第13話 こんなことをしてくださるなんて

 壁に掛けてある温度計に目をやると、室温が昨日よりも高い。

「三人もいるとやっぱり温度が上がるもんだな……」

 水槽の水温計を見ると、昨日と同じ温度だ。こっちはまだ大丈夫か。

久連くれこ木、お前の方にある水温計の温度は見えるか?」

「ええと……見えます。今、四度です」

 ゴム手袋と軍手を脱ぎながら、言う。

「五度以上にならないように注意してくれ。それくらい低い水温じゃないと屍蝋化しないんだ」

 エアコンのリモコンを操作し、普段は十二度設定の室温を十度に下げる。それを終えると、リビングに上がった。


 庭に面したリビングの大きな窓から、春の柔らかい日差しが差し込んで部屋が明るい。

 窓がなく、照明をつけなければ真っ暗な地下室とは正反対だ。

 開放感から、ゆっくりと深呼吸をした。閉塞感のせいもあるが、地下室は神経を使う作業も多くて息が詰まる。

 俺一人には贅沢すぎる大きさと機能のシステムキッチンの前に立つ。やかんに水を張り、IHクッキングヒーターで湯を沸かす間に、はたと思う。

 久連木に飲み物の好みを訊いてくるのを忘れてしまった。

 駄目だな。人とのコミュニケーションに慣れていないから、こういう細かい気配りがどうしても出来ない。高校生だから、ここは無難にオレンジジュースとか甘いやつを出した方がいいのだろうか。いや、ジュースなんて冷蔵庫に入っていない。

 まあ、いいか。郷に入れば郷に従え、だ。俺の家ではこれを飲んでもらおう。


 二人分の湯呑と一人分のマグカップを乗せたお盆を持って、階段を降りる。

 ドアを開けると、二人の顔が俺の方を向いた。

「冷えるだろ。飲み物持ってきた」

 咲嘉さくかさんにマグカップを手渡す。

「わあ、ありがとー。私がブラックしか飲まないって覚えててくれたんだねぇ。嬉しいよー」

 抱きついてこようとする咲嘉さんをかわして、久連木の方に移動する。

「俺、咲嘉さんはてっきり砂糖三杯くらい入れる甘党かと思っていたので、意外性で覚えていました」

「そうなんだよね。私、よく甘党に見られるの。甘いの苦手なのに」

「ほら、お前も寒いだろ」

 久連木に湯呑を突き出すと、珍しいことに笑顔ではなく軽い驚きの表情が返ってくる。

「ど、どうかしたのか?」

 なにか変なことでもしただろうか。地下室に戻ってきてからの自分の行動を脳内で反芻するが、特におかしな行動はとっていないはずだ。

「いえ……私に、ですか?」

 久連木の視線は湯呑に注がれている。

「俺はお前以外の誰に話しかけているんだ……?」

「私しかいませんね……すみません。こんなことをしてくださるなんて、驚いて」

 俺の方がびっくりだ。こんなに驚かれるなんて、俺は一体どんな冷血漢だと思われていたんだろう。

「緑茶だけど、飲めるか?」

「はい。ありがとうございます」

 咲嘉さんが、楽しそうに久連木を見た。

「惚れた?」

「咲嘉さん! もうそれはいいですから!」

 咲嘉さんからの冷やかしが入りつつ、俺と久連木は交代で梨夏の遺体を沈め合った。


「古賀先輩、これ、どれくらいやっていればいいんですか?」

「とりあえず一週間だな。様子を見ながら入れたり出したりする」

「…………」

 なんで急に黙ったんだろう。

「だいじょーぶ。一週間、おやすみからおはようの間も休まずってわけじゃないから。りーちゃんだって無闇に遺体増やそうなんて思ってないだろうし。思ってないんだよね?」

「そうですね、ここはブラック企業じゃないですから。俺は個人ですけど」

 久連木からまた同じツッコミを食らう前に、自分で補完しておく。

「というわけで、ひとまず一週間は毎日、放課後ここに通ってもらうことになるけど都合つくか?」

「大丈夫です」

「そうか。言っておくけど、普通は皮膚の屍蝋化に二、三ヶ月かかるんだからな」

「そんなにかかるんですか」

「内臓の屍蝋化まで狙って完全な屍蝋にするには半年かかる」

「……春湖はそんなに待ってくれるでしょうか?」

 不安そうな久連木に、指を一本立てる。

「ところがだ、俺の屍蝋液なら完全な屍蝋が一ヶ月で出来る」

「本当ですか?」

「ほっんとっだよ~」

 俺より先に、咲嘉さんが変なリズム付きで返事をした。

「屍蝋に関してはりーちゃん、天才的なんだから」

 咲嘉さんは自分のことのように、久連木に自慢する。でも、本人がいるところで言われるとひどく恥ずかしい。

「それじゃあ、今日はもう遅いからいいぞ。明日も頼むな」

「はい」

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