第35話 灯の屍蝋が完成した。
廃墟にすんでいるのは気味が悪いが、真野さんにはたくさん恩もある。だから灯の屍蝋はより手を抜かず、全力以上の気合で作った。
真野さんの腕を引いた
「やっほやっほ、りーちゃん。
真野さんに軽く頭を下げる。
「改めまして、先日は小屋の窓を割ってしまい、本当に申し訳ありませんでした。修繕費は今日の支払いから差し引かせていただきます」
他人の小屋の窓を破壊するなんて、これまでの俺からは考えられない。
真野さんは顔の前で両手を振り回す。
「とんでもない! 古賀先生の方こそ、お怪我はもう大丈夫ですか?」
「はい。もうなんともありません」
リビングに入り、俺がすすめたソファに座った真野さんが部屋中を見回してから、俺を見る。
「あの、
「はい。どうぞ」
キッチンにいた恋が日本茶二つとコーヒー二つをテーブルに置く。
「ありがとう」
恋を見て頬を染める真野さんに、咲嘉さんの眉が動いた。
「あれ? あれあれあれ? 深月ちゃん、恋ちゃんはりーちゃんのものなんだからダメだよお」
真野さんが謂れのない非難を受けた。いや、謂れなくはないか。
真野さんがかわいそうなくらいあたふたしだす。
「えっ、いえっ、そういうんじゃ、なくて……っ」
「そういうってどーいう?」
「それはその……」
咲嘉さんにロックオンされた真野さんは哀れだけど、ここで俺が入っていったら、恋をめぐる三角関係だとかなんとか巻き込まれそうだから黙っていよう。
きょろきょろと視線をさまよわせていた真野さんが、リビングの奥の布のかたまりで止まる。
「あの、もしかして、あれが灯……」
「はい」
立ち上がった俺に真野さんと恋がついてくる。
白い布を恋と一緒にそっと取り払うと、木製の椅子に座った状態の灯が真野さんを待っていた。
灯の屍蝋を見た真野さんは、彼女の名を一度だけ呼んで、一筋の涙を流す。灯を見つめる真野さんは立ったまま、ただただ涙を流している。まるで自分が泣いていることに気がついていないみたいだ。涙を拭うこともせず、流れ落ちるままに、真野さんは泣いていた。
「……綺麗だ……」
真野さんの口から呆然とした声が発せられる。
「古賀先生……こんなに綺麗な屍蝋を、俺は見たことがありません」
真野さんの足が、一歩一歩踏みしめるように灯に近づいていく。
「灯……本当に、なんて綺麗なんだ……」
真野さんの手が灯の髪に触れる。顔を寄せた真野さんは、手にとった髪に口付けた。その動作は優しさに満ち溢れている。
「灯、綺麗にしてもらってよかったね」
化粧を施して薄紅色に染まる頬に、真野さんの唇が落とされる。
「おお……こんなことをしても避けられないなんて、すごい」
生前は避けられていたのだろうか。
真野さんは泣きながら、灯の屍蝋とスキンシップをとっている。その様子をいつまでも見ていても仕方がない。二人から目を逸した瞬間、咲嘉さんが五十音のはじめの音を声にした。
視線を戻すと、真野が灯を強く抱き締めていた。
「おい! 乱暴に触れるな! 脆いんだぞ!」
「えっ……あっ、ごめん! ごめん、灯! 痛かった?!」
灯から離れた真野は必死に謝る。怒ったり笑ったりを決してしない屍蝋に向かって、泣きながら謝っている。
「ああ……可愛い……」
確か、真野は灯とは恋人同士ではなかったと言っていた。俺には、今の真野と灯が恋人同士に見えるが……。真野は灯にべたべたと触り、うっとりしている。何か、変だ。
「おい……もうその辺にしないと、屍蝋は大事にしないと」
過剰なスキンシップを止めようとすると、真野は俺から灯を守るように抱いた。
「こんなに可愛い屍蝋に触らないなんて失礼じゃないか! 可愛すぎる! この温かくない体温! こんなにしても抵抗することすら出来ない体!」
真野が灯の胸やら太ももやらを触りまくる。
「何されてもこの無反応! いっそ何をされているのかわからないんだよ?! されるがまま! 動くことも話すことも聞くことも、考えることすら奪われた存在! 逃げることも出来ない! 逃げたいと思うことも出来ない! ああっ、可愛くてたまらない! はぁはぁ……俺の屍蝋……!」
薄々感付いていたことではあるが。真野はつまり、死体愛好家というやつだ。恋が監禁されていた小屋にはたくさんの死体の絵もあったが……こんなにはっきり確信したくなかった。
灯を抱いてにおいを嗅いだり、変態的なことを散々した真野は、静かな動作で灯から離れた。真野が俺のすぐ目の前まで来て、がしっと手を取る。
