第50話 屍蝋葬

「……もう、いいです」

 砂河すながわさんが微笑みながら、何かの断りを入れてきた。

「翔太を屍蝋にしなくて、いいです」

 突然の申し出に、ただただ驚く。

 どうして急にそんなことを言うんだろう。翔太のことが好きではなくなったのだろうか。一緒にいなくても耐えられるのだろうか。

「……本当に、いいんですか?」

「はい。わかったんです。結局、私の心を救ってくれたのは、亡くなった翔太の体じゃない。生きている古賀先生です」

 砂河さんの言葉に、息が詰まる。

「翔太とは、ずっと一緒にいたかったです。今でもそう思っています。私も、翔太のことが大好きですから。けど、翔太を屍蝋にしてそばに置いておいたら、私はきっと翔太しか見えなくなってしまうと思うんです」

 砂河さんの言葉の一つ一つが、乃亜と同じ顔で吐き出される言葉の一つ一つが、心に刺さっていく。

「私と翔太はもう同じ時間を生きられない」

 それ以上、言わないでくれ。

「翔太は、亡くなったんです。生前のままの姿で屍蝋にしようと、それはもう翔太じゃなくて、ただの屍蝋です」

 もうやめてくれ。乃亜と同じ顔で、そんなこと、言わないでくれ。

「私は生きています。亡くなってしまった翔太ではなく、同じく今生きている自分の周りの人を大切にしていきたい。生きている人間は、そうやって生きていくべきだと思うんです」

 耳を塞ごうとする手を、力づくで膝の上に留める。耳の代わりに、目を閉じた。

 屍蝋ではなく、生きている人間を愛するべきだ。

 そう、乃亜に言われた気がした。

 わかっていたんだ。俺は、乃亜とはずっと一緒にはいられない、なんてこと。そんなこと本当は、乃亜が亡くなった日から、わかっていたんだ。


 砂河さんを見送るために、一緒に玄関を出る。

 外は薄暗い。夏特有の少し湿り気を帯びた空気が肌に触れる。どこからか、煙のにおいがする。向かいの家の住人は毎年夏になると、昔ながらの蚊取り線香を焚いている。俺もこのにおいは嗅ぎなれてしまった。

 庭にある枸杞くこの木に、一羽のカラスが留まっていた。俺が見ると、カラスが飛び立つ。枸杞の枝が大きく揺れる。薄紫色の花弁が一枚、はらりと地面に落ちた。

 砂河すながわ茉莉まつりは、帰り際にこんなことを言った。

「一度依頼した私が、言える立場じゃないと思うけど」

 そう断りを入れて、真っ直ぐに俺を見る。

「亡くなった人を屍蝋にするのは、生きている人間の勝手な自己満足だと思うんです」

 そうだ。たしかに、自己満足だ。遺体は自分の思いを伝えられないから、生きている人間の行動に従うしかない。

「亡くなった人のことを本当に想うなら、正式な手段で葬ってあげるのが、死者に対する礼儀なんじゃないですか……?」

 そんなこと、わかってる。わかってるけど、じゃあ、この思いはどうすればいいんだ。寂しく悲しいこの気持ちは、どこに向ければいいんだ。

 砂河さんが言っていることは正しい。間違ったことが嫌いな乃亜も、生きていたら同じことを言うだろう。だから、俺には、何も言えない。

 真っ直ぐに正論を投げつけられて、下を向くだけの俺は、対話のための言葉を持たない空っぽの人形のようだ。

 その人形の背に、一点の温もりが燈る。

「それでも、生きている人間は感情を持っています」

 背後からのれんの澄んだ声が、詰めていた息を吐き出させてくれた。

 振り返ると、いつもの恋の穏やかな笑みがある。

「大切な人が亡くなって、寂しくて、悲しくて、どうしようもない気持ちになるのは、生きている側です。辛くて苦しくてどうしても堪えられない、そんな人達のために、屍蝋葬しろうそうはあるんです」

 恋が、俺が言えないでいた感情論を話している。

「葬儀というものはもともと、亡くなった人間よりも、生きている人間の心を軽くするためのものなんだと、私は思います」

 砂河さんは、恋の言葉に反論しようとはしなかった。最後にもう一度、俺に礼を言って玄関を出て行った。

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