第77話 Tさんの思い出
Tさんも、私が診療所に来てからいろいろとかかわりを持った人である。
もともと、繊細で時に神経質なところもあったTさんは、古くからの診療所のかかりつけ患者さんであった。あまりにひどい嫁いびりに耐え切れず、単身故郷からこの地に逃げてこられたそうである。駅前の小さなアパートで細々と暮らしておられたようで、60代となり、年金生活に移行する際に、とても年金だけでは暮らしていけない金額だと上野先生が気付かれ、上野先生が尽力されて、年金をもらわない代わりに生活保護を受給できたようである。
私が診療所に来た時点で80代の半ば、特に華美な生活はされておらず、だが、困窮することもなく、改めて上野先生の慧眼に感心する次第であった。
また、Tさんは私が来る5年以上前にParkinson病と診断され、内服薬を飲まれていたが、私が来た後の8年間、合わせて15年近く、Parkinson病の進行はなく、(Parkinson病の診断は、大学病院レベルの高次医療機関の専門医が診断されており、誤診の可能性は低いと思っているが)そんな人もいるものだなぁ、と思うほどであった。
独居生活の不安感や、徐々にご自身が衰えていくことの不安からか、数年来ずっと上野先生の訪問診療を受けていたにも関わらず、ご自身でタクシーを呼び、診療所にご自身で来られ、
「しんどい、体調が悪い」
といって診察を受けられることが多々あった。
最初に私が入院を受け持った時、舌の右側方に白板化した病変を認め、
「白板症であり、扁平上皮癌の可能性があるのでは?」
と上野先生に伝えたが、先生のお考えがあったのだろう。同部位については上野先生は精査を行なわなかった。数年後、近くの歯科を受診した際に病変を指摘され、O大学歯学部付属病院を紹介された。同院を受診され、
「扁平上皮癌の疑い」
との紹介状を私の外来に持ってこられ、
「ありゃりゃりゃ」
と思った記憶がある。
「しんどいので入院したい」
と言って、しばしば入院希望を訴えられたが、実際に入院しても多くの場合院内の検査ではほとんどの場合問題はないので、そのような理由で受診されても、
「家で様子を診ましょう」
といって帰宅としようとするのだが、
「入院させてほしい」
といって聞かないことが多かった。そんなわけで、3回に1回くらいは入院としていた。入院中に胃カメラを含め、全身の検索を行なったが、明らかな病変はなく、
「大腸カメラは年齢を考えると辞めといたほうがいいと思うけど、それ以外のところは特に問題ないですよ」
と説明したこともあった。
上野先生が亡くなられてからは私が訪問診療に伺うことになり、毎回の往診で、いろいろ思っている不安などを傾聴した。身体所見は特に変わりはないが、やはり時々
「体調が悪いので入院したい」
と来られることがあり、ご本人の訴えも漠然として、院内検査も問題ないことが多く、
「やはり不安感の身体化かなぁ」
と思うことが多かった。
舌の病変については歯学部付属病院で定期診察を受けておられたようで、ある日こちらに紹介状が届き、手術の可否についての情報提供依頼があった。こちらでの投薬内容、わかる範囲での臨床経過をまとめ、歯学部付属病院に返送。舌の病変については手術することとなった。
手術はそれほど大きな侵襲を伴うものではなかった(おそらく年齢を考えてのことだろう)。2週間ほどで退院され、少し舌が回りにくくなったようだが、後は特に変わりなかった。舌の術後、自宅での独居生活が本当に不安になり、入院、あるいはショートステイの希望が激しくなり、ケアマネージャーであった当院のスタッフと相談し、一旦入院し、施設調整を行ない、施設入所へと段取りを進めた。無事に施設も決まり、施設へ入所。施設は市と市の境界付近にあり、交通の便は悪いところだった(車があれば問題ない)。
Tさんは、部屋の窓から墓地が見えるから嫌だ、といいながらも、施設で過ごしておられた。その間に2回ほど、歯学部付属病院で舌の手術や歯根部の手術などを受けておられた。
年齢による老衰のせいだと思われるが、徐々に食事量が低下。ご本人がどうしても診療所に入院したい、と希望され、2週間程度だよ、と伝えて入院してもらった。各種検査は問題なく、食欲低下は老衰によるものだと考え、ご本人にもその旨説明した。
ぼちぼち退院調整しないとなぁ、と思っていたある日の朝、回診のため、Ns.ステーションに立ち寄ると、当直の看護師さんから、
「保谷先生、Tさん、おかしいねん。昨日の晩からずっと、便が出そう、といい続けて、ポータブルトイレから動かへんねん」
と報告を受けた。季節は寒いころだったと思う。Tさんの病室に行くと
「便が出ぇへん、便が出ぇへん」
といいながら、Tさんがポータブルトイレでかがみこんでいた。身体を触るとずいぶん冷たくなっている。
「Tさん、身体もずいぶん冷えているし、いっぺんベッドで身体温めよう」
と声をかけ、何とかTさんをベッドに戻した。訴えからは、下部消化管穿孔、あるいは下部の腸管虚血で直腸反射が亢進し、強い便意が出ているのだろうと考えた。いずれにしても、予後不良と思われた。採血と、1号液で点滴路を確保、腹痛が強いのでペンタゾシン15mgを筋注とした。
院内の緊急血液検査は大きな変化はなし。腹部CTを撮影したが、Tさんはやせておられたので、内臓脂肪が全くなく、また腸管ガスもずいぶん貯留しているので、どれが腸管内ガスで、どれが腸管外ガスか、また、便塊についても少量見られたが、腸管内のものか腸管外のものか区別がつかなかった(後日、放射線科医の読影でも「内臓脂肪が少なく、所見をつけるのは困難です」と返ってきた)。
午前診を終え、Tさんのところに行くと、Tさんは意識もなく、血圧も低下していた。看護師さんが個室に移動させており、心電図モニターもついていた。カルテには後追いで個室移動、モニタ装着の指示を書き、そのまま経過観察とした。
Tさんはご自身では「天涯孤独」と言っておられたが、市役所の方では息子さんの所在を確認しており、一度ケアマネージャーが、Tさんがお元気な時に息子さんに連絡したそうだが
「死んだら連絡ください」
といって電話を切られたとのことだった。そんなわけで、息子さんには連絡はしておこうと、私が電話をかけ、息子さんに病状をお話しした。
「わかりました。ありがとうございます。亡くなったら連絡ください。葬儀については市役所の方に一任します」
とのことだった。それはそれでしょうがない。
その後Tさんはさらに血圧が低下し、その日の夜診前に永眠された。生前、Tさんは
「自分はどんな病気で命を落とすのだろう?長い間病気で苦しむのかしら?」
とすごく心配されていた。私も、何か見落としがないだろうか、とずいぶん心配していたのだが、あっという間の出来事であった。息子さんと、市役所のケースワーカーさんに連絡し、市の手配でTさんは葬儀屋さんに引き取られていった。
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