第15話 完成

 いつものように、屍蝋部屋に久連木くれこを招き入れる。

「さて、今日で一週間経過したわけだが……見てくれ」

 梨夏が浸かっている水槽の前で切り出すと、離れて立っていた久連木が寄ってくる。

 それを待って、水槽に浸かっている梨夏の遺体を二人で観察する。

「毛根がある部分は変色しやすいんだ。髪の生え際、眉、口周りをよく見てみろ。首から下はどうせ服を着せるから、神経質になる必要はない。注意するのは顔だ」

 俺に言われた箇所を、久連木は真剣な表情で入念にチェックしている。

「肌の変色ありません」

 俺が毎日確認していたから異常などあるわけもないが、こういう風に久連木には要所要所で自己確認させている。二度とはない作業に悔いが残らないように、大切な友人の春湖のために精一杯やったという思いを残してやれるように。

「よし。じゃあ次は、においと肌の乾燥具合を見るぞ」

 水槽に寄せた診察台の上に、昨日久連木に切り開いてもらった乳白色のゴミ袋を広げる。ゴミ袋は九十リットルの大容量のものだ。

 診察台の上に用意していた軍手とゴム手袋をひと組、久連木に渡す。

「俺が引き上げるから、手伝ってくれ」

「はい」

 軍手、厚手のゴム手袋の順に装備する。

 梨夏が沈んでいる水槽に両手を、肘の上まで突っ込む。水圧でゴム手袋が腕を圧迫する。

 軍手を履いていない腕の部分は、四度の水温に熱を奪われる。厚着のために感触がはっきりしない手を、梨夏の脇の下に潜り込ませる。手の指、手首、前腕、と力を入れて梨夏の上半身を屍蝋液から出した。

 重力の支配下に出した体の頂上――頭が、かすかに傾いた。

 診察台に慎重に乗せた梨夏の体は、屍蝋液でしっとりと濡れている。屍蝋液を拭き取るため、綿状の不織布を診察台の空いているところに置く。

「そっとだぞ。剥がれた皮脂は再生しないから、そっとやるんだ」

 久連木と二人、梨夏の肌を傷つけないように神経をすり削りながら、無言で拭き取り作業に没頭する。

「りーちゃんさぁ、生きてる女の子にもそれくらい優しく出来たらモテるんじゃない?」

 思わず力が入ってしまうところだった。

 驚いた。今までいなかった咲嘉さくかさんが急に現れたことに、ではない。人の家に勝手に上がり込んだ咲嘉さんに気付かなかったことに、だ。

「家、鍵空いてたから閉めてきたよー。すごいでしょー」

 なにがすごいんだろう。あえて言うなら、鍵を開けっ放しにしていた俺がすごい。すごい間抜けだ。

「こんな秘密の地下室があるんだから、無用心はダメだぞー」

 こんなチャランポランな人に言われるとは、俺はなんて駄目な奴なんだろう。

「でも、りーちゃんって普段はガッチンガッチンだから、たまにポワァンとしたところがあるとすっごく可愛く見えるんだよねぇ」

「ギャップ萌え、というやつですか?」

「そうそう! それそれ!」

 久連木も俺と同様、あえて無視して黙っているのだとばかり思っていた。しかし奴は俺を裏切り、咲嘉さんと会話しやがった。咲嘉さんの嬉しそうな声に集中が切れそうになる。

「恋ちゃん、わかってるねぇ」

「いえ、よくわかりません」

「ええ?! ギャップがあるりーちゃん、いいと思わない?!」

「特には」

 咲嘉さんが黙る。久連木は時々すごい奴だ。

 再び静かになった地下室で、水槽の水温調節機とエアコンの作動音が大きく感じる。

「……こんなもんか」

 梨夏の肌から水滴を取り除き終えてから、白い上腕に鼻を寄せる。

「まだ少し薬品のにおいがするな……」

 久連木も俺の真似をして、反対側の上腕の臭いを嗅ぐ。

「臭くはないような気がします」

「そうだな。腐敗が進んでいる場合は薬品のにおいを打ち消すほど腐臭が強いから、これは大丈夫ってことだ」

 梨夏の頬に手のひらを当てる。

「拭き取っている時にあらかた確認したが、肌の水分も俺達と変わらないから、乾燥具合の方も問題なしだ」

「成功しているんですね」

「ああ。折倉のためだもんな。失敗なんてしないから安心しろ」


 梨夏の遺体を屍蝋液に浸けたり出したり、薬品を塗布したりして、久連木と作業をした一ヶ月はあっという間だった。

 ついに、梨夏の屍蝋が完成した。


「どうだ?」

 久連木にとっては、初めて触る屍蝋だ。何度も指先を往復させて、人の形をした蝋の感触を確かめている。

「……人の体は本当に蝋になるんですね」

「発見した人は偉大だよな」

 久連木は、梨夏の屍蝋を触り続けている。

「久連木、折倉に完成の連絡をしてくれ」

「わかりました」


 久連木が春湖に電話をしてから三十分後、インターホンが鳴った。

 地下室からリビングに上がり、ホールを通って玄関に出る。鍵を開けてドアを押すと、不安そうな硬い表情の春湖が立っていた。鞄の紐がぎゅっと握られている。

「……梨夏は」

「中にいる。どうぞ」

 さっさとリビングに向かった俺から数秒遅れて、靴を脱ぎ捨てた春湖が慌ただしくホールに上がる。距離があった俺と春湖の間がすぐに縮まる。黙ってついてくる春湖に、俺も何も言わず、リビングの戸を開けた。

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