3章
第36話 新しい美術の先生
八月の温い風が、全校集会中の体育館を抜ける。
美術の担当教諭・菊池先生が産休に入り、臨時の教師が今日から来ることになっている。
そいつは紹介されている最中、ずっと俺と目が合っていた。
よほど緊張していたんだろう。ほとんど聞き取れない蚊の鳴くような声で多分、よろしくお願いします、とだけ挨拶をして、新しい美術の先生はすぐに壇上を降りて行った。
昼休みに校庭で遊ぶ生徒を廊下の窓から眺めていると、
「新しい美術の先生、優しそうな美人だな。名前もかわいいしー、彼氏いんのかな……」
「知らなかった……お前、男もいける口だったのか……」
わざとらしく軽蔑したフリをすると、草加が目を丸くする。
「なんで? オレ、好きな男の話なんてしたことねーだろ?」
「好きな男がいるのか?」
「そーだなぁ……
たまには草加の悪ふざけに乗ってやるか。
「親友だと思ってたのに……お前がそんな風に思ってたなんて」
草加が俺の手を取る。
「口ではそんなことを言いながら、本当は期待してたんじゃないのか?」
「放せよ……」
「古賀先生から離れなさい!」
優しそうで美人な新しい美術の先生が、俺と草加の仲を引き裂いた。
草加がきょとんとした顔をしている。
「
草加が混乱している。何にか、はなんとなくわかる。女だと錯覚していた先生の声が明らかに男で、俺を先生なんて呼んだからだ。
「草加、真野先生、男だぞ」
「えっ、マジ……? ってか、理一、古賀先生って?」
話は草加より先に真野さんをなんとかしてからだな。
「真野先生、ただの遊びです。嫌がらせとかいじめではありません」
単なる生徒を装いながら、真野さんの足を踏む。
「いてっ」
「真野先生、ちょっといいですか」
有無を言わさず、廊下の端に真野さんを引っ張っていく。
草加からの距離は十分にとった。あとは小声で済ませば解決だ。
「……何のつもりですか?」
「な、何がですか?」
「どうして真野さんが俺たちの学校に?」
「ほっ、本当にたまたまです……! 古賀先生がいる学校だから来たとかそういうのじゃないんです! いえ、学校は毎朝恋ちゃんを送るからここだって知ってはいたんですが、今回のこれは本当に偶然で」
「しっ……! 声量を落としてください……!」
「……は、はい」
真野さんは変態で変人でも、嘘がつけるような人間じゃないことは、まあ、俺も知っている。絵描きなんだから美術の教師が出来てもおかしくはない、とも思う。
「……わかりました。信じます。ただ、俺のことを先生と呼ばないように気をつけてください」
「わ、わかりました。あの、ところで、
それは俺も気になってはいた。俺の大事な患者を乱暴に扱われて頭に血が上っていたとはいえ、灯は真野さんに返さなければならない。
「駄目です」
「ええっ、そこをなんとか……! お願いします……! 灯に会わせてくださいっ」
真野さんは両手を顔の前で合わせて懇願ポーズを取る。その手を叩き落とした。
「おい、やめろ……! こんなところでそんなことするな!」
「古賀先生、お願いしますっ」
「先生言うのもやめろ」
「はっ、すみませんっ!」
そもそも俺は、真野さんが灯に会うことまで拒否してはいない。
「はぁ……会いに来るのは一向に構いません。勝手にしてください」
「助手にしてくれるんですか!」
「そんなことは一言も言ってない」
「だって、今勝手にしろって」
「助手は駄目です。恋がいれば十分だから、真野さんはいりません」
「ひどいじゃないですか! 俺はいらないだなんて!」
周囲がざわつく。
「おいこら、誤解を招くような言い方するな!」
「誤解じゃないでしょう?! 俺はいらないって言いましたよね?!」
ざわつきが大きくなる。草加が遠慮がちに近寄ってきた。
「理一……真野先生と知り合いだったのか? っていうか、アレな仲だったのか?」
「可哀想な奴を見る目で見るな。大いに誤解だから。ねえ、真野先生?」
俺は灯という、真野さんにとって最強の人質を所有している。それは真野さんもしっかり理解しているようだ。
「は、はい。古賀君とはなんにもありません」
チャイムが鳴り、草加が首を捻りながら教室に戻って行く。
「俺も真野先生って呼びますから、真野さんもきちんと古賀君と呼んでください」
「はい! わかりました!」
真野さんは機嫌よく笑顔で返事をした。
「真野さんがもう少し患者に優しく接してくださるのなら、
「……わかりました。訓練して出直します!」
真野さんは嬉しそうな笑顔で去って行った。
悪い奴ではないんだけどな。
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