第96話 かかりつけ医としてのちょっと長めの歴史
Wさんご一家も古くからの診療所かかりつけの方であった。私が20代で診療所の事務当直をしていたころ、診療所は繁盛していて、8:45からの受付であったが、8時の時点で十人近く、順番待ちの患者さんが来られていた。Wさん、という苗字は少なかったので、時々その時間に受付を待っておられたWさん、という患者さんの苗字は記憶に残っていた。
医師として診療所に赴任し、1年が過ぎたころだったか、Wさんのご主人(80代後半)が腹腔内腸管外ガスを主訴に入院された。Free airと呼ぶことが多いが、ほとんどは消化管穿孔が原因となる。ただし、これはのちに文献で見つけたのだが、消化管穿孔を伴わない、原因不明のfree airも高齢者ではまれにみられるとのことであった。
休日に当直医が入院を上げていた。私も不勉強で、消化管穿孔を伴わないfree airが高齢者で見られることがある、ということを知らなかった。腹部所見では明確な腹膜刺激症状を認めず、血液検査でも炎症反応の増加を認めなかったが、多量のfree airを認めていた。ご家族には外科のある高次医療機関への紹介を提案したが、
「診療所でこのまま診てほしい」
とのご家族の希望だったので、診療所で管理することとした。
Free airがあるのに、経口摂取とするのも不安なので、絶食とし、輸液で管理を行なった。経過とともにfree airが減少すれば、経口摂取を再開してもよいだろうと思っていたが、あまりfree airの改善はなく、点滴での経過が長くなってきた。奥さん(Wさん)はこまめにお見舞いに来ておられた。お互いご年配のご夫婦だが、ご夫婦の仲は良く、Wさんがご主人に
「『生まれ変わっても一緒になってくれる?』と聞くと、ご主人がうなずいてくれてうれしい」
と喜んでおられたことを今でも覚えている。
栄養管理の点では、診療所には中心静脈穿刺用のキットがなく、本当はCV lineを入れて、高カロリー輸液で管理したかったのだが、末梢輸液で管理をせざるを得ず、ご主人は徐々に弱ってこられた。その頃には経口摂取も困難となっており、入院から2か月ほどでご主人は永眠された。
その後もWさんは基本的に上野先生の外来を受診され、上野先生が不在の時には私の外来に受診されるようになった。Wさんも90代となっており、時に、歩きづらさを訴えられたり、手のpill-rolling tremorを認めた。他覚的所見でも、Cog-wheel rigidityがあり、Parkinson症候群が疑わしいと思った。カルテに上野先生に向けて、Parkinson症候群の可能性があることについて記載したが、上野先生は経過観察とされていた。
ある日、Wさんが、熱が出た、とのことで受診された。当日の採血では炎症反応の上昇はそれほどではなく、ご本人は
「入院したい」
とおっしゃられたが、その時点ではあまり重篤感もなく、自宅で経過を見ることが可能と考え、いったん自宅で経過観察とした。しかし翌日にも来院され、
「しんどさが強くなった」
とのこと。発熱も38度台となり、血液検査で炎症反応も上昇していたので、私を主治医として入院とした。
CTRXを開始し経過を見ていたが、数日の経過でバイタルも不安定となってきた。診療所での治療には限界があると判断。ご家族に来てもらい、
「大きな病院で精査しましょう」
とお話しし、近隣の急性期病院に転送とした。
2か月ほど経っただろうか、同院から、状態が安定したので当診での加療の継続、退院後の生活調整依頼で転院の依頼があった。もちろん受け入れOK。
同院での診断は、収縮性心膜炎、拘束性拡張障害による心不全、心嚢液貯留との診断であった。発熱の原因ははっきりせず、コルヒチンで対応している、とのことだった。
Wさんは、以前のような元気さは戻っておられたが、下肢筋力が低下しており、これまでの様には歩けなくなってしまった。なので従前の独居生活は難しくなった。施設を調整し、診療所からはかなり遠くの施設になったが、施設入所され、私が訪問診療を行なうこととなった。
