走為上《にぐるをじょうとなす》… 勝ち目がなかったら、戦わずに全力で逃げて損害を避けます。(中の2)
見るからに邪悪な光を放つ、エドマの短剣が自ら選んだ新たな持ち主は満足げに語る。
「妙な短剣でな。拘束されたときも、懐から見つかることはなかった。ダンジョンの前に置き去りにされたときなどは、どこかに逃げようとしても、中へと招くのだ」
エドマの短剣なら、不思議はない。
リカルドは、さらに闇エルフそっくりの、狂気じみた声で喚き散らす。
「ここに潜む力を知って、気づいた。この国など、いらん。このダンジョンがあれば、私は世界をも手に入れられる!」
短剣をひと振りすると、青黒い閃光が僕を襲う。
だが、知力96で唱えた
ましてや、ろくに鍛えてもいない初老の男が振り回す短剣など、器用度95の前には止まっているも同然だ。
筋力100の手で腕を掴めば、簡単に止められる。
力と力のぶつかり合いの中で、リカルドと真っ向から睨み合った、そのときだった。
だが、そこで再び、ダンジョンは震撼した。
地獄門の向こうから、禍々しい光があふれ出たかと思うと、リカルドの身体を包み込んで、その瞳の色を染めた。
……エドマ?
リカルドは信じられないような俊敏さで僕の手をすり抜けると、神速の刃を放った。
「その指輪、頂戴する!」
エドマの声だった。
斬り落とされそうになって引っ込めた指には、何の役にも立たなくなった「願いの指輪」がはまっている。
素手では、とても敵わない。
だが、そこで一条の光を引いて飛んできたものがある。
掴んでみると、カストの短剣だった。
「この世界の者の犠牲が必要なんだ……地獄門を閉じるには!」
何のつもりかは分からなかったが、カストが叫んでいた。
その刃でリカルドの短剣を受け止めると、凍りつくような悪寒が僕の背筋を走る。
……怨念の精霊?
それはたぶん、リカルドのものだったろう。
再び目覚めたダンジョンの混沌が、いったんは鎮められた闇エルフの心まで呼び起こしてしまったのだ。
エドマは言っていた。
……邪悪な心は、邪悪な精霊を招く。
それを思い出したとき、僕の口から、ぽつりと漏れた言葉があった。
「分かったよ……お前は、僕だ」
それは、僕の心にも潜んでいる闇と混沌の部分までもが呼び覚まされたせいだろう。
あれほど憎み、軽蔑していたのに、どこか嫌いにはなれなかった。
それどころか、ときには、リカルドの考えることが手に取るように分かりもしたのだ。
僕の目から、涙があふれる。
「やっぱり、殺せない!」
僕の泣き言に、憤然と立ち上がったのはディリアだった。
「リカルドを頼みます」
地獄門に入ろうとするのを、放ってはおけなかった。
とりあえずリカルドを蹴たぐり倒して自分の短剣を投げ出した僕は、ディリアを後ろから抱きしめた。
「僕が行く……君と結婚するんなら、この世界の者だろ?」
その屁理屈は、向き直ったディリアのキスで阻まれた。
尖らせたままの口で、拗ねたことを言う。
「こんな結婚式なんて」
その間にも、敢えて晒した背中に、闇の短剣が迫っていた。
それを受け止めたのは、僕の捨てた短剣を取り戻した持ち主だった。
「リカルド様のそういうところ、嫌いじゃないです……いや、大好きですけど」
凄まじい速さで縦横に走る闇の短剣をことごとくかわしながら、カストは叫ぶ。
「でも、こんなのはリカルド様じゃない!」
自ら踏み込んで、最後の主の形見を叩き落としにかかる。
「リカルド様が分かってくれなかったことを、あの闇エルフは分かってくれた。だけど!」
しかし、闇の短剣は、自らの意思でもあるかのようにカストの短剣を弾き飛ばす。
だが、そこでカストは、大きく開いたリカルドの胸に飛び込んだ。
「……だけど、そういうのは、好きじゃない」
剥き出しになった背中に、闇の短剣が降り下ろされる。
だが、カストはリカルドを抱きしめたまま、逃げようともしなかった。
「どうしても分かってもらえないことがあるから……好きになるんです!」
僕の背中を襲うはずだった闇の短剣が、男装の少女の背中を貫こうとしている。
白い閃光がリカルドの腕に食らいついたのは、そのときだった。
闇の短剣を咥えて奪い取った者の名を、ディリアが驚きを込めて呼ぶ。
「マイオ!」
それは、フェレットのマイオだった。
だが、僕がその光り輝く姿の向こうに見ていたものがある。
……ターニア!
