走為上《にぐるをじょうとなす》… 勝ち目がなかったら、戦わずに全力で逃げて損害を避けます。(後の1)

「危ねえだろうが! 気をつけろ!」

 僕の目の前ぎりぎりで止まったダンプカーの運転手が、もの凄い形相で怒鳴りつけた。

 文字通り「上から物を言う」、その態度と悪党面にがムカッときた。

「誰に向かって言ってんだ、轢くところだったのオマエだろ!」

 ……と、怒鳴りつけるのはやめにする。

 だいたい、そんなことができる性分だったら、年度途中で高校での講師契約を打ち切られることなどなかっただろう。

 できもしないことを無理してやろうとしたって、傷と痛みがブーメランのように返ってくるだけだ。

 深々と頭を下げると、ダンプカーは走り去っていく。

 運転手の、ドワーフのドウニによく似たドラ声だけが、僕の耳の中に残っていた。


 ……悪かったなあ、お若いの。


 もう30過ぎているからそれほどとも思うのだが、妙に抵抗はない。

 何となく、まだ10代の自分が身体の中のどこかに残っている気がしていた。


 下宿に戻ると、引っ越し屋のトラックがやってきた。

 ガラは悪いが愛想だけはいい若者が、ヘコヘコ頭を下げる。

「どうもお待たせしまして……」

 待たせた割には、軽すぎる。

 なんだか、盗賊のギルとしゃべっているみたいだった。

「遅いよ、朝一番にって言ったでしょ!」

 ……と文句をつける気もなくなる。

 むしろ、ここは相手をねぎらうところだ。

「いえ、こちらこそ朝早く呼んでしまって……」

 土曜日の朝である。

 まだ寝ている下宿の住人たちのことも考えるべきだった。

 なるべく音を立てないように家具類を運んでいたが、隣の部屋のお子様方に見つかってしまった。

「あ、お引っ越しだ!」

 フェアリーのポーシャに似た小さな女の子が声を上げると、弟らしい坊やが出てきて僕たちの周りをうるさく駆け回った。

「何か手伝おか? 何かしてほしい?」

 レプラホーンのハクウを思い出す。

 そこへ出てきたのは、どう見ても小学生にしか見えない母親だった。

「お邪魔しちゃいけません!」

 まるで、リンドが妖精たちを叱りつけているようにも見えた。

 すみません、と頭を下げたところで、父親が眠そうな目をこすりこすり現れて、呪文でも唱えるようにぶつぶつ言った。

「いや、敢えてお邪魔したほうがいいだろう。こんなに朝早くの引っ越しは、それなりに事情があるはずだし……」

 魔法使いのレシアスが家庭を持ったら、こんな感じだろうか。

 引っ越しが始まると、隣の部屋から出てきた坊主頭の住人も加わった。

「大変でしょうから、私も」

 おっとりした物言いとしぐさは、僧侶のロレンを思い出させた。

 途中で部屋の扉をガタンと開けて、いかにもその筋といった顔つきの男が眠たげな顔を突き出す。

「うるせえな、朝から何だよ……」

 ギロリと睨まれて、一同は荷物を持ったまま、大人から子どもに至るまで、その場に凍りつく。

 悪党のロズに似た男が子どもたちに近づくと、男の子も女の子も泣き出しそうになる。

 レシアスに似た父親がおろおろと歩み出ると、母親はリンドのように毅然とした態度で、男の前に立ちはだかった。

 そこへ、ロレンのような坊主頭の男も割って入ろうとする。

 だが、ロズに似た男は何も言わずに、それを手で制した。

 子どもたちの抱えた大荷物の包みを、母親の頭越しにひょいと持ち上げる。

 親子共々、きゃあという嬌声が上がって、引っ越しは再開された。

 

 気が付くと、もうひとり増えている。

 仕事の速さは人一倍で、引っ越しが終わったときも、お礼のジュースでもと僕が言った瞬間、人数分をボトルで(しかも子どもにはアニメキャラの描かれた小さいのを)買ってきて、僕にレシートを突きつけたくらいだ。

 それでいて、顔が思い出せないのは、暗殺者にして伝令のアンガさながらだった。

 初めて顔を合わせた下宿の住人達からの意外な見送りを受けながら、僕はトラックの助手席に乗せてもらって下宿を後にした。

 下宿から遠くないところに、I.C.インターチェンジがある。

 その標識を過ぎたところで、若い引っ越し屋はアクセルを踏み込みながら言った。

「お待たせしちゃいましたから」

 高速道路に乗ると、まだ夏の余韻が残る眩しい山々が、そろそろ高くなり始めた空の下で飛び過ぎていく。

 やがて、生まれ育った田舎の山河の緑とあおが、目の中に飛び込んできた。 


 荷物を下ろした荷物を実家に運び込んで、俺は高校を卒業するまで使っていた部屋に、衣服や本の類を運び込んだ。

 身の振り方が決まるまで、しばらくここで暮らすことになる。

 少しでも広く使おうとして、僕は部屋の整理を始めた。

 まず、クローゼットを開けて自分の服を脱いだところで、背中の辺りから床にひらひらと落ちたものがある。

 拾い上げると、何やら書きなぐってある。


 ……追い詰められたら、王位にこだわるな。愛する男がいれば、異世界への呪文を唱えて共に逃げろ。

 

 今朝の子どものいたずらだろうか?

