第12話 この水槽の中に沈める

「まず、だ。遺体は菌が繁殖して腐敗しないように冷やすのが原則だ」

「はい」

久連木くれこ、これを装着してくれ」

 準備しておいた軍手と、肘上十センチメートルほどもある長いゴム手袋を久連木に渡す。それから自分も同じものを手にとる。軍手、ゴム手袋の順で履く。久連木も、俺を見て同じように準備している。

「そっち持ってくれ」

 梨夏の足元を指して、久連木に指示する。

「梨夏をこの水槽の中に沈める」

 水槽を覆っていた布を取り払った。大きさは一畳ほど、高さは一メートルくらいの水槽の中には透明な液体が入っている。

「これは……ホルマリンですか?」

 腐敗や乾燥を防ぐために、死体や臓器をホルマリンにつけた瓶は研究所や大学なんかでよくあるイメージだ。

「よく知ってるな。これはホルマリンじゃないんだ。ホルマリンは刺激がすごいんだよ。ゴーグルしてても目は痛いし、臭いは強烈だし、濃度が濃いと色はつくし、あれはやばい」

「やってみたんですね」

「まあ、はじめはホルマリン使えばなんとかなると思うだろ。そういうわけでこれは別の液体だ。グリセリンに塩化亜鉛を溶かしたものとか、色々入ってる」

「それ、りーちゃんが独自に開発した液なんだよー。まだ改良の余地があるからって、成分の割合とかは全然教えてくれないんだけどねー」

 久連木が俺の顔をじっと見つめている。

「なんだ? そんなに見たって屍蝋液の割合は教えないぞ。企業秘密だ」

「古賀先輩は個人であって、企業ではないと思います」

「知ってる。そういう細かいことはどうでもいいんだよ。兎に角、教えないからな」

「はい。私はただ、古賀先輩はすごい方だと思っただけですから、教えていただく必要はありません」

「…………」

 そんなに真っ直ぐ賛美されると照れる。更に、咲嘉さくかさんがニヤニヤしながら俺と久連木を交互に見ているのが気恥ずかしい。

「ねーねー、りーちゃんに惚れた?」

「普通は惚れるんですか?」

「惚れる惚れる。一酸化炭素中毒の遺体みたいな顔になるよ」

 久連木が困っている時の顔が段々とわかるようになってきた。こいつはいつも笑顔だから何を考えているのかわかりにくいが、注意して見ると、その笑顔の中にも変化があるような気がする。

 困っているらしい久連木に、説明する。

「一酸化炭素中毒の遺体は肌が赤くなるんだ」

「そうなんですか」

 感心しただけで特に動揺しない久連木に、咲嘉さんは肩を落とす。

「……恋ちゃんって全然顔色変わんないねー?」

「私は古賀先輩に惚れているわけではないので」

「女子高生ってもっとこう、ハラハラそわそわするものじゃないの? ハァハァ、憧れの古賀先輩の自宅の、それも秘密の地下室に侵入しちゃった! きゃ! くらい思うでしょ」

「私は古賀先輩に憧れているわけでもないので」

 咲嘉さんが演じたのは普通の女子高生ではなく、普通の変態な犯罪者だ。

「咲嘉さん、邪魔しないでくださいって言ったじゃないですか」

「邪魔なんかしてないじゃない。心外だなー。むしろ応援してるでしょ」

 得意げに胸を張る咲嘉さんに、つきたくなるため息を飲み込む。

「久連木との仲じゃなくて、こっちの作業の話なんですが」

「むー。だってだって、りーちゃんが乃亜ちゃん以外の女の子と親しくしてるのが嬉しいんだもん」

「別に親しくはありませんから、もう黙ってください」

 俺に頼まれた時からずっと、梨夏の足首に手を当てている久連木がいい加減気の毒になってきた。

 持つ予定だった梨夏の上半身――脇の下に手を掛ける。

「待たせて悪い。いくぞ、せーの」

 久連木と二人で、ぐったりして動かない梨夏の体を持ち上げる。梨夏の体を覆っていた布が落ちた。

「りーちゃん、りーちゃん、女の子の裸体だよ。興奮する? するでしょ?」

 不謹慎極まりない咲嘉さんを無視できたのは、どうやら俺だけだったらしい。

「古賀先輩は亡くなった人にも興奮するんですか?」

「だって、乃亜ちゃんは屍蝋でしょ?」

「二人とも、とりあえず黙って!」

 梨夏は、自力では指一本すら動かせない遺体だ。死後三日が経過して、死後硬直は解けているものの、意識を失った人と同様、持ちにくい。体の大きさのわりにひどく重く感じる。

 その体を、落とさないように慎重に、水槽のところまで運ぶ。

「離していいぞ。ゆっくりな」

「はい」

 梨夏のかかとが液体に浸かる。次いで足首、脹脛ふくらはぎ、膝がゆっくりと液体に飲み込まれていく。

「これでよろしいですか?」

「ああ。丁寧にやってくれてありがとう」

 液体に沈んでいく下半身の勢いを殺さずに、腰から上もゆっくりと水槽の中に収める。

 沈みかけた梨夏の遺体が液体を拒むように浮き上がってくる。

「久連木、浮いてこないようにそこの棒で押してくれ」

「はい」

 俺が視線で指した一尺ほどの樹脂製の棒で、最も顕著に浮いている梨夏の顔を、久連木は押した。

 押せと言ったのは俺だ。俺の言うことを聞くのは、手伝うと言った久連木にとっては当然のことかもしれない。それにしたって、もう少し逡巡するとかなにかあってもいいのではないだろうか。遺体とはいえ、女の子の顔だぞ。

「……しばらくやっててくれ。三十分経ったら俺と交代だ」

「わかりました」

 返事をした久連木は、いつもの笑顔で梨夏を突き続けている。こいつ、もしかして実は、虐めるのが好きな人種なのだろうか。

 慣れた寒い部屋で、室温のせいではない寒気を感じた。

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