第16話 俺の精一杯

 足を止めた春湖はるこが、細く呟く。

「梨夏」

 フローリングの上に敷かれた布団の上に、梨夏はおとなしく横たわっている。開かれたままの目は真っ直ぐに天井を向く。

 春湖は、ホールは慌ただしく小走りで通過したのに、梨夏に視線を当てたまま近づかない。リビングの入口に立ち尽くしている春湖は瞬きを忘れたかのように、ただ目を見開いて停止したままだ。

 梨夏との再会が叶い、喜んでいるのだろうか。もしかすると、こんなものを期待していたのではない、と嘆いているのかもしれない。

 春湖が屍蝋を目にするのは、はじめてのはずだ。想像していたものと違う、と言われても仕方はない。

「尽力はしたんだが……もし気に入らないところがあったら言ってくれ。出来る範囲でなんとかする」

 声をかけられたことで俺の存在を思い出してくれた春湖が、今度は俺で視線を止めて、ようやく瞬きをする。春湖の平坦な表情からはなにも読み取れない。

「……梨夏、全然変わってない」

「そりゃ、そういうもんだからな」

 気に入らなかったのだろうか。

 こんなはずじゃなかった。

 そう、言われるかもしれない。だとしても、これが今の俺の精一杯だ。俺にはこんな手助けしか出来ない。こうして屍蝋にすれば大切な人を失わずに済む。それは大きな喜びのはずなんだから。

 大丈夫。春湖はきっと喜んでくれる。

 春湖が梨夏に視線を戻し、瞬きをしない目と、目を合わせている。

 俺は足元のフローリングを見つめた。

「本当に……梨夏だ……」

 俯いていた俺の耳に、春湖の震える声が触れた。

「梨夏がいる……本当に、本当に、梨夏だ……」

 バタバタと、春湖が梨夏の屍蝋に駆け寄る。梨夏の前に膝をついた春湖は、蝋と化した頬に自分の頬を重ねる。

「梨夏……よかったね、また一緒にいられるんだよ。これからも、ずっと一緒に……これまでよりももっと、一緒にいられるんだよ」

 春湖は、梨夏の顔を抱えるようにして、大事そうに抱きしめる。

 わずかに傾いた梨夏の目が、映すものを天井から壁面へと変えた。

「梨夏ぁ……寂しかったよぉ……もう、お姉ちゃんを置いていなくなったら駄目なんだからっ……梨夏はずっとお姉ちゃんと一緒にいなきゃ駄目なんだからっ」

 春湖は泣き笑いしながら、俺に構うことなく、梨夏に訴えかけている。

「もう、絶対、どこにもいかないで、梨夏」

 何度も愛しい妹の名を呼んで泣き崩れる春湖を、久連木くれこはキッチンから微笑んで見守っている。

 梨夏の白い頬に涙が落ちて、流れ落ちる。

まるで梨夏が泣いているようだ、と俺は思った。


 しばらく泣いていた春湖が、溢れる涙を両手で拭って、俺に向かって笑う。

「古賀センパイ、ありがとう」

 目の周りを赤くして満面の笑みを浮かべる春湖は、本当に嬉しそうに見える。

「提案したのは俺だけど、礼なら久連木にも言った方がいい」

「え? 恋?」

 少し離れてふたりを見ていた久連木に、春湖はきょとんとした顔を向ける。

「久連木が手伝ってくれなかったら出来なかった」

「そっか……恋も、頑張ってくれたんだね」

「春湖にはいつも助けてもらっていますから。私も春湖に何か返したかったんです」

「恋……なに言ってんの? いつも助けてもらってるのは私の方だよ」

 春湖は眉尻を下げた笑みで、久連木を真っ直ぐに見つめる。

「だから、ありがとう。いつも、ありがとう。今回も、本当にありがとう」

「どういたしまして」

 微笑み合う二人の少女に、俺の口元も自然と綻ぶ。

 よかった。

 春湖を救うことが出来て、本当によかった。


「梨夏はどうする? 家に連れて帰るか? 無理そうなら俺のところで預かるが」

 春湖は、両親に屍蝋のことを話していないと思う。俺が口止めしたからだ。葬儀を挙げ、火葬したはずの娘が屍蝋化して戻って来たら、驚くだろう。拒絶される可能性も高い。

 春湖は迷うことなく選択した。

「連れて帰りたい! 毎日梨夏と一緒にいたいもん。梨夏には私の部屋に隠れててもらうから大丈夫。パパもママも、私の部屋には入って来ないから見つかる心配もないよ」

「わかった。定期検診の時はここに連れてくることになるけど、いいか?」

「いいけど……定期検診なんて、梨夏が入院してた頃みたい」

 春湖が声を立てて笑う。

「移動は知り合いにやってもらうから、親がいない時間帯を教えてくれ」

「夕方の六時くらいまではどっちも帰って来ないよ」

「じゃあ明日学校が終わってから連れて行く」

 屈託なく笑っていた春湖が、急にまた涙ぐみだす。

「……これ、夢じゃないんだよね? 本当に本当なんだよね?」

「ああ。ちゃんと現実だから安心しろ」

「えへへ。古賀センパイ、私ね、梨夏が戻ってきたらしてあげたいと思ってたことがあるんだ」

 春湖は一旦言葉を切って、優しい顔で梨夏を見る。

「梨夏、病院でいっつも本を読んでたの。来週、梨夏が好きな小説の三巻が出るから、それを買って、梨夏のとなりで読んで聞かせてあげるんだ」

「そうか。梨夏も喜ぶと思う」

「うん!」

 春の日差しを思わせる暖かな、心地よい笑顔が咲いた。

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