第100話 All works and no play makes me Depression.

 日本語では「良く学び、よく遊べ」と訳されることが多いが、英語のことわざで、”All works and no play makes Jack a dull boy.”というものがある。Jackは一般的な男性の名前であり、より、英語の意味に近づけて訳すと

「働いてばかりで遊びがなければ、つまらない人間になってしまうよ」

という感じであろうか。


 上野先生が亡くなり、北村先生も夜の診察、当直から撤退され、患者さんを診察する速度も落ちてきた。午後の診察は私が中心となって仕事をするようになり、午前診は月~土まで毎日、午後の診察は月、火、木、金、土(水曜日が休みのように見えるが、水曜午後は私の訪問診療の時間)、夜の診察も月~金まで担当し、唯一の休日である日曜日も土曜日の当直や日曜日の医療講演会、バス旅行などで休めないことが多かった。平日はAM7:00頃からPM8:45頃まで働き、ヘロヘロの状態だった。当直のない土曜日は、何とか家族と一緒に夕食が摂れ、日曜日の昼も、私が休みの時は、簡単だがスパゲッティを私が作っていた。


 「子供の頃の思い出の風景」ってあると思っている。私の子供の頃の風景は、当時は午前中に授業があった土曜日、小学校から帰ってくると、亡くなった父がテレビで競馬中継を見ていて、それを一緒に見ながら、母が作ったお昼ご飯のチャーハンを食べていたことが強く印象に残っている。なので、子供たちの記憶にも、「日曜日にお父さんの作ったスパゲティを食べる」ということを心の原風景として残ってもらえれば、と思っていた。


 いつの間にか子供たちも小学生、中学生になり、子供たちと同じ屋根の下で暮らすのも半分を過ぎてしまう頃となった。


 ハードな仕事でも自ら率先し、やる気をもって行なうのであれば、それほど疲れを感じないのかもしれないが、理事会は疑心暗鬼で殺伐とした雰囲気が流れ、本当にひどいストレスを毎回感じていた。事務課長と理事長が互いに理事会の会話を録音し、その週に会話を文字起こししてもらい、議事録として確認するようメールと文面が回ってくる。文字に起こしたその議事録に目を通すのもストレスであった。


 健康の会の仕事は、「会員の方を大切にしたい」という思いはあるが、それと同時に火中の栗を拾いに行ったという面もあったので、それはそれでしんどかった。診察の合間を縫って事務作業を行なう。行事の直前には残業をして深夜まで準備にかかっていた。


 日々の診療は、もちろん大切にしているのだが、これまでにも書いたように、突然に重症の方が来るので、全く気が抜けないこと、午前の診察と夜の診察は第一診察室に源先生、第二診察室に私が入るのだが、時々第一診察室から聞こえてくる源先生と患者さんの会話と、その診断を聞くと、早期閉鎖バイアスのかかったパターン認識診断があまりにも目立ち、がっくりすることが多々あった。多くの場合、

 「薬をもらったけど良くなりません」

 といって、次に受診するのは私の外来である。源先生との整合性を持たせつつ(時には非常に無理にこじつけたりして)、不足した評価を行なったり、薬の修正をしたりするのはひどいストレスである。


 このころには、源先生の長男さん(It先生と呼ぶことにする)が、週に2回、診察に来られるようになった。It先生のご専門は精神科で、診療所で対応している身体疾患のプライマリケアに対応するのは時に難しい。It先生は午後診に来られるので、午後診は自分の診察をしながら、It先生の診察にも気を配ることになった。It先生は慎重な方で、初期研修必修化時代の先生なので、内科や小児科の初期研修もきっちり受けられておられた。なのでめったに的外れなことや無茶なことはしなかったので、私の出番が来ることはほとんどなかった。とはいえやはり隣の診察室のやり取りにもアンテナを張りながら診察をしていた。It先生が来られて有難かったのは、精神疾患を基礎とする身体化症状に難渋している患者さんを診てくださったことで、「さすが専門医」と思うことは多々あった。


