第85話 もっとしっかり聞けばよかった!

 とある当直の夜、「数日前から下痢がひどい」とのことで診察の依頼があった。当診には受診歴のない方だったが、腹痛はなく、症状はひどい下痢だけ、とのことであり、時間帯もそれほど遅い時間ではなかったので受診してもらうことにした。


 患者さんと奥さんで来院された。ご主人は40代前半、とのことだがずいぶん痩せておられ、ずいぶんとフラフラされていて、奥さんが横で支えている。診察室への入室もゆっくりだった。

 診察室で病歴を確認すると、腹痛はなく、以前から下痢傾向だったのが、前日から下痢が急にひどくなってきた、とのことだった。嘔気はなく、腹痛もないとのこと。タバコはそれなりに吸い、お酒もそれなりに飲む、との本人申告だった。特に下痢の原因となるような生ものなどは食べていないとのことだった。


 「便の色は普通ですか?血便などはでていませんか?」

と確認したが、

 「便の色は普通です。血便ではないです」

と答えられた。


 身体診察を行なう。外観はsickな感じがして、なんとなく顔色が悪い。血圧は90代と男性にしては低い。結膜は貧血様だった。心音は雑音はないが頻拍の印象、呼吸音に異常を認めない。腹部は平坦、軟で圧痛ははっきりしなかった。腹部触診でおなかを刺激したためか、「便がしたい」といわれたので直腸診ができず、ご本人をトイレに案内した。


 ご主人が診察室から出られ、トイレに入られると、奥さんから「実は…」とお話があった。ご主人の自己申告ではお酒はそれなり、とのことだったが、実はお酒ばかり飲んで、食事も食べない状態とのことだった。2日で日本酒の1升瓶を3本ほど飲んでしまい、金銭的にも、ご主人のお身体的にも破綻しそう、とのことだった。


 これまでの病歴聴取と、ご本人の「便の色は普通」ということから、上部消化管出血は否定的かなぁ、と考えた。そうすると下痢は食事をとらないこととアルコール多飲に伴う浸透圧性の下痢の可能性が高い、と考えた。低血圧は頻回の下痢に伴う脱水、低容量性ショックに近い状態かと推測した。


 いずれにせよ、血圧が低く、ショックに近い状態なので、

 「ご主人がトイレから戻ったら、高次の医療機関に紹介しますので、今から受診してもらいましょう」

 と奥さんにお話しした。ご主人も戻ってこられたので、

 「おそらくひどい下痢で、身体の中を回っている血液の水分量が少なくなって、十分に身体の隅々まで血液を送れない『低容量性ショック』という命にかかわる病態が考えられます。当診では十分な検査、治療ができないので、十分な検査ができる大きい病院を紹介します。今から受診してもらうよう段取りします」

 とお伝えした。ご主人も納得され、すぐに転院先を探した。転院先は比較的すぐに見つかり、紹介状を作成、ご本人、奥さんに

 「この足ですぐ受診してください」

と伝え、転院先に向かってもらった。


 患者さんが出発し、カルテも以前に書いたように、患者さんが診察室を出てから大急ぎで、きっちりと病歴や身体所見を記載し、10分ほどで完成させた。取りあえず一仕事済んだと思い、小用を足そうと外来トイレに入ると、患者さんの便で、トイレが結構汚染されていた。その便を見て、私は

 「しまった!!」

 と衝撃を受けた。患者さんの便は真っ黒で、いわゆるタール便であった。自分の問診を振り返り、

 「便の色は普通ですか?血便などは出ていませんか?」

と聞いたことを悔やんだ。

 「便の色はどうですか?血便や、海苔の佃煮のような真っ黒い便は出てないですか?」

 と聞くべきであったと猛省した。上部消化管に多量の出血があると、血液は下剤の働きをして、患者さんは黒色の下痢(タール便)をするのである。便を見ると患者さんの診断は上部消化管出血。多量の飲酒歴があるので、食道静脈瘤破裂を考えなければならなかった。ショックバイタルも、低容量性ショックだけでなく、出血性ショックを考慮する必要があったのだ。それですべて合点がいった。もしそうなら、タクシーではなく点滴路を確保して救急搬送すべきであったのだ。


 当直の看護師さんは、連絡しなければ外来には降りてこないので、看護師さんをつけずに診察したのも私の判断ミスだった。看護師さんに連絡し、外来トイレの清掃をお願いし、自分のミスを悔やみながら当直室に戻った。


 数日後、転院先から返信が届き、診断はやはり食道静脈瘤破裂であった。緊急内視鏡を行ない止血処置、輸血も行なった、とのことだった。ちょっとした問診の言葉で、重大な疾患を見逃してしまうこと、逆に見つけることができることを痛感した次第であった。



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