第10話

 狼の目から光が失われる。やがてゆっくりと倒れこんでくる天魔の身体を避け、僕は横に二歩動く。その脇を静かに落ちていった巨体が、ズシンと大きな音を立てて地面にぶつかった。


「さて、と……。もう残りはいないよね」


 周囲を注意深く観察して残った天魔が全て死んでいることを確認すると、僕は狼型の中級天魔に刺さったままの剣を抜き取り鞘へ収める。


「向こうはまだ戦ってるのかな」


 同じ部隊の仲間たちは大丈夫だろうか。まあ、ミリアさんもいるし敵の天魔は下級ばっかりだったから大丈夫か。今頃はサーラも合流しているだろうし。


 最初に戦っていた天魔の集団には大して強そうな個体もいなかった。さっきの狼型と同じくらいの天魔がいたら危なかったかもしれないけど、さすがにあのレベルの天魔はそうそう出くわすこともないだろう。

 そう考えながら仲間の元へ戻ろうと踵を返したところで、僕は妙な違和感を覚えた。


「なんだ……?」


 立ち止まり、周囲の様子を窺う。


 見えているのはただの骸と成り果てた二十体ほどの天魔とまばらに生える樹木の幹、そして地面を覆う腐葉土のカーペット。いや違う。違和感はそれらと別の場所から生じていた。

 何かに見られている。そんな感じの嫌な空気。


「誰だ?」


 自然とそう口にしていた。


 戦闘の影響で大小様々な生き物は逃げ出し、今や暴れる天魔もいない森の中。怖いほど静まりかえった木々の合間を僕の声が響いていく。

 当然返答などあるわけがない。戦闘の影響で過敏になっているだけかもと思い直して、一歩踏み出そうとしたときだった。


「さすがです。まさか気付かれるとは」


 文明の気配すら感じられない森には場違いとも思える上品な女性の声がした。

 すぐさま僕は身構えていつでも天則式を発動できるよう意識を集中する。


「警戒なさらずとも、それがしには敵意などございませぬ」


「正体もわからず、顔も見せず、意図もわからない相手に警戒するなというのは無理がありすぎるんじゃないかな?」


「これは失礼を」


 僕の皮肉に率直な謝罪の言葉が返ってくる。その声には不思議と誠意らしきものが感じられ、こちらに対する悪意は読み取れない。


 声の主はひときわ目立つ大樹の陰から姿を現した。若葉色の衣服を身にまとった若い女性だ。いくつかの衣を重ね着したような装いは僕も初めて見るものだった。衣の長い裾が地面からわずかに浮いているだけで、足もとはすっぽりと隠れている。一方で袖はなく、肩口からむき出しの腕はまばゆいほどの白さを見せている。締め付けの緩そうな装いにもかかわらず凶悪なまでに主張する胸のふくらみが、スタイルの良さを物語っていた。


 緑髪紅眼。髪の長さは肩口までと短く、楚々として歩く姿はどこぞの高貴なご令嬢を思わせた。もちろん、こんな場所にひとりきりでいる以上、そんなわけもないのだけれど。


 女性は迷いのない足取りで僕へ近づいて来る。足もとには石くれや落ちた枝など障害物があちらこちらへと散乱しているにもかかわらず、まるで絨毯の上を歩く貴婦人のような優雅さだ。同時に妙な艶めかしさを帯びているように感じるのは、僕が欲求不満なだけだろうか。


「そこで止まれ」


 そのままだと遠慮なくこちらの間合いに入って来そうな雰囲気だったので、十歩ほどの距離で制止する。


「はい」


 思いのほか素直に従った女性は立ち止まると姿勢を正して頭を下げる。


 なんだこれは?


 敵……ではなさそうだけど、かといって味方とも思えない。少なくとも前線都市では見たことのない顔だし、そもそもこんな場所へひとりだけでいるというのもおかしな話だ。


 こちらの出方を窺っているのか、口を閉ざしたままの女性に訊ねる。


「あなたは?」


「……クオンと申します」


 僕の問いかけに一瞬寂しそうな顔を見せた女性が自らの名を口にする。


「ここで何を? どうして僕を観察していたのか、教えてくれるとありがたいんだけど」


 こういう話の切り出し方が正しいのかはわからない。とりあえず問答無用で襲いかかってくる敵ではないのかもしれないけど、だからといって味方であると決まったわけじゃない。


「ひとつ、お知らせしたいことがございましたので」


「知らせたいこと? 僕に? それとも前線都市にかい?」


「無論、他ならぬ上様へ」


 何が無論なのかさっぱりわけがわからない。そもそもなんだ? 上様? 誰かと勘違いしているのだろうか?

 僕の表情を読み取ったクオンという名の女性が言葉を続ける。


「ご困惑は至極もっとも。しかしこれだけは申し上げておきます。それがし、誓って上様の敵ではございませぬ」


「いや、突然現れた見ず知らずの人にいきなりそんなことを言われてもね……。それを信じる材料も証明するものも何ひとつないし」


 逆に疑う理由ならいくらでもある。人間同士が一丸となって天魔へ対抗するため協力しているとはいえ、中にはそれを良しとしない人間だっているんだ。権力闘争なんてやってる場合じゃないのにね。


「でもまあ、少なくともこっそり近付いて背後から突き刺そうとか、そういうつもりはないんだよね? 姿を見せたってことは」


「する必要もなければしたいとも思いませぬ。上様に向ける刃など、それがしは持ち合わせておりませぬゆえ」


 うーん……、よくわからないんだけど。なんで『上様』なんだろう? もしかして誰に対してもそうなのかな。だったら気にするだけ無駄なんだろうけど。


「それで、知らせたい事って何なのかな?」


 とりあえずこちらに対して害意はなさそうだと判断して、話を促してみる。


「はい、今回の襲撃についてです」


「今さっき僕が戦った天魔たちのこと?」


「その通りです」


「あの天魔たちがどうしたって?」


「今回の襲撃はきたる本格的な侵攻のために放たれた斥候――いわば威力偵察にすぎませぬ。近いうちに城塞都市へ大規模な攻撃が行われます。ゆめゆめ油断なさらぬよう」


「は……?」


 彼女の口から伝えられた内容が僕の思考を一瞬止める。


「本格的な侵攻? ……どうしてあなたにそれがわかるんだ?」


「独自の諜報網から得た、とだけ申し上げておきます」


 なんだそりゃ。唐突に根拠もなくそんな話をしたところで、こちらがあっさり信じるとでも思っているんだろうか。


「どうしてそれを今ここで僕に? その情報が本当なら前線都市の司令部へ直接伝えるべき話じゃないのかな?」


「それがしは」


 言葉を句切って向けられるのは紅色の瞳。そのまぶたが閉じられると、彼女はうやうやしく頭を下げて言葉を続けた。


「ただ御身が無事であればそれで良いのです。城塞都市など落ちようが落ちまいがどちらでも構いませぬ」


 やっぱり誰かと僕を勘違いしてるんじゃないだろうか? 僕にはそんな接し方をしてくるような知り合いはいないはずだ。


「僕、あなたとは初対面だと思うんだけど」


「……」


 突き放すように言うが、それに対して彼女は無言を貫く。

 お互い距離を測りかねるような静寂が訪れる。それを終わらせたのは彼女の方だった。


「お伝えしたいことはそれだけです」


 最後にそう言い残すと、山盛りの疑問を残したまま立ち去って行った。

 その後ろ姿を見つめながら、僕の意識はもたらされた情報よりもむしろ得体の知れない彼女自身という存在にからめ取られていた。


「なんだったんだ……」

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