 ただ、そんなわけで、私自身の内的なエネルギーが枯渇しているように感じるようになってきた。また、先ほど、子供や家族と過ごす時間のことを書いたが、源先生が子育てをしているときは、上野先生がお元気で、診療所の規模もそこまで大きくなく、夏には5日間の夏休みが取れていたそうである。


 源先生に悪気は全くなかったと思っているのだが、

 「子供たちが小学生の時に夏休みで言った石垣島の海は本当にきれいだった」

などと昼食時に思い出話をされることがしばしばあった。


 私は、診療所に来てから、5日連続で夏休みを取ったことはなく、上野先生が亡くなられてからは夏休みそのものを取っていない。子供たちを家族旅行にも連れて行ってあげられないことを心苦しく感じていた私にとっては、その話はザックリと私の心を罪悪感の刃で切りつけるに充分であった。


 そんな状態でも、重症の患者さんが来ればスイッチが入るのが医者の性なのか、ビシビシと看護師さんに指示を出し、診断のアタリをつけ、紹介状を作成、転院先の病院を探して救急隊に連絡、というのは脊髄反射のように身体が動くのだが、結局その後、落ち着くとさらに疲れている、という状態になっていった。


 正直なところ、源先生の診断能力ではときに危なくて、いつか患者さんの命にかかわることが起きそうで、おかしなときには私が動かなければ、と思っていた。


 患者さんのこともあり、上野先生への義理のこともあり、健康の会のこともあり、

 「俺、ずっとこの状態でここに縛られたままなのかなぁ。家族のための時間も持てないのかなぁ」

 と思うようになってきた。


 また、当直帯の仕事についても、前述の通り、だけが当直は毎回、事務当直兼医師当直をする、という状態が(しかも毎週当直があり、時には週に2回の時もあった)1年以上も続いているにもかかわらず、執行部が

 「それが

 と思っているようで、そのことはかなり不愉快だった。最初の話では「常勤医師の二人は」という条件ではなかったか?!


 理事長の当直時はすぐ(1,2回で)事務当直が入るようになったのに、私だけ状態が改善されることがないとはどういうことなのだろうか。以前にも書いたように、二人分の(しかも別々の)仕事を一人でこなすのはとても大変であった。しかもそれをこなしていることに対して何の手当もつかない。感謝の言葉もない。私としては診療所のために粉骨砕身しているつもりなのだが、私を酷使しても、誰も私に感謝するわけでもなく、何の申し訳なさも感じていないのだなぁ、と思うようになってきた。


 過労で、自分の心のエネルギーが枯渇していることを強く認識するようになっている、ということは、

 「自分自身が、抑うつ状態に陥っているのだなぁ」

と自己診断に至るに充分であった。


 不思議なことに、3階のフロアでは医局にだけ、転落防止用の柵がついており、隣の大部屋の病室の窓には柵がついていなかった(3階の個室の病室にはちゃんと柵がついている、念のため)。自分が心の調子を崩すまではそんなことには全然気づいていなかった。院長室兼当直室にも柵はなく、その隣の食堂は、緊急時の避難経路になっているので当然柵はついていない。今の診療所の建物は私が事務当直をしているころに新築したもので、設計をしているときに、

 「患者さんは飛び降りないけど、医者は飛び降りるかもしれない」

 と考えて柵をつけたのかもしれないなぁ、と思うと、面白く思ってしまった(たぶんそんなことは考えていないと思うが)。


 外来診察を終え医局に戻るときに、入院患者さんのいない大部屋に入り、柵のない窓を眺めながら

 「ここから身を投げることでしか、この状況からは逃れられないのかなぁ。でも、そんなことをしたら、診療所に患者さんが来なくなるだろうなぁ。この高さからなら、この真下に自転車置き場の屋根があるから、落ち方次第ではケガだけで済むかなぁ」

 などと考えるようになった。しかし、これはまずい兆候であった。

 「希死念慮」

 と医学的に言うが、自死を考えるようになる抑うつ状態は重症であり、危険なサインである。我ながら

 「これは専門医の治療が必要だ」

と自覚した。


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