第21話 いくらでもします!

 れんがあまり空気を動かすことなく、真野さんの横に腰を下ろす。

「真野さんは、黛さんのことを忘れたくないんですね」

 真野さんがはっとして恋の顔を見る。

 恋は、泣きそうな顔の真野さんに優しく微笑んでいる。

 真野さんは落ち着きを取り戻したようだ。

「……そう、そうなんです。俺は、灯のことを忘れたくない。このまま埋葬したりして灯の姿が見えなくなってしまったら、俺はいつか灯を忘れてしまうかもしれない」

 人は忘れていく生き物だから、そうなるのは自然なことだ。過去の記憶が薄れていかなければ、変わらない悲しみをずっと引きずって生きていくことになる。

「俺は、忘れてしまうのが怖いんです……大切な人なのに、忘れたら思い出そうとすることも出来ない。思い出そうとしなきゃ思い出せなくなること自体、怖くて怖くて……一番近くにいた俺が灯を覚えていたいんです」

 俺も、乃亜が傍にいなければ、いつか忘れてしまう時が来るのだろうか。こんなに強く想っているのに、それでも忘れてしまえるものなんだろうか。

 人間の脳は忘れていく仕組みになっている。今、どんなに忘れたくないと思ったことでも、時間が経てばおそらく記憶は薄れていく。忘れたくないと強く願った思いすら、忘れてしまうのだろう。

 それはたしかに恐ろしいことだ。

「古賀先生?」

 恋の声で、物思いにふけっていたことに気づいた。

「悪い。ちょっと考え事してた」

「お願いします、古賀先生! 灯を屍蝋にしてください! 俺に灯を忘れさせないでください!」

 真野さんはテーブルに頭突きしそうな勢いで頭を下げる。

 大人に近い真野さんが、まだ高校生の俺に向かって、こんなに必死に頭を下げている。

 冷静に考えると、なんて異様な光景だろう。それを作り出すほど、真野深月という人物は真剣なのだ。他にどうしようもなくて、高校生に頭を下げることになっているのだ。

「……黛さんは、真野さんの恋人なんですか?」

「えっ、いえ……そういう関係ではなかったと思います。ただ、俺達は多分お互いにお互いが大切で、特別な存在でした」

 そう語る真野さんは、とても優しい顔をしている。恋人ではなくても、真野さんは本当に心から灯のことを想っているのだ。

 電卓に数字を打ち込む。

「……わかりました。引き受けましょう」

 ばっと音が聞こえるほど、真野さんの頭が勢いよく上がる。

「ほ、本当ですか! やってくれるんですか!」

 顔を上げた真野さんに、電卓を見せる。

「この金額でよければ」

「こんなんでいいんですか……?」

「はい。では、ここのことは他言しない、という誓約書にサインをお願いします」

「しますします! いくらでもします!」

 恋がテーブルの上に契約書を置く。契約書の右側にある誓約書をロクに読みもせず、真野さんはさらさらとサインしてしまった。こいつ、詐欺に遭いやすいんじゃないだろうか。

「それから、生年月日と住所、それに電話番号もお願いします。念のため身分証の提示も」

 真野さんの細い指が、契約書に個人情報を書いていく。

運転免許証を預かり、齟齬がないか確認する。本当に三十一歳なのか。思ったよりかなりいってた。

「職業は?」

「画家です」

「職場はあるんですか?」

「職場……は基本的には自宅のアトリエですけど、絵を置かせてもらっている画廊もあって、そっちにいることもあります」

「じゃあ、一応そこの住所と電話番号もお願いします」

 依頼人の情報が、契約書に書き揃えられる。

 真野さんが立ち上がった。

「今、外で待ってるんで、すぐにお願いします」

「えっ、外にいるんですか?」

「はい。ちょっと待っててください。連れて来ますから」

「俺も手伝います」

 真野さんと家の外に出ると、白いボディに遠慮気味な淡い色のペイントが施されたワンボックスカーが駐車してあった。中には折りたたまれたイーゼルや、様々なサイズのキャンバスが所狭しと積まれている。本当尾に画家なんだな。ぎゅうぎゅうに詰め込まれたその中に、木製の小ぶりな棺が見えた。

 リビングまで、真野さんと一緒に棺を運び終えると、早速中の様子を確認する。

 紙のように白い顔は、既に作り物めいている。下瞼に影を落とす長くカールした睫毛、ふっくらとしていてキメの細かい頬、顔の中心で小高い丘を描く鼻、薄く赤い唇、その全てが、まるで人形のような造作だ。緩いカーブをいくつか描く長い髪はまだ艶やかで、絹の糸を思わせる。はじめて、見ず知らずの他人の死体を美しいと思った。

 灯はまだ相当若く見える。俺と同じくらいかもしれない。

 俺のとなりで灯を見ている真野さんも若く見えるが、実際には十分な大人だ。

 灯も真野さんと同じくらいなのだろうか。

「……黛灯さん、と言いましたか。彼女、何歳なんですか?」

「今年、二十八になります」

「え?」

「二十八歳です」

 生前より高校生で時を止めたようなその容姿に、予想はしていても驚いた。

「随分と若いですね」

「そうなんです! でも灯の前でそれを言うと怒られるので気を付けてください」

「なるほど」

 座って茶を飲み、ひと息つく。

「それでは、完成次第連絡します」

「どれくらいかかりますか?」

「ひと月くらいの予定です」

「ひと月?! 本当にそんなに早く出来るんですか? 半年以上はかかるんじゃ……」

「順調にいけばひと月で完成します」

「……すごいですね」

 素直に感嘆の声を漏らした真野さんは、急に身を乗り出して距離を詰めてくる。

「古賀先生!」

 俺の手を取りながら立ち上がった真野さんにつられて、俺も立ち上がる。

「灯をどうか、よろしくお願いします!」

「はい。最善を尽くします」

 真野さんに手を強く握られながら、自分はまるで、難病を抱える子供を託された医師のようだ、と思った。

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