ハロウィンイベント、誕生日、そして……――5
四十分後。
リビングのテーブルの上には、お寿司が並んでいた。銀シャリの上に薄く切られたマグロやイカ、サーモンが載せられている。軍艦巻きも形がきれいだ。イクラは海苔の巻かれた銀シャリからこぼれたりしていない。回らないお寿司屋さんも顔負けな、美しいお寿司たち。
「出前、頼んだんじゃないですよね」
藍葉は思わずといった様子で、茜に問いかけている。
「台所でせっせと握っているの見なかったの? ああ、勉強していたら見えないよね。ささ、早く召し上がれ」
とはいえ藍葉は、いきなりお寿司が出されたことに戸惑って、なかなか箸をつけようとしない。
「食べないなんてもったいないよ」
真澄が自慢げに言いながら、箸を手に持った。マグロを一貫取り、小皿の醤油に浸して、口に運ぶ。
「おいしい。早く早く」
本当においしそうに食べる真澄を見て、藍葉も箸を手に持った。遠慮したのか、玉子焼きから取って、醤油に浸して食べる。
「あっ、おいしい」
衝動を抑えられなくなったのだろう。藍葉は、次にマグロに箸を伸ばした。これも醤油に浸して食べる。
すぐに、その凛とした顔を笑顔に変えた。
「うまい。本当においしいです」
「作ってよかった。遠慮しないで食べてね」
「はい!」
藍葉は、さっとイクラに手をつけた。
「紙屋くん、意外と食いしん坊なのね」
真澄にほほえまれて、藍葉ははっ、と我に返る。
「ずっと剣道で体を動かしていたんだぞ。 人より食べないとやっていけない」
やけくそになったように、もう一貫のマグロを食べる。
そして、しゅんとなった。
「ごめん、三滝さんの誕生日なのに、俺がはしゃいじゃって」
これには、真澄と茜が目を合わせて、笑い声を上げた。
「紙屋くん、申し訳なさそうにして、かわいいー」
「かしこまらないでって言ってるでしょ、もー」
笑顔を浮かべる母子を目の前にして、藍葉は困惑している。
「……馬鹿にして」
思わずといった感じで、藍葉はつぶやいた。
「好かれているんだよ。素直に褒められたつもりで受け取れ」
隆志は言って、いったん黙り、藍葉の耳元に顔を近づけた。
「妹があそこまで笑うのは久しぶりなんだ。こっちが感謝したいくらいだよ」
「隆志、紙屋くんに向かって何言ったの?」
真澄が鋭い視線をよこしてくる。
「何でもねえよ」
隆志はすかさずはぐらかしておいた。
瀧彦は、銀行の執務室にいた。
瀧彦の事務机には、小さな写真がいっぱいだった。まず左端には、赤ん坊だった隆志を抱える茜の写真。その隣には、寝ている赤ん坊の真澄を、三歳になった隆志がなでなでしている写真。幼稚園の制服を着た隆志と真澄の写真。隆志と真澄、それぞれの小学校の入学式の写真。七五三で家族全員が和服に身を包んだ写真。運動会で砂まみれになった体操服姿の隆志と真澄の写真。紅葉狩りで自慢げに紅葉を掲げる隆志と真澄の写真。旅行先で撮った家族写真。そして、二人それぞれの小学校卒業式の写真……
子供の頃の隆志と真澄の笑顔が、事務机いっぱいに広がっている。当然、思春期に入ってからの写真は、二人が拒むのでないが。
そんな家族の歴史を物語る事務机において、瀧彦は書類の整理を進めている。
「住宅ローンの相談会、お疲れ様でした。お客さん意外と多くて、午前で終わるつもりがちょっと時間オーバーしましたね」
若手の男性部下が声をかけてくる。
「すまないな。また土曜日に出勤させて、残業もさせた」
「いいですよこれぐらい。残業といっても、まだ午後一時じゃないですか。彼女とのデートにも間に合いそうです」
プライベートを職場でちらつかせるあたり、この若手は優秀だがどこか生意気だ。
「ところで早く帰らなくていいんですか? 後の事務処理はやっておきますよ」
「おお、すまないな。ではこの書類の整理を次の出勤日までに頼む」
瀧彦は、先ほどの住宅ローンの相談会で契約を結んだ顧客の書類を一式、その部下に渡す。
「サプライズでささっと帰るんでしょう。計画は順調なんですよね? 娘さんの」
部下は甘えた声を出してくる。
家族には帰りが夕方になると伝えているが、住宅ローンの相談会は急遽、午前だけのスケジュールに変更になった。
午後の空いた時間に、予約していたケーキ屋さんに行って誕生日ケーキを受け取り、さっと家に帰って、真澄の誕生日を祝う。ここのところ受験勉強を頑張っているから、息抜きに買い物にも出かけ、小遣いの許す範囲でほしいものを買ってあげる。
それが瀧彦の計画した、ささやかなサプライズだ。
今日くらいは長く真澄のそばにいたいという、ただのエゴでしかないのだが。
「たくさん話をしてあげて、娘さんと仲良くしてくださいよ」
「ああ。ここのところ、娘とはまともに話せてなかったからな」
小さい子供の頃と今とでは、状況が違う。真澄はこれから、受験や就職活動など、節目節目の結果で人生が左右される出来事を迎えるようになる。そう考えると、つい真澄の前で堅苦しくなっていた。
真澄には重圧を感じさせたようにも思う。ちょっとすまないことをした。
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