第90話 鑑別診断に上がってない疾患は診断できない。

 ある日、診療所に電話がかかってきた。以前源先生が訪問診療で診察をされていた方の奥様からだった。息子さんご夫婦は現在ヨーロッパにお住まいであり、お孫さん(息子さんご夫婦のお子さん)はヨーロッパで医師の仕事をされているとのこと。今回息子さんが所用のため日本に帰っておられるが、数か月前から全身倦怠感がひどく、現在お孫さんが全身検索中とのこと。全身倦怠感は全く改善していないので、日本に滞在している1週間の間、往診と点滴をしてほしい、との依頼だった。


 基本は源先生が往診に行き、点滴をするが、私の往診日は、私が往診をして、点滴をしてほしい、と源先生から依頼された。もちろんOK。そんなわけで、訪問診療日にお宅に訪問した。


 ご自宅に訪問し、ご本人を見て、大変驚いた。


 進行した悪性腫瘍の方は身体もひどく痩せて衰弱しており、この状態を「悪液質(Cachexia)」と呼ぶのだが、患者さんの第一印象は、まさしく「悪液質」そのものだったからである。源先生のお話では、お孫さんは悪性腫瘍についてはかなり検索を行ない、現時点では悪性腫瘍は同定されていない、とのことだった。しかし、仮に悪性腫瘍による悪液質だとしたら、その生命予後は1ヶ月持つか持たないか、というほどの衰弱ぶりだった。


 少し体調などについてお話を伺ったが、診断につながるようなヒントはなく、その日は50%糖液とビタミンB群の入った1号液 500mlの点滴を行なった。


 患者さんはしんどい身体を引きずって、何とか所用を終え、1週間の滞在を終えて、患者さんはヨーロッパに戻られた。


 それから2か月ほど後だったか、源先生からお話があった。

 「保谷先生。先生に一度点滴をしてもらった、あの衰弱した患者さん。娘さんが精査に精査を重ねて、『副腎不全』の診断だったよ!」

 と教えてくださった。


 なるほど!副腎不全か…。病名を聞いて、すごく納得した。おそらくかなり重度の副腎不全だったのだと思われた。


 「副腎不全」と呼んだり、「Addison病」とも呼ばれる病気である。健康な体では、副腎という10g程度の臓器から、命の維持に不可欠な副腎皮質ホルモン(ステロイドホルモン)が身体の状態に合わせて、合成、分泌されている。何らかの原因で副腎皮質ホルモンが作られなくなると、もちろん命に不可欠なホルモンが欠乏するので、様々な不調を訴え、時には命を落とすこともある。あの悪液質を疑わせる病態は、副腎皮質ホルモン不足で命の危機を迎えていたことを表していたのだ、と理解した。


副腎皮質ホルモンが不足すると、脳下垂体から、副腎皮質を刺激して副腎皮質ホルモンを作らせようとACTH(AdrenoCorticoTrophicHormone:副腎皮質刺激ホルモン)が多量に分泌される。このACTHはMSH(メラニン細胞刺激ホルモン)の作用も持っているため、皮膚が黒っぽくなることがしばしばである。普段のご本人の皮膚色を診ていないので、何とも言えないが、確かに日焼けしたような、少し黒っぽい肌をしていた印象だった。副腎不全、Addison病は電解質異常や不自然な低血糖で発見されることが多いのだが、源先生の取られた血液検査では、電解質異常もなく、血糖値も正常だったので、気づかなかった。全く私の想定していない疾患だった。


 診察、診断は推理小説を読むことと似ている。実はいろいろな伏線が張られているのだが、その伏線に気づくかどうかが問われており、推理小説を逆から読むように、診断から後ろを振り向くと、そのたくさんの伏線に気づくのである。この患者さんは、命に関わるような全身状態で、悪液質の様だ、と私は気づいていたのである。ぐったりした人なのに、不自然に健康的な日焼けをしているなぁ、と思っていたのである。伏線には気付いていたが、自分の鑑別診断の中に、「Addison病、副腎不全」が上がっていなかったので、診断に結びつかなかったのであった。


 悪性腫瘍で悪液質が強い場合は、身体の中のサイトカインと呼ばれる信号伝達物質が暴走している状態なので、それを抑えるのに「副腎皮質ステロイド」製剤を結構多めに投与するのである。なので、「悪液質だ」と思った時にステロイドホルモンを投与しておけば、患者さんはすぐに体調がよくなったはずなのである。


 現在他国で精査中の方であり、日本滞在中も源先生が主治医、となっていたので、お願いされた様子観察と点滴をすることしかしていなかったことに、強く反省した。

 ただ、下手にステロイドホルモンを投与すると、炎症反応など、様々な兆候をマスクしてしまうので、主治医でもないのにステロイドを投与するのはできれば避けたいところでもある。


 ICUで管理されている患者さんは、しばしば相対的に副腎不全となっていることがあるため、コートロシン負荷試験を行ない、相対的副腎不全の有無を評価すべき、という文献を昔読んだように記憶している。


 副腎不全は気づかなければ命を落とす疾患なので、訳の分からない衰弱の時には、必ず鑑別診断に「副腎不全」を入れようと強く決意した。


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