「今、お茶を淹れますね」

「ああ」

 真夏だというのに、恋は温かいお茶を淹れている。

 無言でテーブルの上に置かれたお茶からは、湯気が立っていない。持った湯呑は少し温かかった。

 俺がやってきたことを、恋は否定せずにいてくれた。恋の優しさを両手で包み込む。

「……恋、……ありがとな」

「はい」

 恋は、変わらない笑顔でいつも俺のそばにいてくれた。本当に、こいつにはたくさん助けられてきた。

 ありふれた言葉だけじゃなくて、今度お礼をしないとな。


 恋が帰宅し、ひとりになると、地下の屍蝋部屋に足を向ける。

 ここは閉ざされた世界だ。この部屋には時の流れがない。変わり映えすることのない屍蝋がいる、時を刻まない世界だ。

 そこに、乃亜を閉じ込めた。もう決してどこにも行かないように、屍蝋という鎖で閉じ込めてた。そこには乃亜の意思などなく、俺の独りよがりな好意があるだけだった。

 生きている人間は、当たり前に変化していく。髪や爪が伸びたり、身長が伸びたり体重が増えたり減ったり、日に日に成長していく。遺体は、成長する時間を永遠に奪われた存在だ。屍蝋は、生きている人間と同じ時間を刻まない。

 世界が歪む。

 乃亜の閉じられた目は俺を見ていない。屍蝋になってから、乃亜が俺を見たことなど一度もなかった。

 それを毎日感じていたのに、ずっと以前から気付いていたことなのに、今、ようやくわかった。

 もうずっと前から。

 乃亜は、死んでしまっていたんだ。

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