エドマの心が闇の短剣となって帰ってきたように、気高いエルフの心は、無心な動物の身体に宿って現れたのだ。
ディリアが呆然とつぶやく。
「どうして? 危ないから、城に置いてきたはずなのに……」
フェレットの代わりに返事をしたのは、フェアリーのポーシャだった。
「マイオちゃんが落ち着かなかったんだよ!」
レプラホーンのハクウが喚き散らす。
「置いてくなんて水臭いぜ、異世界召喚者!」
だが、いかにエルフのターニアの心が宿っているとはいえ、動物の力ではどうにもならないことがある。
暴れ出した闇の短剣はフェレットの歯を振りほどき、宙に躍り上がった。
見る間にそれは、地獄門の禍々しい光の中で長い軌跡を描いて洞窟の中を飛び回る。
その痕はやがて、巨大な蛇に姿を変えた。
その大きな顎がその場にいる人や妖精、動物を人のみにしようと開いたときだった。
魔法使いの呪文と僧侶の祝福で
レシアスがつぶやく。
「世話が焼ける」
ロレンが安堵の息をつく。
「間に合いました」
大剣を一瞬で二度振るったのは、騎士団長のオズワルだった。
「姫君……ご無事で」
短剣を構えた暗殺者のアンガが、微かな声でささやく。
「お助けに上がりました……異世界召喚者殿」
剣を手にした悪党のロズと、ナイフを手にした盗賊のギルが、口を揃えて言った。
「褒美は弾んでもらいますぜ、女王様にお婿さん」
だが、蛇の断片はそれぞれ絡み合って、各々の尾を加えたメビウスの輪に変わる。
僕は怯えるディリアを抱きしめながらつぶやいた。
「ウロボロス……」
無限を意味する幻獣は地獄門の光の中で広がると、今度は洞窟そのものを押し広げにかかった。
ぼんやりと光る地面の中心辺りには、永遠の蛇を呼んだ闇の短剣が転がっている。
そこに歩み寄ったのは、大きなハンマーをかついだドワーフのドウニだった。
「こういう面倒なものは!」
文字通りの鉄槌が下されたが、短剣はびくともしない。
レシアスが呻いた。
「いかんな……このままでは、我々自身がそれぞれ、どこでもないところに飛ばされる」
ところで、このとき、我に返って身の安全を図ろうとしている者がいた。
リカルドだった。
その身体を抱きしめているカストに囁く。
「では……共に行こうか、再び」
地獄門を背にした華奢な身体を抱いて、どんどん遠くなっていくダンジョンの出口に向かって歩きだす。
だが、カストはその言葉を逆の意味に取った。
「はい……いつまでも、ご一緒に」
しがみついた身体を離そうとしないで、地獄門の奥へと倒れ込む。
リカルドはもがいた。
「待て……ここにはまだ、せねばならぬことが!」
カストは美しい声で、うっとりと答える。
「本当にしたかったことは、これなのかもしれません……ずっと愛していました、リカルド様」
この世界の者の身体をふたつ呑み込んで、地獄門が閉じる。
あとに残された何の変哲もない短剣は、その上から降り下ろされたドウニのハンマーで粉砕された。
だが、洞窟はどんどん広がっていく。
そこで、僕の指に飛びついたのはフェレットのマイオだった。
力をうしなった「願いの指輪」が落ちる。
拾い上げると、その裏には何か文字が刻んであった。
とっさにレシアスへと投げてやると、すぐさま読み上げてくれた。
どうやら、
時空をつかさどるウロボロスが弾けて消えと、どこまで広がるか見当もつかなかった洞窟は、もとの大きさに戻る。
ダンジョンの底で、リントス王国を守った「この世界」の人々は、ただ茫然と佇んでいた。
レシアスがつぶやく。
「先王の師だった大魔法使いはおそらく、ここまでたどりついていたのです。ウロボロスにも遭遇していたのでしょう。だから、対抗する呪文を準備していたのではないでしょうか」
そんなことはもう、どうでもよかった。
ディリアも、僕の腕に抱かれたまま、胸にすがってすすり泣いている。
ここで僕が言うことは、ひとつしかない。
「帰りましょう……全ては終わりました」
だが、周りにいる誰ひとりとして、答えようともしない。
その目は、僕の胸で泣いているディリアに注がれている。
いちばん、慰めの言葉が必要なのはディリアかもしれなかった。
「もう、大丈夫です。ディリア様の御世が来たんですよ」
返事はなかった。
ただ聞こえるのは微かな泣き声……でもない。
……別の呪文?
明らかに五十音の組み合わせで構成されている。
その意味不明の語の連なりは、なぜか日本語で書かれたあの遺言状に書かれていたものだった。
呪文の詠唱が終わったのか、ディリアは顔を上げて微笑んだ。
「ここでリカルドに会ったとき、もうおしまいだと思いました」
僕の首に手を回すと、耳元で囁く。
「絶望して舌を噛んで死のうとしたとき、リカルドが教えてくれたのです……あなたが助けに来たら、この世界から出て行けと」
リカルドは、あの遺言状が読めたのだ。
……追い詰められたら、王位にこだわるな。愛する男がいれば、異世界への呪文を唱えて共に逃げろ。
僕の目の前で、視界が歪む。
リントス王国の人々が、霞んで消えていく。
……だが、これでいいのか?
……彼らから、ディリアを取り上げていいのか?
最後の最後で心に浮かんだ迷いに答えを出せないでいたときだった。
ダンジョンの中へ駆け込んできた、小柄な少女が大きなため息をついた。
「やれやれ……これで計画通りといったところか」
西北の国の使節、リンドの声だった。
……まさか!
全て、西北の国がディリアとリカルドをリントス王国から除くための策略だったとでもいうのだろうか。
だとしたら、この呪文は早まった。
いや、まだ策はある。
僕はディリアの身体を引き剥がすと、その目を見つめて言った。
「ごめん……僕は、ターニアのことも、カストのことも、そうだ、リンドのことも好きだったんだ」
時空の狭間で、17歳の少女の平手打ちが僕の頬に炸裂した。
誇り高い姫君の姿が、幻となって消えていく。
……さようなら、ディリア。
だが、僕が遠くなっていくリントス王国から最後に聞いたのは、リンドの声だった。
「ご苦労であった、異世界召喚者殿! もう会わぬであろうから、別れ際の嘘は許せ!」
やられた。
話の分かる可憐な策士は、最後の最後まで策士だった。
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