第9話 俺の恋人だ。

「お邪魔します」

 どこにでもあるような一軒家の玄関で脱いだ靴を揃えて、久連木くれこがホールに上がる。

 今は俺一人しか住んでいない一軒家に、咲嘉さくかさん以外の人を呼んだのは久しぶりだ。

「ああ、誰もいないから気にするな」

「お仕事ですか?」

「元々兄弟はいないし、親はずっと前からいないんだ」

「……すみません」

「別に謝ることはないだろ」

 短いホールからリビングに入る。後ろからは、あまり足音をたてない久連木が、俺から一メートルほどの距離をあけて続く。

「見てもらったほうが早いだろうから……こっちだ」

 リビングに入ってすぐ左の戸を開ける。地下へと続く階段から、冷たい空気が吹き込んでくる。階段を下りていくほど空気の冷たさは強くなっていく。


「少し寒いけど」

 地下室の扉を開け、久連木を招き入れる。部屋に入った久連木が息を飲む音が聞こえた。

「古賀先輩……誰もいない、とおっしゃいましたよね」

 久連木の視線は、二人掛けの白いソファに座っている少女に釘付けになっている。俺は座っている乃亜の前に移動する。

「彼女は加茂宮かものみや乃亜のあ。俺の恋人だ」

 久連木はしばらく凝視して気づいたのだろう。乃亜が息をしていないことに。

「……あの、これは……」

 戸惑っている久連木に、一度頷く。

「見ての通り、乃亜は一度亡くなっている。二年前に、だ」

「二年前に……? なら、どうして、」

「屍蝋、って聞いたことあるか?」

「しろう?」

「人間は常時、細菌を体内に持って生活しているが、菌が増えすぎないように制御する機能も人体にはある。人間が死を迎えると、細胞や組織の機能は全て停止する。でも菌は死なない。機能が停止した人間の体温は細菌にとって居心地がいいから、体内の菌は増殖し続けるんだ。そうなると人体の腐敗がはじまる。これが通常の遺体だ」

 唐突にはじまった遺体講座を、久連木は微笑んだまま黙って聞いてくれている。

「ところがある条件下では人体は腐敗せず、ロウソクの蝋のような状態になることがある。この現象を蝋化と言い、そうして出来た遺体を屍蝋と言う」

「彼女が、屍蝋、なんですか?」

 久連木は、乃亜に視線をあてながら、はじめて見聞きする現象に驚いているようだ。

「ああ。蝋化させることが出来れば、生きている時と変わらない姿のまま、いつまでも傍に置いておける」

「……梨夏ちゃんを、屍蝋にするんですね?」

「それが折倉春湖の希望だ」

 そんなの、おかしい。間違っている。だいたい、出来るわけがない。やめた方がいい。

 春湖の口からは出てこなかった真っ当な言葉が飛んでくることを覚悟して、久連木から目を逸す。

「私に、手伝えますか? 私にも、春湖を助けるお手伝いが出来ますか?」

 心の準備は無駄になった。

 久連木の真剣な目が、言葉よりも重く語っている。春湖を助けることに関われることが嬉しい、と。

「勿論。だからお前をここに連れて来た」

「草加先輩はこのことを知っていたんですか?」

 草加があっさり帰ったのは、単に春湖の様子のおかしさに気付かなかったからだろう。細かいことに気づけない単純なところは、あいつの美点でもある、と俺は思う。

「草加は何も知らない。だから草加にも漏らすな。絶対だぞ」

「はい。わかりました」

 しっかりと頷いた久連木は、辺りを見回して少しそわそわしているようだ。

「古賀先輩、まず、何をすればいいですか?」

 早く春湖の役に立ちたくて仕方がないのだろう。はやる気持ちはわからなくもないが、まだここには遺体がない。

「遺体の引き取りは明日だから、今日は特に何もないな」

「それでは、また明日の放課後にお邪魔します」

「そうしてくれ」

 久連木は言い残したことがあるようで、いつもの微笑みで俺の顔を見ている。

「なんだ?」

「古賀先輩、どうか、春湖を助けてあげてください。よろしくお願いします」

 久連木は九十度の角度で腰を折り曲げる。色素の薄い髪が、はらりと肩から落ちた。

「ああ。一緒に助けよう」

 俺の言葉に、久連木は下げていた顔をぱっと上げた。大きな瞳が見開かれる。

「はいっ」

 今日一番の元気な声が返ってきた。

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