長年、訪問診療を継続していると、いろいろと面白いことが出てくるもので、ご主人の入院中には、上記のように
「生まれ変わっても、また一緒になってくれる?」
とご主人に尋ね、ご主人のうなずきに喜んでおられたのに、
「実はご主人以上に好きな人がいたが、戦争で亡くなってしまい、それでご主人と結婚した」
と衝撃の告白をしてくださったりした。
「あぁ、そうだったのですね。やはり戦争は嫌ですね」
とお伝えしたが、ご主人の入院中のあの言葉は何だったんだろう、と少し女性不信に陥ったりした(笑)。
とはいえ、この年代の方にはそのような話が多い。ご主人が戦死されたので、その弟さんと再婚された方、結婚直前で婚約者が徴兵、戦死され、その後独身を貫いていた方など、戦争がたくさんの人の人生を狂わせていることを、お話を伺うたびに実感する。
そんなある日、Wさんの息子さんの奥さん(W嫁さんと略す)が、腹痛を主訴に私の外来に受診された。カルテを見ると、半年以上前から便秘、腹部不快感で源先生の外来に通院されていたが、精査はされずにstool softenerとして酸化マグネシウムを処方され、経過観察となっていた。
腹部診察では腹部は膨隆し、緊満している。触診では右側腹部あたりが強く緊満し、圧痛も強かった。技師さんに緊急で腹部CTを撮影してもらうと、横行結腸に狭窄があり、その口側の大腸は著明に拡張していた。
悪性腫瘍に伴う大腸閉塞と診断、人工肛門造設での緊急の減圧処置など、緊急かつ積極的な外科的治療が必要と判断し、急性期病院へ紹介とした。残念ながら、大腸がんとしては進行しており、肝臓や他臓器への転移も見つかり、大腸がん stage4の診断。姑息的に人工肛門を造設し、抗がん剤治療を行なうこととなった。
Wさんの訪問診療に行くと、
「調子が悪い、と聞いたときに『診療所に行くなら、絶対保谷先生の外来に行きや』と言うてたのに…。なんで言うことを聞いてくれへんかったんやろう…」
と残念がられていた。それはとてもありがたいお言葉だと思った。
医学の世界に後出しジャンケンは禁止だが、カルテを見ると、「調子が悪い」と最初に受診したときから、明らかに「しっかり調べないと」と思う所見だったのである。
W嫁さんは治療にもかかわらず病状は進行。
「最期は家で亡くなりたい」
と希望があり、私が訪問診療を担当することになった。ご自宅に訪問すると、以前のお元気なときとは全く変わり、ひどくやせこけ、明らかに終末期の状態だった。呼気からは死臭のようなにおいを感じ、
「あぁ、状態は厳しいなぁ」
と思った。状態が悪いので、翌週も訪問に来ます、とお伝えしたが、その3日後に永眠された。
古参の看護師さんから聞くと、嫁-姑関係は必ずしも良好ではなかったとのことだが、それでも、Wさんは、
「私より若い人が亡くなるのはつらい。私は十分長生きしたから、私の寿命をあげたかったよ」
と悲しまれていた。それは本心だったのだろう。繰り返し
「最初に保谷先生にかかっていれば」
と繰り返しておられた。
その後もWさんの訪問診療は続いた。Wさんも数えで99歳となられていた。お部屋には、息子さん、お孫さん、曾孫さんが集まった集合写真を飾られていた。この時代の方は、お子さんが今よりも多いので、血族全員集合、と集合をかけるとかなりの人数になる。
私の祖母が90歳で亡くなり、3回忌だったか7回忌だったか、伯母さんが集合をかけると、祖母の娘が私の母を含めて3人。それぞれが3人、3人、2人の子供(つまり祖母から見て孫)を持ち、孫たちが家族をもってひ孫ができているので、一族で集まると30人以上になった。Wさんの白寿のお祝いの写真も、それくらいの人数が集まっておられた。すごいものだなぁ、と思ったことを覚えている。
Wさんも加齢に伴い、徐々に衰弱されてきていたが、私が病気で休職してしまったため、申し訳ないことに私の訪問診療は終了となってしまった。
診療所を退職後、スタッフと連絡を取ると、残念なことにWさんも亡くなられたそうである。
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