第87話 青天の霹靂

 Hさんは70代前半の男性だった。軽度の高血圧で数年来私の外来に通院されていた。私の外来診察は、定期通院中の方なら

 「体調はいかがですか?」

初診の方なら

 「今日はどうされましたか?」

 から始めるようにしている。これも、教科書的だと言われそうだが、外来診察はopen-ended questionから始める、というのが基本である。受診された患者さんが感じていること、思っていることを何でも話していただこう、ということである。


 診療所では、月に1回の受診を基本としていたので、毎月、

 「調子はどうですか」

 と声をかけ、少し言葉のやり取りをしながら、血圧を測定し、身体診察を行なう。Hさんは血圧も安定しており、診察であまり問題になることはなかった。

 私の外来では、定期通院の方は半年ごとに採血をするように心がけていた。なので、Hさんも定期的に採血をしていた。その時も、あまり深く考えず、

 「前回の採血から半年ほど経っているので、定期の採血を確認させてください」

 と伝え、採血を行なった。その2日後、検査センターから緊急のFaxが届いた。Hさんの採血データがおかしい、とのことだった。白血球が増えており、白血球の形態を顕微鏡で確認すると「芽球」と呼ばれる未成熟な細胞が多数検出されていた。急性骨髄性白血病を強く疑う検査結果だった。半年前の採血では全く問題がなかったので大変驚いた。この結果では1か月後の受診まで待てない。すぐにHさんのお宅に電話をかけ、

 「ご家族と一緒になるだけ早く受診してください」

と伝えた。


 その日の夜の外来に、Hさんは一人でお見えになられた。ご家族と一緒に来てほしかったのだが、何か事情があるのだろう、「しょうがない」と思い、検査センターから届いたFaxをお見せし、

 「おそらく急性骨髄性白血病という病気だと思います。血液内科のある病院に紹介状を用意し、血液内科外来の予約も取ります。しんどい治療になりますが、頑張りましょう」

 とお伝えし、紹介状を作成、受診の段取りをした。


 近年は、白血病の治療成績もよくなってきているのだが、それでもうまくいかない人もおられる。2か月ほどしたある日、紹介した血液内科から、訪問診療の依頼が届いた。

 「化学療法(抗がん剤治療)で、寛解(骨髄の肉眼的な検査で、悪性の細胞が消失した状態)導入を目指しましたが、治療経過は不良で、寛解導入できませんでした。年齢的にも骨髄移植の適応ではなく、緩和ケアの適応と思われます。診療所での訪問診療を希望しているのでお願いしたい次第です」

 とのことだった。その紹介状では、予後は1~2か月程度、とのことだった。もちろん訪問診療、在宅での看取りを目指した体制を作り、私が診ていくこととなった。


 血液内科を退院された後、Hさんは外来に受診され、

 「今のところ、そんなに調子は悪くないので、しばらく外来に通院します」

 とおっしゃられた。ご本人の希望なので、通院できる間は通院してもらい、通院ができなくなったら訪問診療にしましょう、ということで話をつけた。


 予後は1~2か月、とのことだったが、Hさんは3か月ほど、外来にお元気そうに通院されていた。もちろん、結膜を見ると明らかに貧血を認め、血液の状態は良くないのはわかったが、それを感じさせないほどのお元気さだった。

 4か月ほど経ったころか、

 「ちょっと通院がしんどくなってきました」

 とのことで訪問診療を開始した。訪問診療を開始してからわかったことだが、Hさんは認知症の奥さんの介護を担っていたのだった。認知症の奥さんと二人暮らしで、あまり医療、介護の介入を希望されず、Hさんが看ておられたようであった。

 訪問診療に行くと、Hさんは布団やベッドには寝ておらず、畳の上に直に横になっていた。長年、Hさんはそうやって眠っておられたのだろう。介護ベッドの導入なども提案したが、「いらない」と断られた。


 訪問診療も2か月ほど続いただろうか。血液内科医の予想を大きく上回り、6か月近く自宅でHさんは過ごされた。感染には非常に弱い状態なのに、マスクと手洗いで乗り切っておられた。経過中発熱など、感染を疑う症状は全く認めなかった。


 ある日の朝、AM7:30頃だったか、様子を見に来られた息子さんから、

 「父が亡くなっているようです」

 と電話がかかってきた。急いで自転車でご自宅に駆け付けたが、Hさんはいつものように、畳の上で横向きとなった状態で息を引き取られていた。


 血液内科医の予想を超えて長生きされ、本当にお疲れさまでした、と思いながら診療所に戻り、死亡診断書を作成した。


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