第81話 健康の会

 上野先生の世代は、学生運動華やかなりし時代に学生時代を過ごされておられた。上野先生も、大学時代に医学部の自治会長をされていたそうで、市民活動家の方とのつながりも強かったようであった。そのような先生であったから、先生が心血を注いだこの診療所も、「上野先生の」診療所ではなく、「住民みんなの」診療所でありたいと考えておられた。


なので、患者さんたちが「出資金」という形でお金を出し合って、医療生協、という形での診療所にしようと活動されたのだが、制度上の問題で、医療生協を作ることができなかった。集めたお金を出資者に返そうとしたのだが、多くの患者さんが

「このお金は、診療所のために使ってください」

と返金を受け取ってくださらなかったそうである。そこで上野先生はそのお金を基金として、患者さんたちのつながりを大切にする組織として、「万米ヶ岡共同診療所健康の会」を発足させたとのことである。健康の会は診療所とは別の組織であるが、診療所と連携するために、診療所側から、事務局員として1名、健康の会の会長さんや幹事さんとともに会の運営を担うスタッフを出していた。


 しかし、その頃の内部の不安定さで、事務局の仕事をしていたスタッフも退職することになってしまった。次の事務局員を誰にしてもらうか、ということでも理事会が紛糾した。理事会前に、候補となりそうな人に、理事長が内々に打診したそうだが、

 「お手伝いはするが、事務局の仕事はしません」

 と固辞されたとのこと。これも無理に話を進めるとその人が退職する可能性が高く、強くは押せなかった。誰が事務局を担うのか、どんどん理事会の雰囲気は悪くなっていった。どう考えても人材不足である。引き受けてくれそうな人はいない。上野先生がどのような思いで「健康の会」を作られたか、私はもちろんその場にはいないのだが、その思いを引き継がなければ、と思った。誰もしないのなら、その思いを知る私がせざるを得ないだろう、と考えた。上野先生と患者さんの想いの結晶である組織なのである。その意義を踏まえず、いやいや仕事をしてもらうのは適当ではない、と考えた。

 「じゃぁ、僕が事務局をします」

といって、紛糾する理事会を落ち着かせた。火中の栗を拾ったわけである。


 ということで、1年半ほど、事務局の仕事も兼任した。金銭面の管理については私一人では心もとないので、「お手伝いはする」といってくれたスタッフに、金銭の出納についてはダブルチェックをお願いしたい、と伝え、それは承諾してもらった。


 半世紀以上続く「健康の会」だが、診療所側の事務局員が「医師」という事態は当然初めてだった。事務局の仕事の引継ぎも満足にできないまま(前事務局員が、その前の事務局員から仕事を引き継いだ時は1年半かけて引き継いだのに、私への引継ぎは数時間だけであった)、健康の会の会長さんや幹事の皆さんに支えてもらいながら、一生懸命健康の会の仕事も行なった。年4回の会報の文章作成依頼や、健康の会主催の医療講演会の準備、日帰りバス旅行の下見なども行なった。2か月に1回の幹事会は、私の訪問診療日に行うこととし、それまでより30分開始時間を繰り上げてもらった。私も訪問診療に出発する時間を30分繰り下げ、何とか1時間を捻出して幹事会に参加させてもらうようにした。


 医療講演会については、もともとは4人の医師が交代で担当していたのだが、上野先生が亡くなられ、北村先生も年齢的に厳しくなり、私と源先生で行なうことになってしまった。


 私が演者の場合は、演者である私が会場の設営もして、参加者の出席を取り、お茶を配り、医療講演会の司会は「私」。開会のあいさつをして、会長にも挨拶をしてもらい、本題の講演はまた「私」が行う。質疑応答もして、閉会の挨拶をし、参加してくださった会員の方を見送った後、会場を片付け、施錠。出席者と、講演会のハンドアウトをファイリングし、後日、会報に載せるための文章を自分で書く、という私ばかりが頑張る仕事であった。


 源先生が演者の時も、私が準備や後片付けをすることとなり、すべての医療講演会に関与した。


 日帰りバス旅行については、前もって会長と下見に行き、どこで休憩し、どこで昼食をとるか、などを考え、会報に募集広告を出し、予定人数分の領収書をあらかじめ作成し、未記入のリストを張り付けた封筒を事務所にわたし、受付した人の名前を空欄に記入し、お金を封筒に入れ、領収書を渡してもらうようにお願いした。

 旅行会社さんとのやり取りは、会長や私からも連絡を取り合い、参加者に対する日帰り旅行中の不慮の事故に対する保険を掛けたり、出席者名簿を渡して、適切な大きさのバスを用意してもらったり、工程の詳細について打ち合わせしたり、なども仕事だった。

 事務スタッフが健康の会の事務局を務めていた時は、当直明けの平日に下見に行っていたのだが、私は日曜日以外は休みがなく、しかも、土曜日に当直に入ることも多かったので、当直明けにそのまま下見に行く、ということが多かった。


 バス旅行は、前日までに行程表と地図を人数分印刷、ホッチキス止めをし、参加人数分のネームプレートを用意、当日は集合場所に集合1時間前から荷物を持って待機し、出席者の確認、ネームプレートと行程表の配布を行なっていた。

 また、それまでは、日帰りバス旅行では、事務局員、看護師、医師の3人が診療所側からのスタッフとして出席していたが、私が事務局員兼医師となってしまったので、看護師さんともう一人診療所からスタッフに出席をお願いしていた。バスの中で、私が色々なものを配布すると、参加者の皆さんがかえって、

 「先生にそんなことまでしてもらって」

 と恐縮されることが多かったが、そのような仕事をすることはそれほど苦ではなかった。


 また、年度明けの4月には年会費の徴収の仕事があり、これも会員さんのリストを作って、前もって会報で年会費の支払い開始日を伝えておき、人数分の領収書を作成、実際の集金は受付で行なってもらっていた。一か月程度で、一旦封筒を回収し、健康の会事務局用PCで、会費を払っていただいた方を記録する、という作業も行なっていた。


 そんなわけで、毎日、午前診、午後診、夜診を行ない(土曜日の夜診のみ私の枠がない)、水曜日には訪問診療に出かけ、当直の日は先に述べたようにハードな当直を(私一人だけ)こなしていた。また、余談ではあるが、診療所の清掃についても、営繕のスタッフが週に3日お休みなので、スタッフが休みの日は、朝に外来の男子トイレの掃除を行なっていた。


 ここまで庶務に尽力して、なおかつ、ベビーカーから墓場まで、あまり外すことなく診療を行なえる医者が私以外にいれば、ぜひお会いしたいものである、私自身は、なんて便利な医者なんだろうと思っている(そういえば、同級生の産科の先生(女性)は、ご実家が食堂を経営されており、医師の仕事が休みの日は、家の手伝いとして、ウェイトレスもしていたとおっしゃっていた。彼女も立派だと思う)。

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