「古賀先生……貴方は、神だ……」
「は……?」
「こんなに完璧に綺麗に屍蝋を作るなんて、まさに神の御業!」
俺は普通に人間だ。なんか気持ち悪いから手、離してほしい。
「俺は……感動しました! 古賀先生のような神がこの世に存在していたなんて……俺っ……生きててよかった……!」
せっかく止まっていた涙が、真野の目から溢れる。潤みすぎた目で、真野に見つめられる。
「古賀先生! 俺を助手にしてください!」
「断る!!」
動機が不純すぎるし、なにより俺の大事な患者たちの身の危険を感じる。特に、乃亜には絶対に近づいてほしくない。
「ど、どうしてですか?! 俺、こんなに死体を愛しているのに!」
「だからだよ!」
言うが早いか、玄関まで真野を押していく。
「古賀先生! お願いします! 助手にしてください!」
「絶対に嫌だ!」
「綺麗で可愛い屍蝋を作りますから!」
「作らなくていい!」
「古賀先生!」
泣きそうな顔で懇願してくる真野を玄関の外へ追いやる。
「それ以上騒ぐと通報するからな」
「そんな……」
半べそをかいている真野に冷たい視線を送ってから、玄関のドアを閉めた。そのままホールに座り込む。
「……まさか、あそこまでヤバい奴だったとは……」
「お疲れー。いやぁ、すごかったねぇ」
肩で息をする俺を、咲嘉さんが扇子で扇いでくれる。
「見てないで助けてくださいよ……」
「だってぇ、めちゃくちゃ面白かったんだもーん」
「……咲嘉さんも、もう帰っていいですよ」
「うん、わかったー。面白いもの見せてくれてありがとねぇ」
咲嘉さんがひらひらと手を振って玄関から出て行く。
別に俺は、咲嘉さんのために疲れたわけじゃない。
おとなしいから忘れていたが、恋もまだいた。
「古賀先生、私も失礼します」
「ああ。あ、真野さん、まだいるよな……?」
「待ってくれていると思います」
真野さんの車がまだあるか、玄関を出る恋を見送りがてらちらっと外を見る。
よかった。まだいてくれた。
リビングに戻り、放置されている灯の屍蝋をそのままに、地下室に下りた。
俺の定位置である乃亜のとなりに座る。
「死体を愛してるって……とんでもない奴もいたもんだな」
乃亜は今日も変わらない。黙って俺の話を聞いてくれている。
「あんな奴を助手になんてしたら、屍蝋に何されるか知れないもんな。乃亜に万が一のことがあったら、俺、どうなるかわからないぞ……」
他人の手が乃亜に触れることを想像して身震いする。嫌だ。ものすごく嫌だ。乃亜は屍蝋だから、嫌でも文句は言えない。そんな乃亜に手出ししようとする奴を、この部屋には入れたくない。乃亜に触れていいのは俺だけなんだから。
「乃亜だって、俺以外のやつに触られるの嫌だろ?」
訊ねても、返ってくるのはただの沈黙だけだ。そのはずなのに、乃亜の口角が僅かに上がった気がした。
「だよな。灯のことも心配だから、しばらくここで預かろうか」
俺の患者を危険な目にあわせたくはない。
「助手、か。恋が死体好きじゃなくて本当によかった……」
恋の名前を出したことで、俺の中に疑問が生じる。
「そういや、恋ははじめから死体に抵抗感なかったな。それってどうなんだ? やっぱりあいつ、感性壊れてるのか?」
咲嘉さんのクソつまらないギャグであそこまで笑える恋だ。普通の人とは物事の感じ方が違うのかもしれない。
「咲嘉さんも真野も変だけど、恋も十分変なやつだよな。乃亜から見て、どうだ?」
今日も、応えのない問いを、俺は乃亜に求める。
くっきりとした白と黒の布を見つめている。
広くて寒い部屋には、パイプ椅子がところせましと並ぶ。
たくさんの花で埋められた祭壇の中央に、愛しい少女の写真が飾られている。
乃亜だ。
写真の乃亜は笑っている。
俺が最後に見た乃亜は、泣いていた。あれが乃亜の涙だったのか、雨だったかの区別はつけられない。
祭壇の前には大きな木製の棺がある。あの中に、乃亜の体が納められている。
明日の告別式を終えたら、乃亜はようやく俺のものになる。式の準備中、俺の手元から奪われていた乃亜が本来在るべき俺の元に戻ってくる。
でも、これは夢だ。
乃亜が俺の元に戻ってくることはない。
夢なんだから、生きている乃亜が出てきてくれてもいいのに。
きっと、乃亜は、この夢の世界が好きじゃないんだ。だから、俺の前に現れてはくれない。
乃亜は、ここにいるのが嫌なのか。
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