無何有郷アナトミア 〜夢読姫綺譚〜

愛野ニナ

第1話




 国道を逸れた先のまばらな山林の中に、その建物はあった。

 打ち捨てられて久しいであろうことが一目でわかる廃墟だ。

 外観の異様さは崩れかけた壁や塗装の剥がれた色彩のせいだけではない。

 西洋風の中世の城をイメージしたつもりなのだろうか。この建物が機能していた頃を偲んでみたところで、近隣は貧しい家屋や小さな畑が細々とあるばかりのうらさびしい集落である。なお一層その奇怪さを際立たせてしまうのであった。

 朝とも昼とも夕ともつかない曇った灰色の空を黒い鳥が旋回している。

 それは姿こそカラスに似ていたが、カラスではなかった。

 陰鬱な建物を背景にして遠近感が狂うほどに大型であり、細部のちょっとした形にどこか禍々しさが宿っており、何よりルビーのように赤く煌く目が、尋常なる生き物でないことを示していた。

 廃屋の壊れた門の前には黒いドレスの美少女が、ひそやかな声でその鳥を名を呼ぶ。

「バベル」

 鳥は舞い降りて、黒い翼を拡げたまま少女の肩にとまった。

 その様はまるで、少女の背から黒い翼が生えているようにも見えた。

 少女の名はミヨミという。但し、この現世での名だ。真の名は未だ語られていない。




 建物の中は足の踏み場も無いほど荒れ果てて元が何であったのか判別のつかない物で散らばり、窓ガラスも破れたままに破片が落ちていた。

 ミヨミは肩の背に黒い鳥をのせたまま、足元を気にすることもなく、途中が陥没した階段を上り、廊下の両側に並ぶ扉の中のからひとつ選びその扉を開けた。

 その部屋もまた無秩序に荒れている。調度のセンスも酷い。褪せていても赤とわかるカーテン、意味のわからない中世騎士の甲冑のオブジェが今も直立したままで、電気が通っていた頃には回転したであろう円形のベッドを向いていた。それら全てが下品でチープな印象であった。

 その散らばった床の中から、ミヨミが迷わず拾いあげたのは、

「人形の生首とは、悪趣味だな」

 肩の背でバベルが人語で言った。低い声は姿に相応しく微かに嗄れている。

「でも、ちょっとおもしろいものが見られそう」

 ミヨミは微笑を浮かべた。

 生首という表現は適切ではなかったが、確かにそれは人形の首だった。よく見れば周囲の床には、人形の胴体や、球体関節の手脚なども散らばっているはずだ。

「…アリスの首ね」

 ミヨミは人形の首をかざす。

 無機質なガラスの瞳、何もとらえてはいないそれを見つめて、ミヨミはそっと囁いた。

「ねえ、あなたの夢をきかせて…」




 見知らぬ男が運転する車の助手席で、アリスは今日の出来事を思い返していた。

 すでに日は落ちて暗く景色は夜になり、車の窓の外を街灯や建物の電気の光が流れていく。

 いつもと変わらない日々の繰り返しだ。学校にも家にも居場所がない。

 学校では授業についていけない。転校ばかりしてきたから友達もできない。アリスはいつも周囲から浮いている。

 築三十年の木造アパートが今のアリスの家だ。引越しは多くて、六年生になった今年も五月の途中という半端な時期に越してきたのだ。理由はわからない。大人の事情なのだろう、追求する気もない。

 家に帰るとたいていママが寝ているのだけど、この日はいなかった。近所のコンビニかパチンコにでも行っているのか。おとうさんもいない。

 散らかった部屋の隅にランドセルを置いて、かわりに衣装ケースの中に隠してあるトートバッグを出し、その中身を確認する。

 台所へ行き念のため冷蔵庫を覗いたがビールしか入っていない。机の上に千円札が一枚置いてあったのでそれをとり、トートバッグを持ってアリスはアパートを出た。

 ママもおとうさんも誰もいなかったことに安堵する。殊に、ママがいない時間に、おとうさんと鉢合わせると最悪だ。

 おとうさんは二年ほど前からのママの彼氏で、もちろんアリスの父親でもなければママの配偶者でもない。ママから言われて、おとうさんと呼ばされているだけだ。

 アリスが五年生になった頃から、そのおとうさんが身体に触れてくるようになったのだ。ママがいない時にだけだったので頻度こそ多くなかったが、それが何を意味するのかくらいアリスにだってもうわかっている。性的な目で見られていることが、気持ち悪くて耐え難かった。

 とにかく今日は誰にも会わずに外へ出て来れた。

 コンビニへ行き化粧品のコーナーをじっくり吟味する。迷ったあげく、人気キャラクターとのコラボデザインの限定色アイシャドウに決めた。七百円ちょっとする。一番安い菓子パンと飲料を一緒に買うと、もうお金はほとんど残っていなかった。

 コンビニの洗面所の鏡の前で、アリスはメイクを始めた。コスメポーチの中のコンビニや百円ショップで少しずつ買い集めた化粧品は、アリスの心をいくばくか慰めてくれる。

 メイクを施した鏡の中の顔は小学生には見えなくなった。補導されたりしないようにとの理由もあったが、メイクをすることで別人に変身していくような、ちょっとドキドキする感覚が好きだった。

