勉強デート――6
――はは、また負けたよ。せっかく県大会まで来てくれたのに。
藍葉は汗にまみれた顔で笑う。本当は悔しいくせに、真澄の前だから、それを表に出さないでいた。
だが藍葉から、いきなり笑顔が消えた。何か悪いことをしたように、真澄を見つめてくる。
――試合、みっともなかったか。
みっともない試合をしたら許さない、と一年近く前に言い放ったことを、覚えていたのだ。
真澄は、首を横に振る。
――みっともないはず、ないじゃない。
もっと藍葉を見ていたい、と思った。
――ねえ、私からお願いがあるの。
この子のそばにいれば、どんなすごいものが見られるのだろう。男子に対する気恥ずかしさよりも、そんなわくわくした気持ちが勝っていた。真澄にとって、初めての気持ちだ。
――お願いって?
汗にまみれた顔のまま、藍葉は真澄を見つめてくる。初めてかっこいいと思った男の子に、真澄は、はっきりとその言葉を伝えるのだった。
――もっと紙屋くんのこと、応援させて。付き合ってほしい。
とんとん、とシャープペンシルでテーブルを叩く音が聞こえる。
「三滝さん?」
藍葉に声をかけられて、真澄は我に返った。
「さっきから全然進んでないみたいだぞ。ぼーっとしてどうした? わからないところでも?」
「ううん、何でもない。ちょっと前のことを思い出していただけ」
藍葉のそばなら落ち着いて、勉強にも集中できそうだと思ったのに、うっかりと感傷に浸ってしまった。
時計を見る。まだこの図書館に入って、二十分とたっていない。あやうく時間を無駄にするところだった。
広島弥山に二人揃って合格して、あのリア充オヤジを見返してやるんだから。
でも、これだけは聞きたい。
「紙屋くんって、今つらい?」
「えっ? 何が」
「剣道、好きなんでしょ」
そうでなければ、あんな腕が痛くなりそうなほどに竹刀を振ったりはしない。暑い中でも寒い中でも構わずに防具を身に付け、竹刀で相手を打ち打たれたりはしない。
「こんな風に勉強が忙しくなったら、剣道どころじゃないでしょ。また後輩のみんなのところに行って、竹刀を振りたいとかは?」
「後輩たちには、次に部活に来るのは受験が終わってからって言っているからな。古株がのこのこ邪魔するわけにはいかないよ」
「さすが、よく割りきっているわ」
「それに朝晩とか、竹刀を振る時間は作っているんだ。試合をしたいっていうのは本音だけど、つらいとか言われるほどじゃないよ」
庭先で竹刀を振る藍葉。想像して、真澄はいいなと思った。爽やかな汗をかいていそうだ。
「今度、タオルでもプレゼントするね。汗拭くための。宮島のお砂の借りもあるし」
「楽しみにしている」
そして隆志は、再び参考書に視線を戻すのだった。
真澄も、参考書の問題を解き進めていく。
昼前になって、二人はいったん勉強を切り上げることにした。近くのお店で昼食を食べに行くことにする。
「午後の勉強、どこでするかは、その店で決めようか」
「そうだな。って、あれって……」
藍葉が、急に冷めた視線をあさっての方向に向けている。
「どうしたの?」
真澄も視線をたどって、ぞっとすることになった。図書館の脇の、木々に囲まれていて目立たない一角に、一組のカップルがいた。互いに抱き合い、キスをしている。相手のことしか見えなくなっていて、真澄と藍葉に見られていることに気づいていない。
真澄と藍葉は、あのカップルから目を逸らした。二人とも自然と足取りが速くなる。
「すごい熱いところ、見ちゃったね」
「俺も、びっくりしちゃった」
ドラマなどではおなじみのシーンだ。でもいざ現実で目にしてしまったら、どうしてこうも緊張してしまうのだろう。
「いちおうあの人たちも、私たちと変わらないんだよね」
「そうか?」
「付き合っているっていう点で」
男の子の前で何を言っているんだろう。これだと、藍葉に変な誤解を与えてしまいそうだ。
「いや、でも私まだ、あんなことをしたいっていうつもりは」
藍場は、くくっ、と笑ってみせた。
「わかってるよ。あそこまでしようなんて、俺も考えてない」
「だよね。今はお互い、他にやることがあるし」
「いきすぎて、変なトラブルになったりなんてよく聞くし、俺だってお断りだよ。そこまで三滝さんを縛るつもりもないし」
「私だって、今後のこととか、いろいろ考えているんだよ。普通に高校生になりたいし、漠然とはしているけど、大学にも行こうと思っているし、将来的には働きたい」
「同感だ」
変だな、と真澄は思う。付き合い始めたばかりだというのに、別々のことを考えているみたいだ。
「こんなんじゃ、あのカップルみたいなことをするのはだいぶ先だね」
「俺だって、正直あのことをしている自分が想像できないし、恥ずかしい」
さすが、真面目な藍葉らしい。
真澄は、思い切った。藍葉の空いている右手を手に取る。
「ん? 何?」
自分から異性に触れにいくなんて、子供の頃以来だ。
「いくらさっきのカップルみたいなことが無理だといっても、これくらいはいいでしょ」
藍葉は、真澄の手を振りほどこうともしない。
「……だな」
まだ下の名前で呼び合うことすらしていないけれど。
二人は手をつないだまま、街を歩いていった。
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