 いや、こんな持って回ったことが書けるような年齢ではない。

 そういえば中学生の頃、この手の文章を大真面目な顔で小説に書いていたのを思い出して、何だか恥ずかしくなった。

 すると、これは僕の書いたものかもしれない。

 服の中から落ちたというのは勘違いで、もともと、この部屋の床に落ちていたのだろう。


 続いては、本棚の整理を始める。

 ライトノベルなどはもう、読まないから押し入れにしまい込むつもりだった。

 その手の文庫本を引っ張り出しては床に積んでいると、本棚の奥から、古めかしいハードカバーの本が見つかった。

 中国で書かれた、怪異小説の短編集である。

 中国古典やファンタジーに興味を持った僕が中学生の頃、本格的なものに挑戦しようとして小遣いをはたいて買ってきたものだった。

 読みはじめてから、あまりの長さと言葉の難しさに挫折した覚えがある。

 今ならどうだろうと開いてみたページには、中国唐代の李公佐りこうさ南柯太守伝なんかたいしゅでん』があった。

 ここまでは、読んだ覚えがある。

 改めて斜め読みしてみると、こんな話だった。


 異世界に招かれた男が、その国の姫と結婚して、南柯なんかの領地経営を任される。

 思わぬことで失敗して都へ帰ると、その気もないのに人望を集めて、国王の不信を買ってしまう。

 やがて天災のせいで遷都しなければならなくなったが、男はその天災の原因とされて失脚する。

 そこで目が覚めて、そこが蟻の巣の国であったことを知る。

 

 ……思い出した。

 

 僕は部屋の整理という目的も忘れて、押入れの中にある古いノートやら教科書やらの山をそこいらに散らかす。


 ……あった。


 押入れの奥にあったボロボロの段ボール箱の底に、方眼ノートの束が積まれていた。

 題名が、ヘタクソな字で書かれている。


『異世界ダンジョンで三十六計を使って成り上がります』


 間違いない。

 かじった程度の中国怪異小説に影響されて、初めて書いたファンタジーだ。

 確か、中学生の頃だったか。

 これが、高校まで図書館に入り浸りの、オタク生活の始まりだったともいえる。

 表紙を開くと、目次もなしに「第一計」と書かれている。

 学習机に向かって、勉強そっちのけで鉛筆を走らせて書いた乱雑な字を解読しながら、僕は苦笑した。

 読むに堪えない。

 構成など、全く考えていない。

 異世界の設定を思い付くままに書き連ねては、バトルや恋愛などのイベントを気分に任せて引き起こす。

 趣味に走ったご都合主義の人物が成り行き任せに行動する。

 つじつまが合わなくなると地の文で屁理屈こねて、それでもだめなら文章を遡って書き直す。


 あらすじは、だいたいこんなところだ。

 中国兵法に詳しい中学生の男子が、ダンプカーに轢かれそうになって異世界に転生する。

 彼を召喚したの王国のお姫様に、ダンジョンを制覇して王国を救ってほしいと頼まれる。

 中学生は三十六計を駆使してダンジョンを制覇し、陰で王国を操る悪大臣の陰謀を挫いていく。

 騎士や盗賊、魔法使いや僧侶、エルフやドワーフなどの妖精たちが、彼を信頼して集まってくる。

 さらにお姫様は彼に恋するようになるが、巨乳のエルフにも思いを寄せられる。

 しかも、男装した貧乳美少女まで登場して、主人公の気持ちをかき乱す。


 中二病的妄想全開のハーレム展開に呆れかえりながら読み進めていくと、物語は「第二十七計」で止まっていた。

 そのときはもう、気づかないうちに目から涙がとめどなくあふれていた。

 何もかも、思い出したのだ。

 あの36層のダンジョンと、リントス王国で起こった全てのことは、この稚拙な物語の中に収められていた。

 そして今の僕は、この幼稚な主人公と、何ひとつ違わない。

 狭い自己愛に囚われた裸の王様が、居場所から追放されたにすぎないのだ。


 そこで僕は、物語のノートに挟もうとして自分で書いたらしい、先王の遺言状を再び眺めた。


 ……追い詰められたら、王位にこだわるな。愛する男がいれば、異世界への呪文を唱えて共に逃げろ。


 もともとディリアに宛てられたものだが、先王もディリアも、昔の僕が作り出した幻影にすぎない。

 それなら、昔の僕が今の僕に宛てたものとして読み替えてみたらどうだろうか。


 まず、僕は裸の王様にすぎない。

 中学生のときの僕の言葉に応えようとするなら、その王位にこだわってはいけないということになる。

 たぶん、今、僕が囚われている自己愛こそが、その王位なのだ。

 弱いくせに虚勢を張って人を見下し、生徒からも同僚からも必要とされなくなっても、それを認めることができないでいる。

 本当に、どうしようもない。

 でも、この自己愛というやつを、どうやって捨てればいいのだろう?


 情けなさで、涙が止まらなくなる。

 それでも目をしばたたきながら、遺言状に書かれた異世界への呪文を眺めてみた。


 スナトウヤジヲルグニ レカナトコルワダコニチカ ズラカベウカタタバクナンサ

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