 トイレに入る別の客が来たので髪の毛を巻くのは断念した。取り出しかけたカーラーはトートバッグに戻し、洗面所を出て書籍のコーナーへ行く。

 夜までは長い。ファッション雑誌をひとつずつ手にとってゆっくりとページをめくる。

 可愛くて綺麗な服やコスメ。どれもアリスには無縁だ。お金も無いが、こんな地方都市ではオシャレなブランドの店自体が無い。

 アリスの服はほとんどショッピングモールのセールで買ったママの服のそれも古くなったお下がりばかりだ。

 書籍コーナーの前のガラスに映る自分の姿を見て、アリスは小さくため息をついた。

 顔はメイクをして少しは大人っぽく見える。

 でも、この服では。

 自分のみすぼらしさが惨めだった。

 あこがれはいつも遠すぎて手が届かない。

 大人になったらそれが叶うというわけではなくても、この場所からは出ていきたい。切実だ。

 早く、大人になりたいと思う。




 いつも放課後はこのようにして時間をやり過ごすしかなかった。おとうさんが本当の奥さんのいる家に帰っていく十時過ぎまでは自宅には戻りたくない。

 外では夜になると男の人にもよく声をかけられた。

 おとうさんみたいな中年の男の人は怖くて大嫌いだったが、高校生や大学生くらいの若い男の人、おにいさん達はそんなに怖いとは思わなかった。

 ときには誘われるままにファミレスやカラオケへついて行き、一緒に食事をして遊んだりしていた。コンビニでお菓子や化粧品を買ってもらったこともある。別に楽しくはなかったが、家に帰るよりはマシだった。

 この日もまた同じだった。

 コンビニを出たり入ったりしながらその周辺を適当に歩いていた時、若い男に声をかけられた。

「ドライブしよう」

 男はコンビニの駐車場を指差した。

 アリスは男の顔と駐車場に停めてある車を見る。

 男の人の年齢はよくわからない。放課後にアリスが遊び相手としている高校生や大学生のおにいさん達よりは少し年長だろうが、おとうさんよりはずっと若い。全体的に線が細い印象の他これといって特徴の無い男だ。

 外はほとんど暗くなっていたので、黒い車が本当は何色なのかもわからない。ブラックなのか暗いブルーかグリーンか濃いめのシルバーなのか。

 わかったのは車のナンバープレートに「群馬」と書かれていたことだ。

「群馬って東京に近いの?」

 男はわずかに戸惑ったようにも見えたが、すぐに肯いた。

「東京へ連れていって」

 いいよ、と男は言った。

 アリスは笑顔で男の車に乗った。




「それで何が、見えたんだ」

 バベルはミヨミの肩で羽をたたむ。

「かわいそうな女の子の最後の願いごと」

「それなら悪夢の方は、俺が喰らってやろう」

 男に連れて行かれたのは東京ではなかった。

 高速道路を降りた先にある雑木林の中のラブホテルだった。

 女の子はベッドに押し倒された。

 車の中でも大事に抱えていた大きめのトートバッグが放り出され、中身が散らばる。ペットボトル、菓子袋、安物の化粧品。

 そして異様なのは、美少女姿の球体関節人形だった。

 材質は合成樹脂性だろうか、男にも持ち主の女の子にもその人形の材質などわからない。ただ、他の持ち物とは違い、高価なものであることだけは一目でわかる。

 貧困の環境にあった女の子はどこでこの人形を手に入れたのか、アリスと名前をつけてとても大切にしていた。

 在りし日の人形の姿は、透けるような真白の肌、ゆるく波打つ栗色の髪と、エメラルド色のガラスアイ。黒いレースの美しいゴシックドレス。人形はいつでも綺麗に手入れされていた。

 男は人形を薄気味悪そうに一瞥すると、無造作に投げ放った。

 人形は壁に当たって砕けた。

 女の子は壊れた人形を見て、これから自分の身に起きるであろう運命を悟った。

 抵抗はしない。女の子の目はすでに何も見ていない。もう見るべきものも見たいものも何も無い。

 私はもう死ぬ。

 でも、生まれ変わるにはいちど死ぬしかないから。

 生まれ変わって、アリスになりたい。

 綺麗で可愛くて、美しいドレスを着たお姫様に。

 でも、

 アリスは壊れてしまった。

 …人形だから、もう何も、痛くないの。

 ワタシは壊れてしまった。

 …ワタシ、そして私とは誰か。

「その生まれ変わりがお前なのか」

 ミヨミは人形の首を見つめたままでバベルに応じる。

「女の子はアリスにはなれなかったの。これは、壊れた夢のカケラだから」

 バベルはさらに問う。

「アリス人形はお前に似ている。この娘は、ひとつ前の世のお前なんだろ」

 ミヨミは少し考えて答えた。

「そうかもしれない。でも、アリスにはなれなかったから、私はここにいる。そうでしょ、カゲヒコ」

「それはすでに過去世での名だ」

 バベルの声に微かに苛立ちが混じる。

「また人の姿に戻りたい?罪を贖いたいなら手伝うよ」

 否、バベルは思う。姿などどうでもいい。目的を遂げるまでは、ミヨミに、夢読姫に憑いているのだ。失った夢をとり戻すまでは。 



 *** **** ***



「ねえ、丑木峠のラブホテルで殺された女の子の事件あったでしょ」

「それって丑木峠だった?バラバラ死体で殺されてた事件のこと?」

「そう、そのバラバラの死体、首だけがどうしても見つからないんだって」

「そのラブホテルってたしか事件が原因で廃業したんだよね」

「廃墟のまま放置されてるらしいよ。今、心霊スポットになってるみたい」

「だれか行ったの?」

「先輩の知りあいが行ったって聞いたけど、女の子が死んだ部屋ね、なんでかマネキンの手脚が散らばってるんだけど、それに女の子の霊がとりついていてね、バラバラの手脚が、今も首を探してるんだって」

「そうなんだ。なんかよくありそうな作り話っぽいよね。あんまり怖くない…」




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